〜第5章〜 第28話 ただの王妃にはしない


 春の柔らかな日差しが王都を包み、街角には花売りの声と子どもたちの笑い声が響いていた。

 花々に囲まれた小道を、マリアベルはゆっくりと歩いていた。


(まるで別世界のよう……)


 春の風は穏やかだが、彼女の胸にはひとつの予感があった。


 宰相代理補佐官への抜擢、制度改革の波、政の中心に立つ者としての覚悟――。そのすべてを経て、彼女はようやく「少女」から「政治を担う一人」へと変わりつつあった。


 そのとき――


「やっと見つけた」


 振り返れば、そこにいたのは王太子カザエルだった。陽光を背にして現れた彼は、いつになくくだけた笑みを浮かべていた。


「少しだけ、時間をくれないか。話がある」


「……はい」


 二人は、木陰の小さな東屋へと向かった。衛士たちの視線は控えめで、音もなく距離を置いていた。


* * *


「制度改革、見事だった」


 カザエルは、紅茶のカップに口をつけながら言った。


「君がいなければ、あれは通らなかった。マリアベル、これは心からの敬意だ」


「ありがとうございます。でも、まだ“始まっただけ”です」


 彼女の瞳は真剣だった。だが、カザエルはその答えを、むしろ愛おしげに見つめた。


「……君はずっと、背伸びをしている。いや、背伸びじゃないな。自分で階段を造って、そこを登ってきた。僕は、それをずっと見ていた」


 マリアベルは少し目を伏せた。


「私は、ただ……そうしなければ、ここに居られないと思っていました。

 政の場も、王宮の空気も、誰かの庇護で手に入る場所じゃないって」


「だから、僕は言うんだ」


 カザエルはゆっくりと立ち上がり、マリアベルの前に膝をついた。


「――マリアベル・クラヴィス。君を、僕の妃として迎えたい」


 一瞬、時間が止まったようだった。


 マリアベルは、凍りついたように彼を見つめた。静かに、しかし確かに――その胸の奥で何かが崩れ、そして、積み上がっていくのを感じた。


「……どうして、このタイミングで?」


 カザエルの表情は真摯だった。


「君が“誰かの陰”にいるうちは、言うつもりはなかった。でも今、君は“誰の陰”でもない。自分の力で政を動かし、自らの名で国の未来を描いている」


「でも、私はまだ――何も成し遂げていません」


「違う。君は、“動かし始めた”んだ。変革という車輪を。その功績を、誰より知っているのは僕だ」


 マリアベルは、小さく首を振った。


「……すみません、いまとても混乱をしています。

 女性として嬉しい気持ちと、わたしなんかがという気持ちと……

 ……何よりも、もし私が王家の人間になれば、“女性官吏制度”が“私利私欲”と結びつけられるかもしれません。

 それは……これまで支えてくれた人たちを裏切るような形になってしまいます……」


 カザエルは立ち上がり、マリアベルの手を取った。


「だから、約束する。君を“ただの王妃”にはしない。この国の未来を共に作る、“対等な同志”として迎える」


 その言葉に、マリアベルは一歩も引かず、ただまっすぐに彼の瞳を見返した。


 しばらく沈黙していたが、口を開く。


「私を迎えるなら、“口約束”だけでは足りません。言葉にして、制度にしてください。“王太子妃も政治を担える”と」


「もちろんだ。面白いな、相変わらず。君のその厳しさが、国を守る盾になると信じている。……そうやって国も、僕も、君に守られていくんだな。

 ただ、政治だけのパートナーと言う意味ではないよ。君と共に生きたいんだ」


 二人の間に、再び静寂が降りた。


 やがて――マリアベルは、微笑んだ。


「ならば……私はこの求婚をお受けます。まずは政治に携わる者として、私の人生をかけて、この国の未来に関わる覚悟を。

 正直、恋愛といった気持ちがまだよくわかりません。それでもいま断れば……なにか後悔するように思うのです。

 殿下と一緒にこれからもいたいと思っています。

――これからもあなたと共に」


 それは恋だけの甘い求婚とは少し違うのだが、2人なりの相手を思う気持ちであり、確かに深い信頼と未来への誓いに基づいた、ふたりの“約束”だった。


* * *


 その晩、王宮からの帰路。

 マリアベルはカザエルと共に、一台の控えめな馬車に揺られていた。


「……いろいろ準備は整えられていらしたんですね」


「ああ。すまない。こちらは父や母にはすでに相談をし、マリアベルが良い返事をしてくれたら機を逃さず動けるように整えていた。

 マリアベルのご両親は突然ですが驚くだろうが……」


 ふたりの表情に、緊張と静かな覚悟が宿っていた。


 ――クラヴィス邸。


 深い夜の静寂に包まれた門前に、二台の馬車が同時に現れた。


 一台は、王太子とマリアベルを乗せたもの。そしてもう一台は、王家の紋章を掲げた使者の馬車だった。


 玄関で出迎えた執事が目を見開いたまま言葉を失っていると、後方から姿を現したカトリーナが、すぐさま状況を把握したように言った。


「応接室を。急いで整えてちょうだい」


 レオンも書斎から現れ、二人を迎え入れた。


* * *


 クラヴィス家の応接室にて。


 カザエルは、凛とした口調で言った。


「本日は、クラヴィス家にご挨拶に上がりました。――正式に、マリアベル嬢との婚約の意志をお伝えするために」


 王家の使者が一礼し、文書を取り出す。


 そこには、王太子の求婚と、王家の承認を記した正式な書面が封蝋とともに添えられていた。


「彼女は、制度改革の旗手としてこの国の未来に大きく貢献されました。その志に、私は深く共鳴し、敬意を抱いております。……私個人としても、人生を共に歩みたいと願っております」


 重く、静かな沈黙が応接室を満たす。


 やがて、レオンが深く頷いた。


「ご意志、確かに受け取りました。

 ――我がクラヴィス家にとって、これほど光栄なことはありません」


 カトリーナもまた、穏やかに微笑んだ。


「ですが、お返事は、彼女自身の意志に委ねさせてくださいませ。あの子は、いつも“自らの道”を選んできましたから」


 マリアベルはその言葉に、胸が熱くなるのを感じた。


「お父様……、私はこのお申し出をお受けしたいと考えています」


「わかった……。そうか。

 カザエル殿下、何卒、我が娘をよろしくお願いします」


 ふたりの新しい未来が、両家の承諾のもとで扉を開けたのだった。

 


* * *


 カザエル殿下達来客が去った後。


 マリアベルは母に呼ばれ、静かな書斎に入る。


 カトリーナは、白い絹に包まれた桐箱を取り出し、娘に手渡した。


「式典用のかんざしとストールよ。私が王宮で仕事をさせていただいていた頃に使っていたものだけれど……あなたのほうが、きっと似合うわ」


「お母様……」


「“王太子妃になる”というのは、確かに重いこと。けれど、それは“誰かの影”になることじゃない」


 母は、娘の手をそっと包みこんだ。


「これからあなたが名乗るのは、誰の妻であるか、というだけじゃない。“政を担う者”としての名よ。

 恐れず、誇り高く、あなたの志を貫きなさい。……私は、いつでもあなたの母として、あなたの道を支えます」


 マリアベルは、強く頷いた。


 その瞳には、もう迷いはなかった。



 翌日。


 王政事務局に姿を現したマリアベルに、周囲は一瞬緊張を走らせた。


 だが、彼女は変わらぬ口調で、淡々と政務をこなした。


 王太子からの求婚が現実のものとなった今、彼女はもはや「特別枠」の補佐官ではなく――王政を担う、一人の政治家としてその名を刻みはじめていた。


* * *


 その数日前のこと。

 王宮・謁見の間では、カザエルが両親である国王アレクシスと王妃セリーヌを前に、静かに告げていた。


「――私には、既に心に決めた相手がいます」


 空気が張り詰めた。


 国王アレクシスは書類から顔を上げ、王妃セリーヌは思わず扇を静かに置いた。


「……決めた相手だと?

 見合いを何度も辞退してきたお前が、急にそんなことを言い出すとは……」


「相手は、どこの姫君かしら?

 まさか、どこかの国との密約では――」


 そう問いかけた王妃に、カザエルは真っ直ぐな瞳で応じた。


「クラヴィス・マリアベル嬢です。王政事務局・宰相代理補佐官。女性官吏登用制度の中心を担った才女です」


 国王と王妃が互いに目を見交わす。


「……あの子か。確かに近頃、話題にはなっていたが……」


「殿下、格式や血筋は問題ないですわ……」


「私には彼女でなければならないと断言できます」


 カザエルの声に、一切の迷いはなかった。


「私は、彼女と“未来を築きたい”。ただの王妃ではなく、政を共に担う“同志”として。だからこそ、求婚の許可を得たいと願います」


 長い沈黙ののち――


 国王アレクシスは、ふっと息を吐いた。


「……相変わらずだな、お前は。誰の目も気にせず、己の信じる道を突き進む」


 そして、目を細めて続けた。


「だが、その胆力こそが、我が王太子に相応しいとも思う」


 王妃セリーヌもまた、小さく笑った。


「王太子妃というのは、“選ばれた者”の特権ではありません。“歩んできた道”こそが、それを形作るのです。……その女性が、あなたの隣に立てる人物であるのなら、私たちに異存はありません」


「ありがとうございます」


 深く頭を下げたカザエルの背には、王族としてではなく、“ひとりの青年”としての揺るがぬ決意が滲んでいた。

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