煙草と天秤

すえのは

煙草と天秤

 梅雨のじめついた空気と煙草の濁った煙とはなぜこんなに親和性が高いのだろうと思った。肺の奥まで煙を吸い込んで長い時間を掛けて細々と吐く。煙草を吸わない奴にはさぞかし鬱陶しい嫌な匂いに感じるんだろう。去年別れた夏美にも煙草なんか止めなよと散々言われた。安アパートに同居してたので夏美と別れた後俺は部屋を出て、新居が見つかるまでの三週間、幼馴染みの怜矢のところへ転がり込んだ。昔から世話焼きの怜矢は厄介者の俺を嫌な顔一つせず受け入れて面倒を見てくれた。新居が見つかり同居を解消した後も、週に一度は怜矢の部屋へ行き一泊する。ちょうど明日――もう日付が変わったので、今日がそれに当たる日だった。

 近頃はベランダでの喫煙も禁止され、夜風に当たりながら一服するという情緒も味わえなくなった。何の面白みもない電灯の下、換気もしない狭い部屋に溺れるほど濃密な紫煙を満たしていく。怜矢は気管支が弱いのであいつの前で煙草は吸えない。同居していた頃も気を遣った。一度怜矢のために禁煙をしようとライターや灰皿を捨ててみたが、我慢できたのは一日だけで、ほとんど反射的にライターも灰皿も買い直し、痺れるようなニコチンの刺激に頭を浸した。匂いが残らないよう細心の注意を払っても怜矢は俺の体から敏感に煙草の匂いを嗅ぎ取って笑った。

「無理に禁煙しなくていいのに」

 俺が禁煙なんてできないことを怜矢は分かっていたんだろう。これまで一度も煙草を止めろとは言わなかった。お前のためならできると思ったんだよ、と、思わず言いそうになった。

 ふとスマホの時計を見ると深夜二時だった。眠いというより体が怠い。長々咥えた煙草の火をようやく揉み消し、電気も消す。薄いカーテンの向こうから街路灯の白い光が透けた。煙に拡散して霧状になっている。ベッドに横になると案外あっさり眠りに就いた。



 翌朝、窮屈な作業着に着替えて仕事に出掛ける。金曜だろうが何だろうが古い工場の製造の仕事は気怠い。俺だけじゃなく他の作業員も死んだような目をして働いている。世の中そんなもんなんだろう。楽園なんてどこにもない――仕事の合間、休憩室で煙草に手が伸びそうになる度、今夜は怜矢のところへ行くことを思い出し、手を引っ込めた。舌がちりちりしてたまらない。ポケットの硬貨をちゃらちゃら鳴らしながら食堂の自販機で強めのエナジードリンクを買い、喉に流し込んで騙し騙し脳を宥める。この脳味噌が腐ってさえいなければ、煙草にもエナドリにも頼らずに上手くこの世を渡っていけるんだろうか。何かを思ったり感じたりすることは非効率だ。俺の吐き出す煙草の煙のように鬱陶しい。わざとらしく喉を鳴らしてエナドリを飲んでいると、食堂のドアが開いて一人の金髪作業員が入ってきた。

「おっ、お疲れ」

 俺と同い年のその作業員は人懐っこく手を上げて挨拶すると、ポケットから百円玉と十円玉を出し、自販機の前に立って俺と同じエナドリを買った。俺なんかよりずっと陽気な奴だが労働の倦怠感は人並みにあるらしい。缶を開けてぐっとエナドリを飲む。

「ああ、疲れた。今日、暑くね?」

 梅雨らしく蒸し暑い日だった。大手の企業なら空調設備も整ってるんだろうが、ど田舎の古い工場の現場にそんな贅沢なものはない。暑さを感じたら各々空調の効いた休憩室や食堂に行き、体を冷やす。

「ハヤト、今日は煙草吸わんの? 一本も吸ってなくね?」

 金髪作業員は不思議そうに訊く。

「今日、友達んち行くから。そいつ、気管支弱くて会う前はあんま吸えない」

「あー、そうなん」

 ごくごくと、金髪は酒でも煽るようにエナドリを飲む。人の懐に入るのが上手い奴で、老若男女身分問わず誰とでも仲がよかった。

「なぁ、ハヤトは彼女えんの?」

 決して親しみやすいわけではない俺に対してもこんな突っ込んだ話をしてくる。

「いない」

「ずいぶん前に別れたんだっけ?」

「そう。ちょうど一年前」

「新しい彼女、探さんの?」

「いらねぇし、面倒くさい」

「そうなん。俺は今日、マチアプで知り合った子と会う」

「……元気だな」

「だって、ほしいじゃん、彼女」

「まともな奴来るのか?」

「うーん……色んな子が来るけどねぇ……」

 玉石混淆というやつだろうか。口振りからして相当遊んでるんだろう。どこにそんな体力があるんだろうか。俺は早々にエナドリを飲み干し、ゴミ箱に缶を投げ入れた。みんな好き勝手に飲んでは捨てていくのでゴミ箱はもう少しで溢れそうだった。折り重なって捨てられた缶やペットボトルは、まるで誰かの心の抜け殻のように、寂しく箱の中に横たわっていた。



 一週間の労働を終え、いったん自分の部屋へ帰る。西の窓から錆びた夕日が差している。煙草を吸ったらさぞ眩しい煙が立つことだろう。そんなことを思いながら一日中油煙を浴びた体にシャワーを当てる。体は清潔になっても内面はそうではない。妙なけちが付くようで癪だった。その後、外泊の荷物を纏める。荷物といっても持っていくのは着替えだけだ。トートバッグ一つで済む。怜矢の前で吸うわけではないが、精神安定剤として煙草も鞄の底に忍ばせる。あいつだったら自分の体も顧みず、一本くらい吸っても大丈夫だよと言うんだろうが、そう言われると意地でも吸いたくなくなる。手の届くところにあった方が落ち着くので持ち歩くだけだ。一人で下手な釈明をして部屋を出る。かしゃり、と鍵を掛けると、なぜかもう、どこへも帰れなくなるような、過去と未来の断絶を感じた。



 小ぢんまりとした住宅街をぶらぶら歩く。学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマン達と次々すれ違う。もうみんな夏の装いだった。夕日の光があまねく町を包む。すらりと伸びた電柱の先、撓んだ電線がどこまでも続いている。家々の玄関先や庭の垣根にはさつきが植えられ、熱っぽく芝居掛かった真っ赤な花が満開だった。怜矢の部屋まで歩いて十分。途中にある遮断器にも運よく引っ掛からずに済んだ。二階建てアパートの二階最奥の角部屋。そこが怜矢の部屋だった。年季の入ったドアをノックすると「はい」と聞き慣れた声がして、怜矢がドアを開けた。

「お帰り、ハヤト」

 同居してた頃の癖なのか、怜矢は今でも俺を出迎える時微笑んで「お帰り」という。それが決まり切った挨拶になっていたので俺も「ただいま」と返す。

「夕飯、まだだよね? 今日はパスタにする。あと、ほうれん草とハムと玉子でスープ作って、冷凍のハンバーグもチンしようと思ってる」

 食事もまた同居の時と変わらず甲斐甲斐しく振る舞ってくれる。俺も独居だが怜矢みたいに自炊はしない。もう料理の下拵えは済んでいるらしく、コンロの上では換気扇が回り、調理台には使い掛けの調理道具が並んでいた。ザルの中には切った野菜や茸が入っている。怜矢はすぐにキッチンに立って料理の続きを始めた。

「あと十分くらいでできるから待ってて」

 俺は手を上げて奥の洋室へ入りスマホを見た。十八時三十七分。夏至直前ともなるとこの時間でもまだまだ外は明るい。何か手伝えることがあればいいが、下手に手を出そうとすると「いいよいいよ。ハヤトは座ってて」と怜矢に止められてしまう。料理ができるまで待つしかない。

 元々怜矢は家事のセンスがよく、料理も洗濯も掃除も驚くほど手際よくこなした。そうしたセンスに恵まれなかった俺とは真逆だった。ちょっとスマホに目を落としているうちに目の前のローテーブルに次々皿が並べられ、あっという間に食事の準備が整う。宣言通り、ぴったり十分で仕上がった。二人で向かい合って座り「いただきます」と言って食べ始める。大人になっても忘れない母の味とか家庭の味というものがあるが、俺の舌はすっかり怜矢の味付けに慣れていた。

 幼少期の写真を見返してみても、怜矢は神や天使にでも愛されたかのような、奇跡的に綺麗な顔立ちをしていた。肌は白く触りたくなるほど滑らかで、集合写真の中にいても一瞬で人の目を惹き付けた。そのために昔からもてたし、変な奴にもよく付き纏われた。若い女が一目惚れしてこっそり手紙を渡すなんていうのはまだましな方で、親子ほど歳の離れた中年の男がしつこく付き纏ってきた時にはさすがに命の危機を覚え、泣きながら俺に電話してきたこともあった。ぶっきらぼうでいかにも不機嫌そうなオーラを放つ俺が隣にいるとちょうどいい虫除けになるらしい。二人でいる時に妙な輩に絡まれることはなかった。

「ハヤトがいてくれると安心する」

 怜矢が未だに俺を週一でこの部屋に招き入れるのは、そういう理由もあるのかもしれない。

 夕飯を終えたら食器を片付け、怜矢だけ風呂に入り、その後は夜中の十二時頃までだらだら過ごし、適当に消灯して寝る。普段自分の部屋でやることを、週末、この部屋でもやる。特別なことは何もない。ちなみに、泊まりの翌日は一緒に買い物に出掛け、一週間の間に必要なものをなるべく買っておく。纏まった買い物をする時は人手が多い方が助かる。

 怜矢は布団に入るとすぐに寝息を立てた。東の壁際に据えたベッドで南を枕にして寝る。俺は南の壁際に布団を敷いて東を枕にして寝る。俺と怜矢の寝具は壁沿いにL字型に並び、互いに頭を部屋の南東の角に向けて寝る形になる。これが女同士の寝泊まりなら二人仲良く布団を真横に並べて寝るんだろう。俺にはよく分からない距離感だった。

 怜矢の寝顔は今更わざわざ見なくても三週間の同居の間に散々見てきた。穢れを知らない純真無垢な寝顔ながら内実人に言えない苦労も抱えてきた。俺が夏美と別れた頃は怜矢も大変で、職を失った姉に仕送りをするんだと言って無茶なダブルワークをした。深夜のファミレスのバイトだったがここでも変な客に付き纏われ、朝になると疲れた顔で帰ってきて、過労とストレスで咳が止まらなくなり、ある日とうとう倒れた。ブチッと、自分でも頭が切れたのが分かった。すぐに仕送りもダブルワークも辞めさせ、変な客のことも店長と警察に相談し、とにかく安静にさせた。これがなかったら怜矢は今頃本当に天に召されていたかもしれない。それ以来、ちょっと体は弱くなったようだが、無事日常生活が送れるくらいには回復した。両親は自由奔放な怜矢の姉に愛想を尽かし金銭援助は一切しないと宣言したので、何か困り事があると姉はすぐに献身的に助けてくれる優しい弟に連絡してくるのだった。さすがに怜矢が倒れてからはそんなこともなくなった。

 目が離せないな、と思わせるような危うさが怜矢には常に付き纏っていた。同居解消後もこの部屋に足が向くのはそのせいかもしれない。



 翌朝、週末の開放的な空気に相応しく、外は清々しく晴れていた。

「梅雨の晴れ間だね。たくさん買いたいものがあるから雨が降らなくてよかった」

 洗濯物を干しながら怜矢は言う。俺の服は自室に帰ってから自分で洗濯する。窓際に掛けられた洗濯物を見ると洗濯干し一つでも性格が出るなと思った。ハンガーにシャツを掛ける時も怜矢はシャツが斜めにならないように慎重に掛けるし、そのハンガーを物干し竿に掛ける時も等間隔に掛ける。ずぼらな俺にはそんな几帳面な真似到底できない。

 ただで寝泊まりするのも気が引けるので床拭き掃除だけは手伝う。といっても、面倒な雑巾ではなく手軽なフローリングワイパーでやらせてもらう。もちろん俺なりに手抜かりなく隅々までやるが、怜矢の方が掃除だって上手い。汚れたシートを捨てフローリングワイパーを片付けると怜矢は微笑んで言った。

「ハヤト、ありがとう。綺麗になったよ」

 俺の労働に対する純粋な労いの言葉だった。本当に綺麗になったかどうかは問わない。

「じゃあ、行こうか」

 家の仕事も済ませ、連れ立って週末の買い物に出掛ける。二人分の大荷物を徒歩で運ぶのはきつい。青光りする怜矢のSUVでドラッグストアとスーパーを回り、適当に寄り道もして昼食も見てくる。本当は俺の車を出してやりたいが煙草の匂いが染み付いているので乗せてやれない。

 週末の混雑した道を、怜矢の車はゆっくり進む。FMラジオからは地元のイベントを紹介するアナウンサーの声が聞こえた。のどか過ぎて眠くなってくる。少しうとうとしかけた頃、怜矢のスマホから着信音が鳴った。

「あ、ごめんね。誰だろう、こんな時に。後で掛け直してみるよ」

 ずいぶん長くコールしていたが運転中なので出られない。電話が鳴り止み静かになると、俺はことんと眠ってしまった。

 車はすぐにドラッグストアに着き、俺は怜矢に起こされ二人で日用品の買い出しに繰り出した。その次はスーパーで食品を揃え、昼食はハンバーガーショップのドライブスルーで済ませる。怜矢はさっきの着信を確認したようだったが、俺の前では掛け直しもしなかったし誰からの着信なのかも言わなかった。

 買い物が終わると先に怜矢のアパートに戻り、怜矢の分の荷物だけ下ろす。それから俺の外泊の荷物を車に載せ、今度は俺のアパートへ向かう。ここで俺の荷物を下ろしたら週末の外泊は終わる。

「もう一晩、泊まっていってくれたらいいのに」

 俺のアパートに向かう道すがら、ラジオの音に混じって怜矢は名残惜しそうに言う。そうしてやりたいが、さすがに二晩も禁煙はできない。

「また来週行くから」

 そう言うのが精一杯だった。

「うん」

 怜矢も願いが叶わないことを分かり切った上で言うんだろう。友人の願いより煙草を取る俺は、自分が思うよりずっと冷たい人間なのかもしれない。



 俺の平凡な日常は梅雨の間も平凡なまま続いた。職場の金髪作業員はマチアプでいい出会いがあったらしく、毎日のように彼女と会うのだと言う。同僚に過ぎない俺の目にも浮かれて見えるのだから本当にいい出会いだったんだろう。

 平日は油煙にまみれて仕事をし、週末には怜矢の部屋へ泊まりに行く。息をするようにごく自然に、決まり切った当たり前のこととして、このサイクルは体に染み付いていた。

 怜矢は相変わらず「お帰り、ハヤト」と言って俺を迎えてくれる。ただ、最近怜矢は様子がおかしかった。二週間くらい前からだろうか。顔色が悪いしちょくちょく咳もする。怜矢に会う前は煙草の匂いがしないように気を付けているのに、梅雨の湿気で体が弱って敏感になっているんだろうか。

「怜矢、咳が止まらないならしばらく会うのはよそうか」

 そう言うと怜矢は怯えた目をして怖ろしいほど懸命に首を横に振った。

「それだけは嫌だ。咳が出るのはハヤトのせいじゃないから、来週も絶対に来て」

 咳交じりに懇願する。下手に距離を置くのは却って危ういのかもしれない。来週も泊まりに来る約束だけはしておく。

「何かあったら絶対連絡しろよ」

 そう言うと怜矢は大人しく頷いた。



 ばたばた雨の降る夜、狭い部屋で煙草の煙を吐きながら、これさえ止められればもっと怜矢の力になれることもあるだろうに、やはり俺は冷たい人間なのだろうなと思った。怜矢より煙草を取る俺を、怜矢は責めもしない。むしろ興味津々で「煙草ってどんな味がするの? 商品によって味が違ったりする?」なんて訊いてくる。俺に禁煙を望まないのかと訊ねると、怜矢は珍しくむすっとした顔で言う。

「僕のために煙草を止める必要はないよ。そんなことしないでほしいな」

 不思議な返答だった。俺が煙草を止めれば制限なく会えるのに。

 そう思いながら煙を吐いていると、突然スマホの着信音が鳴った。画面に表示されたのは一年前に別れた夏美の名前だった。急に頭に血が昇るのを感じた。連絡先の整理なんて一度もしたことがないので俺のスマホにはまだ夏美の名前が残っていた。あっちも連絡先を消さずにいたらしい。今更何の用だろうか。

「もしもし」

 煙草の火を消しながら電話に出ると、喉の潰れたアヒルのような粘ついた女の声が聞こえた。

『あ、ハヤトー? 今、暇ー?』

「何の用だよ」

『ねぇ、久し振りに会おうよ。もう部屋の前まで来てるんだ』

 は? と思った瞬間、ドアがドンドンとノックされた。乱暴な叩き方だった。面倒なことになったと思いながら重い腰を上げ、仕方なくドアを開ける。このままノックされ続けたら近所迷惑になる。

 夏美は酒に酔ってるらしく、ドアを開けた途端こちらにしなだれ掛かってきた。こんな雨の中傘も差さずに来たらしく、妖怪か何かのように濡れそぼっていた。露出の高いオフショルダーの肩口からつんと嫌な匂いがした。

「……おい、何なんだよ」

 咄嗟に受け止めはしたものの、俺は汚いものでも手放すように夏美を床に座らせた。全身濡れた体を受け止めたせいで俺のシャツも湿り気を帯びた。心底嫌な湿気だった。夏美の座り込んだ床もじわりと濡れる。

「ハヤト、久し振りー。会いたかったー」

 相変わらず派手な化粧と髪色をしている。こう雨に濡れては却って不気味だ。酒に呑まれた頭をしているのでは、そんな身繕いにだって気は回らないだろう。嗅覚だけはよく働くようで、部屋中に漂う煙草の匂いを察知し、顔を顰めた。

「ハヤト、まだ煙草吸ってんの? 禁煙しなって言ったじゃん」

 そう言ってふらつく足で立ち上がり、壁のスイッチを弄って電気を消す。

「……何すんだよ」

 アパートの前に立つ街路灯のせいでこの部屋は電気を消しても真っ暗にはならない。鬱陶しい薄明かりが差してくる。夏美は何に躓くんだかがたがた物音をさせて再度俺に抱きついてきた。

「おい」

 避ける間もなく夏美は酒臭い唇を俺の唇に押し当ててきた。反射的に夏美の体を引き離す。

「何すんだよ、さっきから。離れろよ」

「やだ。ハヤトはあたしのものだもん」

 体中の血という血が怒りを持って激しく脳へと駆け昇った。

「ふざけんなよ。お前とはもう別れただろ」

 夏美は喉の奥でくつくつと笑った。

「……ねぇ、ハヤト。知ってた? レーヤくん、最近コンビニでバイト始めたみたいなんだよ」

 ……は?

 呆然とする俺を見て夏美はなおも笑った。

「ハヤトは知らなかったんだ。夜中に働いてるみたいだよ。大変だよねぇ、レーヤくんも。本業だってあるんでしょう?」

「……何でお前がそんなこと知ってんだよ」

「あたしがレーヤくんの働いてるコンビニに客として行ったからだよ。……レーヤくんに再会したら、あたし、急にハヤトのこと思い出しちゃって。こうして来ちゃったってわけ」

「…………」

「レーヤくん、今でもハヤトと仲良しなんでしょう? ずるいよねぇ。あたしは彼氏と別れたばかりでどん底なのに、レーヤくんはあたしの元カレと今でも仲良しなんて。……普通に許せないと思わない?」

 どうやら俺以外のどこぞの男と別れてやけになっているらしい。夏美は泥のように重い体を俺に押し付けてまた唇を押し当ててきた。今度は舌を出して俺の下唇を舐める。俺が顔を逸らさなかったら口の中にまで酒まみれの舌を入れてくるつもりだったんだろう。夏美は掻き抱くように俺の肩を掴み、右耳に唇を押し当てて言った。

「楽しいよねぇ。人の大切にしているものをこうやって横取りするのって。……レーヤくん、ああ見えてすっごく嫉妬深い子だし、あたしとハヤトがこんなことしてるって知ったら、どう思うだろうね」

 俺は夏美の肩を押して体を離した。

「ふざけんなよ。お前が勝手にやってるだけだろ」

「……でもね、やったもん勝ちなんだよ、こういうのって。気持ちがどうとかじゃないの。やっちゃえばもうこっちのものなの。……ねぇ、分かるでしょう、ハヤト」

 夏美の手が俺の太腿に触れた。

 ここで怒りに任せて夏美を突き飛ばしていたらこいつはテーブルの角にでも頭をぶつけ、もしかしたら俺は殺人鬼になっていたかもしれない。あまりに急なことで咄嗟に体が動かなかったのは幸いと思うべきだろうか。短絡的で後先考えないのはお互い様だが、この身勝手で女々しい激情に嫌気が差して俺は一年前の梅雨、夏美と別れた。

 夏美は際どいところを触りながら俺の胸に顔を埋め、譫言のように言う。

「あたしは今でもハヤトが好き。大好き。誰にも渡したくない。ずっとあたしのものでいて」

 そう言いながら斜め掛けしていたスマホショルダーからスマホを取り出し、何回かシャッターを切る。足元が覚束ないほど酔っていたせいかそれ以上のことは何もせず、夏美は笑いながら床に倒れた。

「いい写真が撮れた」

 どんな写真を撮ったのか俺には分からない。確かめる気にもならなかった。体がじめじめして気分が悪い。夏美はふらふらと立ち上がると足腰の弱った老婆のようによたよたと玄関の方へ向かった。

「じゃあね、ハヤト。バイバイ。――今度会ったら、もっといいこと、いっぱいしようね。楽しみにしてるから、あたし」

 靴を履くのが面倒だったのか、夏美は靴を手に持ち裸足のまま部屋を出ていった。外は土砂降りの雨だ。窓から外を見ると、夏美はふらつきながら夜の住宅街を裸足で歩いていった。追い掛ける気にも介抱する気にもなれない。ただ俺の目の前から消えてくれれば何でもよかった。あんな酔いどれ女、そのうち警官にでも見つかって保護されるだろう。



 それから数日後の週末、俺は体に染み付いた習慣に従い、外泊の荷物を持って怜矢の部屋へ向かった。怜矢は疲れた笑みを浮かべて俺を出迎える。

「……お帰り、ハヤト」

 先週とは比べものにならないほど痛ましく弱々しい声だった。すぐにごほごほと噎せて涙目になる。中に入ると夕飯の支度の形跡もなくキッチンは静かだった。俺は奥の洋室に荷物を置き、単刀直入に訊ねた。

「……何かあっただろ、怜矢」

「…………」

「何があったのか全部言え」

 怜矢はキッチンと洋室を隔てる壁に背中を付け、悲しそうに笑った。

「……色々ありすぎて、何から話せばいいのか分からないよ」

 そう言って激しく咳き込む。話し声より咳をする声の方が大きかった。

「怜矢、お前、コンビニでバイト始めたって本当なのか?」

「…………」

「まさかまた姉さんに金を無心されたんじゃないだろうな」

「……当分、アパートの家賃が払えないから立て替えてほしいってお願いされて……」

「断れよ、そんなの。お前の姉だって子供じゃない。家賃くらい自分で働いて払えばいいだろ。何でお前がそこまでするんだよ」

「姉さんのこと助ける人、誰もいないから……」

「そんなことしてたら今度こそお前は本当に死ぬ。分かってんのか?」

「…………そうかも……しれないね……。でも、もうどうでもいいかな。疲れちゃったよ、僕……」

 怜矢は顔を伏せてぽとりと涙を零した。

「……僕は怖かった。ハヤトが、今日は来てくれないんじゃないかと思って、ずっと怖かった」

「……何でそう思った?」

「ハヤト、夏美さんと会ったんでしょう?」

 俺は忘れかけていた吹き上がるような怒りをふっと思い出した。

「……何でそんなこと知ってる?」

「夏美さんから連絡が来たから。ハヤトと何をしたのかも教えてくれたよ。……写真まで送ってきた」

 久々にブチリと頭の切れる音がした。あいつがあの時写真を撮ったのは怜矢への当て付けのためだったのだ。

「ハヤト、夏美さんと復縁するの?」

「そんな気持ち悪いこと二度と言うな。確かに俺は夏美と会ったけど、全部向こうが勝手にやってきたことだ。好きでやったわけじゃない」

「……そっか……」

 納得したのかしないのか、そう呟くと怜矢は涙交じりに咳き込んだ。今度はなかなか止まらない。呼吸も覚束ないほど長い咳だった。

「おい、大丈夫か」

 倒れそうになる怜矢をベッドに座らせて背中を擦る。

「……僕はずっと怯えてたんだ。いつかハヤトが僕の目の前からいなくなって、遠くに行っちゃうんじゃないかって、ずっと怖かった」

「……どこへも行いかねぇよ。行くあてもないのにどこへ行けって言うんだよ」

 咳の落ち着いた怜矢は苦しそうに息をしながら俺の顔を見上げ、手探りで俺の手に触れた。今この手を掴んでおかないと本当に神や天使に愛されてあの世へ連れて行かれそうだった。

「僕がこんなだから、ハヤトにはいつも迷惑掛けてる。いつか愛想を尽かされるんじゃないかって不安だった」

「俺は何かお前を不安にさせるようなことしたのか?」

 怜矢は弱々しく首を横に振った。

「ハヤトは何もしてないよ。僕が勝手にそう思ってるだけ。……ごめんね。弱音ばっかり吐いて」

「俺はお前が元気ならそれでいいと思ってる。遠くへ行くこともないし、お前を嫌いになることもない」

 俺はポケットからスマホを出した。

「連絡先の整理なんてしたことないけど、夏美の連絡先は消す。あいつとは二度と関わらない」

 怜矢に画面を見せながら夏美の連絡先を出し、画面右上のゴミ箱のマークを押す。夏美とはメッセージアプリでしか繋がってないのでこれを消せば連絡は取れなくなる。たった一度の画面タップで夏美の名前は俺のスマホから消えた。

「怜矢、最近咳してたのってダブルワークのせいだろ。コンビニのバイトなんて今すぐ辞めろ」

「……店長からも体調心配されてたから、そうするよ」

「また変な客に付け狙われたんじゃないだろうな」

「それはないから、安心して」

 そう言うと怜矢はベッドに手を付いて立ち上がろうとした。

「夕飯、作らないと」

「そんな体で作れるわけないだろ。大人しく寝とけ」

 怜矢の腕を引っ張ってベッドに寝かせる。このまま寝てしまったら俺がどこかへ行ってしまうかもしれないと思ったのか、怜矢は俺の手を掴んで離さなかった。

「どこにも行かないで、ハヤト」

 まるで子供が母親に甘えるようだった。

「どこにも行かねぇよ。ずっとここにいる」

 そう言いながら怜矢の目尻に残った涙を指で拭う。怜矢は咳き込みながら言った。

「……ハヤト、今日は来てくれてありがとう」

「……いつものことだろ。俺はお前のためなら何だってする。禁煙も、してほしければする」

「それはしなくていいよ」

「何で」

「僕はありのままのハヤトが好きだから。僕のために好きなものを止めるなんてしてほしくない。これからも、そのままのハヤトでいてほしいな」

 そう言って、やや血色の戻った顔に微笑みを浮かべた。



 よほど疲れていたのか怜矢は眠り続けた。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思うほど深い眠りだった。さすがに一晩飲まず食わずでは腹が減るのでコンビニで食料だけは調達したが、それ以外は約束通り怜矢のそばにいた。

 神や天使は毎晩この寝顔を愛でているんだろう。散々見尽くしたと思っていた寝顔も改めて見ると可愛いもんだった。滑らかな頬に指を滑らせると天罰でも下ったのか指先にびりっとした痛みが走った。さらりとした髪には触れても天罰は下らないらしい。怜矢の髪を指に絡めているうちに俺も段々眠気が強くなり、ベッドの縁に頭を預けてだらしなくぐうぐう眠った。



 ふと目が覚めるともう朝だった。怜矢はとっくに起きてキッチンで玉子を焼いている。俺の肩には怜矢が掛けてくれたらしい布団が掛かっていた。

「ハヤト、おはよう。昨日はごめんね。横になって寝られなくて疲れたでしょ」

「……そんなことより怜矢、もう動いていいのか」

「うん。気分もずいぶんよくなったから」

 トーストと目玉焼きとハム、それからインスタントコーヒーをテーブルに並べ、怜矢は席に着いた。身支度を整えた俺も怜矢の向かい側に座る。食べる前に怜矢はスマホを出した。

「コンビニの店長には退職の連絡をしておいたよ。それからね、僕も、姉さんとは縁を切るよ。……きっと、僕が甘やかすから、姉さんは強くなれないんだ」

 怜矢は昨日俺がやったようにスマホの画面を俺に見せ、姉の連絡先を消した。

「夏美さんからのメッセージも全部消したよ。連絡先も消した。ダブルワークももうしない。約束する。だから……」

 怜矢は昨日よりずいぶん元気になった顔で、甘えるように俺を見つめた。

「来週も、来てくれる?」

 こういう時、笑って安心させてやれればいいんだろうが、愛想を知らない俺はこんな時でも笑えない。ただ頷いていつもの調子で言う。

「もちろん来るよ。もうこの生活、体に馴染んじゃってるからな。今更習慣は変えられない」

 感情を素直に表現する怜矢は梅雨の街角を染めるさつきの花のようにぱっと笑った。

「よかった。来週はちゃんと夕飯作るよ」

「無理すんなよ」

「無理なんかしないよ。僕も大切なハヤトのためなら何だってしてあげたい。ただそれだけだよ」

 柔らかな刺激が胸に走ったのは、やはり神や天使からの嫉妬の天罰なんだろうか。怜矢が俺を選んでくれたのなら、俺もそれを大事にするまでだ。もう無茶をして体を悪くしないように怜矢を見守る。神や天使は俺がその責務を全うするか、ずっと監視を続けるだろう。

 何でもないありふれた土曜の朝、梅雨明け直前の朝日が差す部屋で、怜矢の用意してくれた朝食を口にする。慣れた味が、舌に触れた。



(終)

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