第3話 保健室タイムアタックのトップ
今日受ける授業は、二時間一コマで、現代の国語と数学だ。
ホールの右隣に教室が三つ並んでおり、紫苑と同じ授業を受ける生徒がちらほら、教室を出入りしている。
一階にある教室は、三つで全てだ。
奥から、教室一、二、三、と続いていて、国語の教室は教室二で受ける。
紫苑はフラフラとした足取りで、教室二の扉を開けた。
***
「今日は教科書二十四ページを読みます。この文章は、抽象化や具体化、対比が用いられており……」
几帳面そうな大柄の男性教師の声が、教室に響く。
前述した通り、生徒の数は少ない。二十席くらいある教室だが、半分くらいしか埋まっておらず、爪をいじっている生徒、ペン回しをしている生徒、大きな口をあけてあくびをしている生徒など、三者三様に手を抜いておられる。
だが馬鹿真面目な紫苑は、教師の言葉を聞き逃しまいと、鬼のような形相でノートを取っていた。
(勉強も、諦めない。キラキラの青春を送るために、頑張るんだから!)
だが、本人のやる気とは裏腹に、授業内容という情報が一気に攻め込むものだから、紫苑の足りない頭は爆破寸前、湯気が立ちそうだ。
そもそも、元引きこもりの紫苑にとっては、最初、この人数がいる教室に入るのでさえためらわれた。
『人がいる……コッチ見てる。まさかあたしをダサいとかブサイとか思ってたらっ……いや事実だけど……どうしよう』
これは、入学当初の紫苑の心の中だ。
だから、この考えを打ち消すには、勉学に励むほかないという境地に至った紫苑は、必死にノートを取る選択をした。
「はい。今日はここまで。お疲れ様でした。次の授業の人のために、早く移動してください」
時間になり、教科書を閉じた国語教師に、やり切ったため息が漏れる。
伸びをして、友達のところに駆け寄る前方の席の女子を、紫苑はボーっと目で追う。
(あの人、何年生かな。友達、どうやって作ったのかな)
一応言っておくが、紫苑はまだ友達がいない。
学校で喋ったのは、「ありがとうございます」か、「すみません」くらい。
絶望的にボキャブラリーがない。
それはそうと、次は数学の授業を受けに教室三へ向かわなければ。
二時間机に向かっていたせいで、頭がくらくらする。
少し悪寒がして、腕をさすった。
***
数学の授業は、眼鏡をかけた神経質そうな女性教師が担当する。
頭が痛い。少し息が上がっている。
数学はみんな苦手意識があるのか、机に突っ伏している人もちらほらいる。
だが紫苑は手を抜けなかった。
抜くわけにはいかないというのが正しいだろうか。
四月に入学してから今まで、具合が悪いときはすぐに保健室に行っていた。
数学の授業も今日が初めてではなく、今までも途中で体調不良になり、途中で抜けさせてもらっていた。
だから、次こそ、今回こそ。しっかりやらなければ。
桃子の「入ったからにはしっかりやりなさい」という声が、鈍くなってきた頭に響く。
紅里が頑張って働いたお金で勉強させてもらっているという事実が、紫苑にのしかかる。
限界だ。
紫苑は席を立って、数学教師にこっそり近づくと、
「あの、具合悪いので、少し出ます」
と囁いた。
言えた。それだけで少し頭痛が和らいだような気がする。
だが、教師の次の一言で、愕然とした。
「また、あなた? どうしてそんなに具合悪くなるの? 分かったから、行って」
少し尖ったその声は、無責任にも放ったあとすぐに授業に戻る。
心に刃物を向けられたような気分だった。それを自覚してしまった。
そのあとに目に涙が盛り上がる。
紫苑は荷物をまとめ、教室を飛び出した。
***
「あらあら。そうだったの。それは、ごめんね」
加湿器の湯気が立ち上る保健室で、畳に腰を下ろした若葉が眉尻を下げる。
ここは、二階の保健室。日差しがたっぷり差し込む大きな窓に、十畳ほどのスペース。入って左に若葉の事務机があり、その先の小上がりは全て畳になっている。
畳には布団が二組、敷かれていて、それがベッドだ。
加湿器の湯気は、ほんのりラベンダーの香りがして、紫苑は若葉の隣に腰掛け、思わず数学教師に言われたことを話していた。
若葉の謝罪は、同僚の失言に対してなのだろう。
若葉は全く関係のないことだが、彼女の気遣いに紫苑は救われた気分になる。
「いるのよねぇ。そういう要らない一言を言ってくる人。紫苑ちゃんはとっても真面目だから、言われたことを全部受け取っちゃうと思うけどね。いいのよ。受け取らなくて」
春の日差しがポカポカと差し込む室内に、ふわふわとした若葉の声は紫苑の耳にゆっくりと入っていく。
じわり、若葉の優しさがスポンジのような紫苑の心に染み込んでいく。
「……図星だったんです。一番言われたくないこと言われました」
思わず漏れた本音に、一度引っ込んだ涙がまた再燃する。
『どうしてそんなに具合悪くなるの?』
そんなことは紫苑が訊きたい。
紫苑だって、こんなはずではなかったのだ。
高校に入ったら、引きこもりだということを忘れるくらい、元気になって笑顔で学校に通うはずだった。
でも、蓋を開ければ授業にはついていけないわ、友達はできないわで散々な思いしかしていない。
ストレスを感じると熱を出す体質も、全く改善しなかった。
熱、と言えば。
「あ、先生。あたし、さっき頭痛がして……熱、測りたいです」
「そうなの? じゃあ、横になりなさいな。体温計持ってくるわね」
若葉にそう促されて、紫苑は段差をあがり、向かって左の布団に入る。
布団は柔らかく、ほんのりお日様の匂いがした。
「六度九分……」
たいして熱はなかった。
ホッとしたような、騒いでしまって、かえって悪いような。
だが若葉はニコリと笑みを浮かべる。
「良かった。平熱はどれくらい?」
「……六度くらいです」
「そう。平熱よりちょっと高いけど、まあこのくらいかな。好きなだけここにいていいからね」
そう言って、若葉は事務机に向かって書類仕事を始めた。
紫苑は細く息を吐きだして、仰向けのまま、天井を見上げる。
天井には、茶色い染みが三点。
(いつも顔に見えるんだよね……)
そんなことを考えているうちに、目がとろとろしてくる。
夢の世界にいざなわれそうになった、その瞬間。
「先生。いる?」
保健室のドアが、ためらいもなく開けられた。
「あら、愛ちゃん。今日は授業に出られたんだ」
若葉と会話する女の声が聞こえてきて、紫苑はぎょっと身を起こす。
戸口にいたのは、校則がないこの学校でも珍しい、青みがかった髪を肩のあたりで切りそろえ、細い赤ぶち眼鏡をかけた女子生徒だった。
女子生徒は、紫苑を見る。その途端、彼女の眼鏡の奥の目が、鋭く紫苑をねめつけた。
「先生。あの子、誰?」
敵意を前面に押し出した声に、紫苑の身がすくむ。
とげとげしい女子生徒の口調をものともせず、若葉がマイペースに口を開いた。
「愛ちゃん、覚えてない? 保健室タイムアタックのトップ、星名紫苑ちゃんよ」
紫苑は若葉の言葉を聞いた瞬間、がばっと布団を頭からかぶった。
真っ先に保健室に来たなんて、恥ずかしすぎる。
すると、女子生徒は神妙な面持ちで、片手をシャープな顎にそえた。
「ああ、なるほど」
(いや、それで分かるんかい!)
紫苑の心の中のツッコミもいざ知らず、若葉はにこにこと紫苑の方へ体を向ける。
「紫苑ちゃん。こちら、
……若葉がタイムアタックの計測委員会を発足したいのは分かった。
しかし、それを基準に生徒同士に名前を覚えさせるなんて、何とも惨い。
「ちなみに、保健室タイムアタックに参加できるのは一年生だけ。紫苑ちゃんと愛ちゃんたちがトップスリーね。二年に上がればトップスリーは猛者となって、受賞者リストに過去の猛者たちと一緒に名を連ねることができるの。だから、二、三年生の先輩にも元トップスリーの猛者がいるのよ。あ、三年生の猛者の一人は、保健室タイムアタック二年連続で優勝だったから、殿堂入りしてるわね」
……それは、留年、ということで合っているだろうか。
この高校は、三年で卒業できなくても、四年生になることはない。四年目になるだけで、学年が上がるだけの単位が取れなければ、その学年にもう一度なるからだ。
紫苑は、自分が辿るかもしれない二年連続優勝という言葉を前にして、武者震いした。
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