第2話 ノヴェッロ


 11月の夜風が、街の灯を揺らしていた。風は鋭く頬を刺し、吐く息は白く……すぐに消えた……。


 モールを抜けた先、静かな通りの店にネオンサインが灯っている。



 店の名は……

R66【ルート・シックスティシックス】


 店内には、オールディーズが流れていた。壁には古びたナンバープレートやブリキの看板。

 

 静かに息づくその空間には、古き良きアメリカの面影が残されていた。


扉が静かに開く。


カラーン……コローン……


「こんばんは」


 

 ドアの音に応えるように、カウンターの奥から低く穏やかな声が返る。


「いらっしゃい」


 グラスを拭いていたマスターが、振り返る。女は軽く会釈をし、コートを脱いでカウンターの右奥に腰を下ろした。


「……ピノ・ノワール、ありますか?」


 マスターの手が一瞬だけ止まる。軽く目を細めて、女の顔を静かに見つめた。


「ピノ・ノワール……ありますよ」


「では、お願いします……」


「わかりました」


 マスターは棚の奥から一本を選び、小ぶりのグラスに、赤い液体をそっと注いだ。


 グラスの向こうで揺れる色が、照明を受けて静かに輝いている。


「どうぞ」


 女はグラスを手に取り、香りをひとつ吸い込んだ。


「……うん、落ち着く香りですね」


「ピノ・ノワールは、育つのが難しいぶどうだけど……それだけに、いい出来に出会えると、嬉しくなる。どこか、育てた人の想いが残ってるような酒です」


 女は小さく微笑みながら、グラスを口に運んだ。


 ほんのりと甘く、けれど芯のある味わい。

 寒さの残る体に、ゆっくりと染み込んでいく。


カウンターに沈黙が流れる。


 けれど、それは寂しさではなく、何かを整えるような静けさだった。


 やがて、女がぽつりと呟く。


「……息子が、今年の春に家を出たんです。就職で道外に」


 マスターは、うなずくだけで何も言わない。

 グラスを拭く手も止めず、その言葉の余韻に耳を澄ませる。


「賑やかだった家が、急に静かになって……今日みたいな夜は、ちょっと手持ち無沙汰で……」


「……なるほどね」


「何をすればいいのか……正直、よくわからないんです」


 女の指先が、グラスの脚をなぞるようにゆっくりと動く。


「部屋のドアが開いてるの、見慣れなくて……。いつも閉めっぱなしだったのに、今はもう、開けっ放しで」


「……うん」


「もう一杯、赤をいただけますか?……おすすめのものを」


 マスターは、新しいグラスを天井のワイングラスラックから取ると、冷やしておいた別の赤ワインをそっと注ぐ。


「……今のはピノ・ノワールでしたが、次はもう少し軽やかで若い赤。イタリアの“ノヴェッロ”」


 女が目を丸くする。


「ノヴェッロ?」


「新酒。熟成されていないぶどうの、勢いそのままのワイン。だから、味はまっすぐで、どこか未完成」


 女性は差し出されたグラスを見つめ、小さく笑った。


「…………子どもみたいですね」


「そうかもしれない。だけど、“もうここにはいない”って寂しさも、“ちゃんと巣立っていった”って証しでもある。……息子さん、どんな子でした?」


 少し間を置いてから、女は笑みをこぼした。


「……うるさくて、面倒で、生意気で……でも、可愛かったです。……気がつけば、家の中の音のほとんどが、あの子だったんだなって」


 グラスを持ち上げ、ひと口。


 ほんのり甘くて、フレッシュな赤が口に広がる。


「……軽いけど、優しいですね。美味しい」


「ノヴェッロは、今この瞬間を楽しむための酒。先のことも、昔のことも、あんまり考えずに」


 女は小さくうなずき、グラスをもう一度傾ける。



「……少しだけ、肩の荷が下りた気がします」


「いい夜になりましたか?」


「ええ……ひとりの夜でも、こんなふうに過ごせるなら、悪くないですね」


 静かに、女の表情が和らいでいく。


 やがてグラスが空になり、コートを手に立ち上がった女は、振り返って言った。


「……また来ていいですか?」


 マスターは「もちろんです」とうなずきながら、手にしたグラスを静かに拭いていた。


カラーン……コローン……


 扉の音が消えるころ、またひとつ夜が深まっていく。

 けれど、女の背中にあたる風は、さっきよりもやわらかかった。

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