第1話 髪飾りを選ぼう
今日のドミュウシガ王国も、澄んだ空が広がっていて、木の葉がゆるやかに茶色へと色づいていく。季節は静かに、次の扉を開けようとしている。
季節が移ろっても、国中に咲く花々は変わらず美しく、さすが“花の国”と呼ばれるだけのことはある。
国の中心部から西へ、馬車で三十分ほど進むと、
シャナトル伯爵家の壮麗な屋敷が、堂々たる姿を現す。
今日の屋敷は、いつもより少し賑やかだ。
いや、どちらかというと、騒がしさすら感じられる。
「お嬢様!!どこですか!?お嬢様ーー!!」
メイド服に身を包んだ者たちが、小走りで“お嬢様”の姿を探している。
その中心には、メイド頭のローズもいた。
ローズは眉をひそめながら階段へと近づき、そっと上階を見上げる。
「……お嬢様、まさか、またあそこに……」
その呟きと同時に、ローズは足音を急がせる。
目指すのは、上階にある長い廊下の突き当たりの部屋だった。
突き当たりの部屋の扉は、わずかに隙間を残して開いていた。
その前まで歩を進めるにつれ、ローズの足取りは自然とゆっくりになっていく。
ローズは静かに扉に手をかけ、そっと押し開けた。
中には、ベッドや机など必要な家具が整然と並んでいる。
一見すれば人の寝室だとわかるのに、なぜか空気の奥底には、ぽつんと寂しさが滲んでいた。
部屋に足を踏み入れると、隅の壁に掛けられた肖像画の前に、淡青の髪の少女が静かに立っているのが目に入る。
「……やっぱり、ここにいらっしゃったのですね、ラリンヤお嬢様」
ラリンヤと呼ばれた少女は、ゆっくりとローズの方へ振り返り、にっこりと微笑む。
「おはよう、ローズ!」
ラリンヤ・シャナトル伯爵令嬢。
誰もが目を奪われる、きらきらと輝く黄金の瞳に、まっすぐでさらさらとした淡青の髪。
ドミュウシガ王国の貴族令嬢たちの中でも、とびきりの美少女として噂されている存在だ。
ニコニコと微笑む、まるで天使のようなこの令嬢こそ、今朝からメイドたちが地をひっくり返す勢いで探していた“騒ぎの元”。
その姿を目にしたローズは、小さくため息を漏らした。
「おはようございます、ラリンヤお嬢様。
今朝、メイドたちがお部屋に伺いましたが、お姿が見えず、皆が心配して探しておりました。
どうか、お一人で出歩かれて、わたしたちを驚かせたりなさらないでください」
「だって、今日はすっごく大事な日なんでしょ?
いても立ってもいられなかったの!」
「承知しております。本日は“魔法開花日”。
八歳になって一ヶ月が経った子どもたちが、協会での開花儀式に参加し、自分の中に眠る魔法の力を目覚めさせる、大切な日でございますね」
「そうなの! だからね、お母さまにご挨拶して、うまくいきますようにって……お願いしに来たの!」
ローズは、目の奥にじんわりと熱を感じた。
ラリンヤが見つめていた肖像画には、紅玉色の髪を持つ女性が描かれている。
深く艶やかな赤髪は、差し込む光に照らされて、しっとりと輝いていた。
その瞳には、ラリンヤと同じ黄金色の光が宿っている。
髪の色こそ違うが、面差しや雰囲気にはどこか通じるものがあり、まるで、ラリンヤの未来そのものを描いたようだった。
この部屋は、かつてシャナトル家の前の伯爵夫人、イリヤナが使っていた。
ラリンヤの実の母でもある彼女は、二年前、下町で起きたとある災害に巻き込まれて命を落とした。
いまは誰も使っていないこの部屋に、彼女の面影だけが静かに残されている。
「イリヤナ様はきっと、ラリンヤお嬢様のことを祝福しておられます。だから今日は、頑張りましょうね。さて、自室に戻ってお着替えといたしましょうか」
「うんっ、着替えてくるね!」
ラリンヤはルンルンと軽やかな足取りで部屋を後にした。
その後ろを、ローズが静かについていく。
今、ローズの前にいる爽やかな少女が、二年前、目の前で母を亡くしたあの少女だと、誰が想像できるだろう。
その日のラリンヤの姿は、ローズの胸に深く突き刺さった。
けれど、それ以来、ラリンヤは一度も涙を見せることなく、驚くほど芯の強い子として育った。
生前の母から受け継いだ優しさが彼女の内に息づいていて、いつしか周囲の人々から自然と愛される存在になっていた。
数年しか経っていないけれど、今のラリンヤの姿を見れば、きっと誰もが、イリヤナ伯爵夫人に見せてあげたいと感じるだろう。
そんなラリンヤも、ときおり空を見上げては、ふと無心な表情を浮かべることがある。ローズは、その姿を何度か目にしていた。
「大丈夫ですか?」「何かあれば、このローズが力になりますよ」そう声をかけたくなる瞬間は何度もあった。
けれど、仕える者としての立場もあり、なにより、あの無言の表情には、触れてはならないものがある気がして、結局その言葉は胸の中にしまったままだった。
ラリンヤが着替えていると、扉が開かれ、一人の女性が中へと姿を現す。
「グローリナ様がお見えになります」
部屋に入ってきたのは、シャナトル伯爵の再婚相手、つまりラリンヤの義母であるグロリーナだった。
一目で気品を感じさせる美しい女性で、身にまとったライラック色のドレスは、深い紺色の瞳と見事に調和し、凛とした存在感を放っている。
海の波を思わせる柔らかなセピアの巻き髪は、高く美しくまとめられ、その姿にはどこか近づきがたい空気が漂っていた。
「朝からずいぶん賑やかですこと」
「……」
「ローズ、あなたは少し甘やかしすぎではなくて? ラリンヤはもう八歳ですわ。
まして今日は、魔法開花の儀式に臨むというのに……いつまでも子ども扱いしていては成長の妨げになります。それに、あなたはメイド頭でしょう? 少し距離を考えるべきではなくて?」
「……申し訳ございません、奥様」
「フローレンスの家庭教師がそろそろ来る時間だというのに、何の準備もできていないなんて……。メイド頭として、それでよろしいのかしら?」
「ただいまより急いで準備いたします」
軽く鼻を鳴らし、グロリーナは一瞥をくれると、そのまま何事もなかったように部屋を去っていった。
「申し訳ありません、ラリンヤお嬢様。私はもう行かなくてはなりません」
「うん!わたしが戻ってきたとき、またお話ししようね」
ローズは丁寧に一礼し、部屋を後にする。ラリンヤはにこやかな笑みを浮かべながら、その背中を見送っていた。
「……本当に、よろしいのですか? お嬢様」
ラリンヤの髪を丁寧に編みながら、専属メイドのジュリアが心配そうに声をかけた。
「フローレンスはまだ小さいもの。仕方ないよ」
ジュリアは、納得がいかないような顔をする。
誰が納得するものか。
前の奥様が亡くなられて、まだ時も浅いというのに。伯爵はすぐさま、あのグローリーナを新たな夫人として迎えた。しかも、子連れで…。
その子、フローレンスはグローリーナの娘で、ラリンヤより三つ年下。無愛想で、誰かを見下すような態度をとることも多いと、この屋敷で働く者たちのあいだではよく知られている。
「お父様、今日は来られないって言ってたよね」
「はい。旦那様は三日後に城からお戻りになると伺っております」
ラリンヤは「そうか」と小さくつぶやき、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべた。
「大丈夫です、お嬢様。このジュリアが、ずっとおそばにおりますから!」
「うん、とっても嬉しいわ!」
二人は笑い合いながら、ラリンヤのアイボリーのドレスにぴったりな髪飾りを、一緒に選んでいく。
魔法開花の儀式に参加すると、内に秘められた魔力が解放され、その“魔法の力量”によって将来の道が左右されるという、大切な日だ。
とはいえ、多くの子どもたちは、自分のおおよその力量をすでにわかっている。魔力は血筋に強く影響されるから、親の力がそのまま子に受け継がれることも珍しくない。
それでも、自分の内に眠る“マナ”を初めて感じ、魔法を使えるようになるこの日は、子どもたちにとって特別だ。
不安と期待が入り混じるなかで、胸をときめかせながら迎える、そんな“はじまり”の日でもある。
ラリンヤの母、イリヤナは魔法を使えない体質だったが、父であるベルック・シャナトル伯爵は、ドミュウシガ王国の魔法防衛副司令官を務めていて、国の中でも限られた者しか扱えない〈上級魔法〉を使える、数少ない魔導士のひとりだった。
だからこそ、ラリンヤだけでなく、多くの人々が、今日の儀式に自然と目を向けている。
ラリンヤとジュリアは、屋敷の前に止まっている馬車のもとへと歩みを進めていた。
ラリンヤの淡青の髪は、左右に分けて丁寧に編み込まれている。小さな白や淡い桃色の花飾りがところどころに添えられ、金の実ややわらかなリボンが彩りを添えていた。
耳元を飾る花の輪は、まるで小さな花冠のようで、淡い色合いの中に優しい華やかさが咲いている。
揺れる花とリボンが編み込まれた髪の流れと重なって、今日という特別な日のラリンヤを、いっそう輝かせていた。
太陽は眩しく輝き、まるでスポットライトのようにドミュウシガ王国を照らしている。
鳥たちは羽を大きく広げ、心地よい風に身を預けながら空を舞う。
さて、行こう。魔法開花の儀式へ。
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