第二話 レオナの決意
家の隙間から冷たい風が吹き抜ける夜、パーシヴァルはゆっくりと顔を上げる。震える唇から、言葉を紡ぎ出そうと喉を動かした。
「レオナ……来てくれ……」
リビングにいたレオナは、久方ぶりに聞いた師の声を耳にするなり寝室に飛び込んだ。パーシヴァルは軋む体を起こす。
「ああ、お師匠。まだ寝ていなくちゃダメだよ」
レオナは萎んだ師の肩に手を置き、寝かせようとする。だが、パーシヴァルはその手を制す。
「聞きなさい、レオナ」
苦しさを押し殺したような目で、パーシヴァルはレオナを見る。師の気迫に押され、レオナの手が止まった。
「わしはもう……長くない。先の邪悪な魔法を止めるのに……力を使い切ってしまったようだ」
浅い息と共に、パーシヴァルは掠れた声を出す。それは声というより、殆ど呼吸に近い。
「お師匠……どういう事? 僕、すっごく怖いよ。お師匠がどっか行っちゃいそうで怖いんだ」
レオナは師の言葉の意味は分からなかった。けれども、師の姿が今にもかき消えそうに思えた。
「悲しむでない、レオナよ。わしはもう十分生きた。これもかつて、魔法を使いすぎたツケが回ってきたのかもしれぬ」
レオナは悲しみに押し潰され、大粒の涙を溢す。弱っていく師の姿から目を背けるように、涙が目を覆った。
「ただ、わしはお前のことだけが気がかりだ。お前も見ただろう? あの赤い光を」
パーシヴァルの顔が強張る。レオナはあの悪夢の日が脳裏に浮かんだ。禍々しく、空を塗り潰さんと広がる赤い光。あの光のせいで、レオナの日常は狂ったのだ。
「あの邪悪な光は、魔王のものだ。長き時を経て、魔王の封印が解けたのかもしれぬ」
"魔王"という言葉を聞いて、レオナは戸惑う。幼い頃、レオナはベッドで眠る時に、師から昔話で聞いた事がある。人間達を滅ぼそうとした恐ろしい魔王。だが、今なぜ師匠がその話をしているのか分からなかった。
「ま……魔王? で、でもお師匠、あれはただのおとぎ話だよ」
「あれは本当の話だ。わしはかつて魔王と戦い、封印した。だが、長き時が経ち、封印は解かれたのだ。レオナよ……お前に渡したいものがある」
パーシヴァルは僅かな力を振り絞り、ベッドの下から何かを取り出す。レオナの身の丈ほどある大きな筆箒だ。ひどく古びているが、毛先は新品のように白い。
「遅くなったが、誕生日祝いだ。杖が欲しかっただろう?」
「そんなのいらないよ! 僕、お師匠に元気になって欲しいよ」
レオナは筆箒を受け取ろうとしないが、パーシヴァルは黙ってレオナの手に筆箒を乗せた。
「これから先……お前には邪悪な力が襲いくるだろう。それは時として、お前の心を砕くかもしれぬ。そんな時……この筆箒はお前を守ってくれるはずだ」
パーシヴァルはレオナに筆箒を持たせる。袖から覗く血色の悪い腕は、枯れ木のように細い。レオナは師の力に押され、筆箒を手に持った。その姿に、パーシヴァルは安堵の笑みを浮かべる。
「忘れるでないぞ……レオナよ。挫けぬ心があれば……その杖が応えてくれる。邪悪な力に……屈しては……ならぬぞ……」
最期の言葉がレオナの耳に入る前に、パーシヴァルは目を閉じ、ベッドに伏せた。師の腕がベッドから垂れ下がり、レオナは茫然とする。師から託された筆箒の落ちる音が、耳の中で反響した。パーシヴァルはベッドで寝ていた。だが、寝息は聞こえてこなかった。
「お……お師匠?どうしたの……? お師匠……」
頭の中に渦巻く不安を拭うように、レオナはパーシヴァルに呼びかける。その言葉に対し、師の返答は永遠に無い。師を呼ぶレオナの声が、次第に涙ぐむ。応えが無くとも、レオナは師を呼びたかった。師の温もりを感じていたかった。だが、冷たくなった師匠の体がそれを拒む。師匠はもう動かない。話しかけてもこない。そんな残酷な現実だけが、十二歳の少年の目の前に広がる。誰か助けを呼ばないと。レオナは考える前に筆箒を拾い、家の外へと飛び出した。
その日、少年は初めて師の言いつけを破った。雪に閉ざされた道を、レオナは当てもなく足掻く。筆箒に縋り、小さな足で雪中を行く。だが、そんな無策な子供を嘲笑うように、吹雪が牙を剥いた。吹雪の時、パーシヴァルは決してレオナを外に出さなかった。その訳を今、レオナはその身で感じている。助けを求めるように、レオナは筆を抱きしめた。凍てつく風が、レオナを掻き消そうと吹き付ける。粉雪に晒され、レオナの視界が霞む。家の暖炉の温かさを恋しく思うレオナ。だが、師の姿を思い浮かべると、進まずにはいられなかった。
どのぐらい進んだか、レオナはよろめきながら筆を握っていた。露わになっている細い手首は悴み、赤く染まっている。疲れ果てた体は、寒さで動きを鈍らせていた。
その時、レオナの耳にけたたましい音が響いた。音と共に、目の前に微かに見える黒く細長い物が倒れた。一つ、また一つと薙ぎ倒されていく。地面がぐらつき、レオナは揺れに翻弄される。音は近くなり、生臭く白い吐息がレオナの真上に漂った。巨大な怪物が、涎を垂らしながらレオナの目の前に現れる。熊のようだが、歪にねじくれた角が生え、背中には蝙蝠のような翼が生えていた。熊の怪物は目を血走らせ、レオナを見る。レオナは熊を見たことがない。ましては、目の前の怪物なぞ尚更だ。熊の怪物は野太い咆哮を上げる。身の毛もよだつ咆哮に、木々が震えた。レオナは咄嗟に走り出す。怪物から放たれる殺気は、レオナに疲れを忘れさせた。白い雪に閉ざされた迷い路を、レオナは足を取られながら走る。飢えた怪物は、小さな獲物さえ逃す気はない。鎧の様に硬い体毛で、木々を粉砕しながら爆進する。息も絶え絶えになりながら、レオナは筆を握り締めた。今すぐにでも、レオナは師に助けを求めたかった。師が来てくれれば、魔法で怪物を退治してくれるだろう。だが、そう祈るレオナの脳裏に浮かぶのは、動かない師匠の姿だ。熊の怪物がレオナに追いつき、爪を振り上げる。爪はレオナを掠めるが、風圧でレオナは木に叩きつけられた。背中に鈍い痛みが響き、レオナの息は一瞬止まる。痛みのあまり、レオナの意識は遠のく。霧がかる意識の中、怪物は獲物の息の根を止めようと、短剣の様な牙を剥き出した。痛みに苛まれ、レオナの思考は止まりかける。ただ、怪物に食われるのを待つしかない。
その時、一つの影が怪物に飛びかかった。怪物は突如現れた邪魔者を振り落とそうと暴れ狂う。影は軽々と跳躍し、怪物の一撃を躱す。白雪が舞い散る二匹の攻防。影と怪物が交錯する度に、雪面に赤い雫が飛び散った。
長い攻防の末、遂に熊の怪物は崩れ落ちる。レオナは消えゆく意識の中、戦いの一部始終を見ていた。だが、寒さは小さな少年を死の眠りへと誘う。恐怖も何もかも忘れ、レオナの意識は閉じた。
暖かな陽気に当てられ、レオナは身を縮める。鼻のあたりに、嗅いだことのない甘い香りが漂う。寒さで強張っていた体がほぐれていく。
「おい、しっかりしろ」
何者かに体を揺すられ、レオナは目を開ける。仰向けになった視界には、澄んだ青空が広がっていた。眩しい陽の光が、レオナの頬を照らす。
「大丈夫か? 小僧」
何者かがレオナの顔を覗き込む。
「うわぁぁっ!」
姿を見るなり、レオナは疲れも忘れ、その場から逃げ出す。死に物狂いで、レオナは四つん這いのまま草を掻き分けた。レオナの目の前にいたのは、上半身が鷲、下半身が獅子の化け物だ。前足の黒い鉤爪を見た途端、レオナはその爪で切り裂かれるような感覚に襲われた。足がもつれながらも、レオナは逃げる。
「ま、待て! お前、病み上がりの体で何処に行くつもりだ?」
鷲の怪物は慌てて、嘴でレオナの袖を引っ張る。勢い余って、レオナは花畑に転がった。レオナは手足をばたつかせ、花びらを散らす。レオナの頭の中は恐怖で満たされていた。例えこの怪物が言葉を話しても、怪物は怪物。レオナは逃げる他無かった。
「た……助けて!」
「落ち着け! 吾輩はお前を助けただけだ!」
鷲の怪物は叱りつける様に、レオナを諭す。その様は、イタズラをした時にレオナを叱るパーシヴァルのようであった。師の面影を見出し、レオナは落ち着きを取り戻す。
「あ……ありがとう」
「吾輩はグリフ。各地を渡り歩く者だ。お前は何者だ?」
グリフと名乗った魔物はふと、少年の手に握られた筆箒を見る。少年に不釣り合いな、身の丈ほどある筆箒。旅を知らない少年が持ち得ないほど、その筆箒は色褪せていた。グリフは眉をあげ、少年が抱える筆箒を見る。得体の知れない怪物に尋ねられ、レオナは肩をびくつかせた。
「僕、レ……レオナ。僕、お師匠を助けたくて、それで……」
言葉を紡ぐ度に、レオナの視界に涙が溢れる。喉元に溢れた言葉は、レオナに苦しむ師匠の幻影を写した。グリフは目の前の少年が全ての言葉を吐き出すまで、黙って聞いている。レオナの言葉の最後は弱々しく、言葉というよりは嗚咽に変わっていた。
「…………なるほどな。なれば、急がねばなるまい。今すぐその老魔法使いの元に行くぞ」
グリフはレオナの袖を引く。強い力に引かれ、レオナはされるがままにグリフの後をついて行った。足をもつれさせながらも、レオナはグリフに縋り付く。一抹の希望を手放すまいと、レオナは小さな手で握りしめた。
静けさが覆う家の中、レオナは脇目も振らず、師の横たわるベッドへと駆け寄った。あれほど苦しげであった師の顔は、彫像のように動かない。顔は白く、呼吸で髪が僅かに靡くこともない。まるでその空間だけ、時が止まっているようだ。レオナは寒さで赤く悴んだ手で、師の手を取る。雪よりも冷たく感じる大きな手に包まれ、レオナは身震いした。
「お師匠、起きてよ。お師匠を助けてくれる人を連れてきたよ。だから、もう大丈夫だよ」
レオナは縋り付くように師に呼びかける。だが、老魔法使いは目元を痙攣させることも、手を握り返すことさえもしなかった。ただ、そこに在るだけだ。レオナは師を両手で揺すり、何度も呼び続ける。
「起きてよ! お師匠! 早く起きて、また僕と一緒にご飯を食べようよ! 起きて……また僕の側にいてよ……」
レオナは訳が分からなくなり、涙が溢れる。涙がシーツを濡らしても、パーシヴァルは涙を拭いてくれることがない。グリフは部屋に入ると、目の前の光景に息を呑んだ。動かなくなった老魔法使いに、寄り添う少年。
「ねぇ、グリフさん。お師匠、目を開けてくれないんだ。返事をしてくれないんだよ」
無力に打ち震え、レオナは膝をつく。グリフはパーシヴァルの胸元に前足を置いた。冷たく、鼓動を感じない。険しい顔つきのまま、グリフはゆっくり嘴を開く。
「レオナ……。この者はもう……死んでいるぞ」
「死んでいる……?」
レオナはグリフの言葉に頭を掻き回された。死んでる? レオナにはその言葉の意味が分からなかった。ただただ、冷たい響きを残す言葉。レオナはわなわなと震えることしかできなかった。
「死んでいる……って、どういう事?」
「もう話す事もなく。このまま目を覚ますこともない。ずっとこのままだ」
淡々と告げられた残酷な言葉に、レオナは頭の中が凍りついた。もう目を覚まさない。もう、師匠は自分の側にいてくれることはない。突きつけられた現実に、レオナは声を出すことなく泣き続けるしかなかった。
「さあ、このままでは気の毒だ。墓を作ってあげよう」
「………」
グリフの提案に、レオナは夢現のように頷く。だが、レオナはしばらく師の側に寄り添った。師との思い出の追憶。それが最期の時になるまで。
"偉大なる大魔法使いパーシヴァル、ここに眠る"
真新しく、簡素な墓石に刻まれた文字を見て、レオナは俯いたままだ。かつては師を模した雪だるまと同じ位置にある墓石。折れたトネリコの杖は、かつての主の亡骸に寄り添っていた。静かに降り積もる粉雪が、レオナの全身を冷やす。グリフが翼を広げ、レオナの全身を包む。
「いつまでそうしているつもりだ? お前まで凍え死んでしまうぞ」
「……ありがとう。でも、僕はこれからどうすればいいんだろう」
答えを求めるように、レオナは墓石を見る。墓石に被された師匠の帽子。煤けてボロボロであるが、偉大な魔法使いの面影を宿していた。レオナは静かに自分のとんがり帽子を見る。自分の背中に背負われた、身の丈程の筆箒。師はこの筆箒をレオナに託した。魔王の邪悪な力から、自分を守った師匠。魔法が使えない自分を、師匠は命をかけて守ってくれた。師匠の思いを無駄にすることはできない。レオナの胸が熱くなった。立ち止まってはいられない。レオナはとんがり帽子を被り直し、立ち上がった。
「どうしたのだ? レオナ」
「僕、魔王を止めに行く。それがお師匠の願いだから」
レオナは寂しげに墓を見つめるも、雪に覆われた地面を踏みしめる。レオナは拳を握り、家に駆け戻った。
部屋の箪笥を開け、風よけの白いマントを出す。長年、無用の長物と化していた道具達が、レオナに呼び起こされる。レオナはマントを羽織り、橙色のリボンを結ぶ。外側にはねている赤茶色の髪には、白いとんがり帽子が乗っていた。レオナは壁に掛かっている鏡を見て、泣き腫らして真っ赤になった瞼を拭く。ポーチを肩に掛け、レオナは革の手袋を付けた。おそらくもうこの家には戻らないだろう。レオナは拳を握り締め、家の扉を開けた。グリフはレオナの後ろ姿を見守っている。その前足は生々しい傷跡が刻まれていた。レオナはマントの端を千切り、グリフに巻き付けようとする。
「いらん、こんなのかすり傷だ」
「僕を怪物から助けてくれたんでしょ? 手当はしないと」
レオナは傷から滲む血を拭き取り、布を巻きつけた。レオナは渋々と手当を受ける。一通り手当を終えると、レオナは外に出ようとした。
「待て。お前は一人で旅に出るつもりか?」
グリフがレオナのマントを引く。レオナは自信なさげに頷いた。いくら魔法使いの装いをしても、レオナは魔法が使えない。ただの師匠の真似事だ。それでも、レオナの緑色の瞳は揺るぎない。グリフはため息をつき、レオナの側に歩み寄る。
「吾輩も一緒に行こう。魔王が復活して、世界がどうなっているのか見定めたいからな」
グリフの言葉に、レオナは嬉しげに頷いた。生まれ育った魔法使いの家に別れを告げ、レオナは雪山へと乗り出す。決意を固めた足が、一歩を強く踏みしめた。
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