第29話 政略と陰謀の影


 新緑が眩しく輝く季節となり、もう春とも呼ばなくなりつつある頃、王宮や上位貴族の間は騒然としていた。


「王太子殿下が、クラヴィス家の令嬢と――?」


「学問院の首席で、宰相代理補佐官に就任したという、あのマリアベル嬢?」


「政略的なものなのかしら?」


「マリアベル嬢のご活躍は、婚約が前提だったのか?」


 そんな噂が王宮の回廊にも、社交界の茶会にも、書簡の行き交う貴族邸にも、波紋のように広がっていた。


 そして当然、その波紋はマリアベルの周囲にも及んだ。


* * *


「聞いたわよ、マリアベル!」


 アイリスが資料束を抱えたまま、政務局の執務室に飛び込んできた。


「まさか、あの王太子殿下から正式に求婚されたなんて!」


 その後ろからセラフィーナが続き、手を口に当てながら驚愕の表情を隠しきれずにいた。


「ねえ、それって冗談……じゃないわよね? 本当に婚約したの?」


 マリアベルは苦笑を浮かべた。


「……ええ。まだ発表前だけれど、両家の同意は済んだわ」


 ふたりは言葉を失った。政界の最前線に立つマリアベルの“快挙”に、驚きと共に、得体の知れぬ不安を感じていた。


 そこへクラリッサが姿を現した。


「驚いたけれど……納得もしたわ。あなたほどの女性でなければ、殿下の隣には立てないでしょうし……殿下はあなたをよく気にかけていたわ」


 その声は穏やかで、どこか誇らしげだった。


「でもね、マリアベル。これからはあなたのすべての言動が、“王太子妃としての品位”と“政治家としての責任”、その両方を問われることになるわ」


「……そうですよね……、はい。覚悟はできていますわ」


 そう答える彼女の瞳には、強い光が宿っていた。


* * *


 一方、王政事務局では春の人事に続く新たな改革案が進められ、マリアベルは連日、執務に追われていた。


 女性官吏試験の実施に向けた準備。各局との調整。人事配分の是正。


 まだ波は激しく、反発も根強い。だが、少しずつ――確かに変わり始めていた。


「……では、次回の広報を進めて。保守寄りの派閥にも同じ条件で資料提供を」


「はい、宰相代理補佐官」


 部下たちが“自然”にマリアベルをそう呼び、従うようになったことこそ、変革の兆だった。


 しかしその夜、静寂の裏で“最後の牙”が放たれようとしていた。


* * *


 事件が起きたのは、マリアベルが日課として通っていた政務局裏手の資料倉庫でのことだった。


 夜、次回の会議資料を確認しに倉庫を訪れた彼女が扉を開けた瞬間――


「っ……!」


 突如、上方から重い棚が崩れ落ちた。


 間一髪で身を翻したマリアベルは、倒れ込むように通路へ逃れた。


「マリアベル様、下がって!」


 間もなく控えていた警護の衛士たちが飛び込んできて、潜んでいた黒衣の男を取り押さえた。


「毒針……!」


 倉庫内で見つかったのは、特殊加工された吹き矢。毒が塗られており、かすれば即座に命を落とすものだった。


 男は抵抗を続けたが、護衛と騎士隊の連携のもと、ついに拘束された。



* * *


 すぐに拘束された男の尋問や自宅、よくいる場所の捜索が開始された。

 尋問はなかなか口を割らずに時間を要しているものの捜索の中で“指示者”の存在が浮かび上がった。


 半日ほど捜索を続けていると、資金を受け取っていた記録、暗号で書かれた指示書……。

 証拠は徐々に出始め、黒幕と思われる名前と繋がり始めていた。


 宰相不在だが、代理のマリアベルにこの件の指揮を取らせるわけにもいかず、カザエルが捜査の陣頭指揮を取ることになった。


 王宮警邏隊の隊長と捜査で分かったことの共有を始めている。


「狙撃、毒、そして今度は“仕掛け型”……ここまで執拗なら、もはや偶発ではない。組織的犯行だ」


「使われた毒物が特殊で、入手可能なルートから浮かび上がってきた名がひとつあります。

 ……レザン公爵家のパルト・レザン。現財務局長官です」


「パルト・レザン……」


「レザン公爵には以前から黒い噂もあり、長年、財務局の中で“身内による昇進”と“政治献金による口利き”を続けてきたという話があります」


「女性官吏制度が本格的に運用されれば、組織に女性が入り、今まで簡単にできていた不正がしづらくなる……といったところか。

 つまり、制度そのものが彼らにとって脅威となって……それで……マリアベルを?」


「正式に王太子妃となれば、手出しができなくなると考え、おそらくは婚約発表前が最後の機会だとの思いで犯行に及んだと考えられます」


「分かった。何より証拠が必要だ。レザン家とその周り、昇進や政治献金に関わった貴族に一斉に探りを入れる。

――だが、マリアベルにはまだ知らせるな」


* * *


 その夜。


 クラヴィス家で、マリアベルとカザエルと共に静かな書斎で報告書を読んでいた。


「……また、命を狙われたわ」


「すまない。君を守り切れなかった」


「いいえ。でも、これでわかった。私は“政の中”に本当に入ったのね」


「マリアベル……」


「制度の採択までは“始まり”だった。でも、これからは――その“先”を担うことになる。だからもう、逃げないわ」


 カザエルは静かに頷いた。


「必ず守る。君と歩む未来を、誰にも奪わせない」


* * *


 翌朝。


 マリアベルは、いつも通り王政事務局の扉をくぐった。


 周囲の視線には、尊敬と畏れ、そして小さな憧れが混じっていた。


「……おはようございます。宰相代理補佐官」


「おはようございます。――始めましょう。まだやるべきことは山積みよ」


 その背中は、もはや“特別枠”ではなかった。


 誰の庇護でもない、自らの意思と責任で――政の中心に立つ者として、歩き出していた。

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