第5話 ノブクリーク
2月の夜風が、ガラス越しの灯りを揺らしていた。
モールの外れにある通りは、人通りも少なく、足音が雪を踏む音だけが響く。
その奥に、ネオンサインの小さな灯りがぽつんとともっている。
店の名は……
R66【ルート・シックスティシックス】
店内にはオールディーズが流れていた。
壁に貼られたブリキの看板、古びたポスター、パブミラーが飾られ、ネオンサインの光が静かに滲んでいる。
扉が開く。
カラーン……コローン……
「こんばんは」
いつものようにカウンターの奥から、低く穏やかな声が返る。
「いらっしゃい」
女は軽く頷き、コートを脱ぎながらカウンターの右端の席に腰を下ろす。
「ねえ、マスター」
「はい」
「……強めの、ひとつ。何か、お任せで……」
マスターは少しだけ目を細めて、グラスを取った。
「了解」
「ねぇ……笑ってよ、マスター」
女はふっと息をついて、バッグの中から小さな箱を取り出し、カウンターの上に置いた。
「チョコ、渡せなかった」
「……そうですか」
「33歳の女が、26歳の男に告白なんて……重いかなって。怖くて……結局、チョコすら渡せなかった」
マスターは黙って、棚から一本のボトルを選んだ。
アメリカのバーボン、“ノブクリーク”。
度数が高く、味も香りも濃い――けれど、どこか品があって、芯のある酒。
「……ノブクリーク。熟成のしっかりしたバーボンです」
トクトク……と琥珀色の液体がグラスに注がれる。
氷はなし。ストレートで。
「どうぞ」
女はグラスを手に取り、ゆっくり口に運ぶ。
「……うん、強い。でも、美味しい」
「バーボンは、人生に似てるところがある。焦って飲むと喉が焼ける。でも、じっくり向き合えば、しっかり染みる」
「……それって、“年齢のこと気にするな”って意味?ふふっ」
マスターは、答えず、微笑んだままグラスを拭いている。
女は少しだけ笑った。
「……この子、ずっと鞄の中にいたのよ。今日、やっと外に出してあげたのに」
「本命のチョコ、渡したかったな……」
「……」
グラスの脚を、指先でくるくると回す。
「恋愛って、何歳になっても、不器用ね」
「でも、渡したいと思えたんですよね?」
女は目を伏せたまま、小さくうなずいた。
「うん。好きだった。ずっと」
「じゃあ、明日でもいいじゃないですか」
「……え?」
「バレンタインは過ぎたけど。1日遅れでも、気持ちは届きますよ」
女はグラスの中の琥珀色を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……明日、……渡せたらいいな」
マスターは軽く頷いた。
「そのチョコ、冷蔵庫で預かっておきますか?」
女は笑い、首を横に振った。
「ううん、大丈夫。持って帰る。……たぶん、明日渡しに行くから」
やがてグラスが空になる。
女はコートを羽織り、鞄を持つ。
「ごちそうさま。……また来るわ」
「……"冷めない"うちに、渡せるといいですね」
「……?……あぁ……ふふ、ありがとう」
_____________
カラーン……コローン……
扉の向こう、夜風が静かに吹いた。
冷たかったはずの風が、どこかやわらかく感じられた。
勇気を持って一歩踏み出すことで、外の世界まで変わるような気がした。
足元の雪が、ぎゅっ、ぎゅっと小気味よく鳴る。
その音は、これから歩く未来のリズムのようだった。
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