最弱国の令嬢、聖騎士の道へ

KOMUGI

プロローグ

二年前・下町にて




「誰か……誰か、お母さまを助けてぇっ!!」


下町の通りの真ん中で、少女は土の地面に膝をついていた。

焦げたローブをまとい、腕の中には母の動かない体。

喉が裂けそうなほどの声で助けを求めても、誰ひとり、少女のもとへは来なかった。


周囲には、まだ生きている人々がいた。

倒れて呻いている者、地面にうずくまり、動けなくなった者、力尽きて息絶えた者。

誰もが誰かを求めていたけれど、誰もが手いっぱいで、誰かを助ける余裕なんて残されていなかった。


その中で、少女はひとり、声が枯れるまで叫び続けていた。


頬をつたった涙が、すすで汚れた顔に細い跡を残していく。

何度叫んでも、返ってくるのは炎の爆ぜる音と、遠くの叫び声だけ。


あの、やわらかく澄んでいたはずの淡青の髪は、灰にまみれて、すっかりくすんでいた。

そして、くすんだ黄金色の瞳が震える視界の中で、母のぬくもりが少しずつ遠ざかっていくのをただ感じていた。


「お母様……お願い……起きてよ……!」


何度も呼びかけたけれど、母はもう目を開けてはくれなかった。


そのときだった。

何かの気配が、土煙の向こうからゆっくりと近づいてくる。


少女は、涙の滲んだ視界を上げた。

そこにいたのは――


「……っ!」


それは、見た瞬間に“人間じゃない”とわかるほど異様な生き物だった。



二足で歩く異様な生き物は、全身を黒く、硬い殻のようなもので包まれていた。

ひび割れた体の隙間からは、赤黒い光と、蒸気のようなものがじわりと漏れ出している。

まるで内側で、何かが今もなお燃え続けているかのようだった。

顔は歪み、口元には鋭い牙が並び、両手の爪は、ただ“裂く”ためだけにあるような、凶悪な形をしていた。


赤く濁ったその瞳は、まっすぐに少女を見つめていた。


奇妙な足取りで、ゆっくりと少女の方へと歩み寄ってくる。

その歩みは確実で、距離はじわじわと詰まっていった。


少女の体は強張り、声を出すことも、手を動かすこともできなかった。

ただ、金縛りに遭ったかのように、その場で凍りついたまま震えていた。


少女の脳裏に、一冊の絵本の記憶がふと浮かんだ。




数か月前、母から贈られた絵本。

開いたページの中に描かれていた、どこか現実離れした異形の影。


そのとき少女は怖くなって、母の袖をぎゅっとつかんだ。


そして、母はやさしく微笑んで、こう言った。


「いい? ラリンヤ。この世界にはね、邪悪な存在がいるの」

「じゃあく……って?」

「悪いもの、って意味よ」

「わるいもの……?」

「そう。時空の歪みから生まれた存在……私たちはそれを、こう呼んでるの…」


――…"ザルグ"




ざっ……ざっ……


ザルグが通り過ぎた場所には、“穢れ”が滲む。

色鮮やかだった花は黒く枯れ、金属は鈍く錆びつき、

そこにいた者たちは、理由もなく胸を押さえてうずくまる。

空気そのものが、どこか違う世界のもののように思えた。


ザルグは、まっすぐに少女の方へ向かってくる。


赤く光るその目は、確かに彼女を見ていた。


「オ……オオ……!!」


ザルグが濁った声を上げた。


鋭い爪を振りかざし、ザルグは少女めがけて歩みを速める。


少女は自分が今、どれほど強く、母の体を抱きしめているかに気づいていなかった。



ーー死ぬ。



そう思った。その瞬間だった。

鋭い爪が少女に届く直前、ザルグの背後から突如、強烈な光が放たれた。


「…っ!」


意識を引き戻された少女は、ぴたりと震えを止め、目の前に広がる光景に息をのんだ。


ズバッ!!


ザルグは、背後から現れた“何者か”の剣によって斬られた。

鋭い一閃がその体を貫き、真っ二つに裂けていく。


怪物は、声ひとつ上げることなく崩れ落ち、

灰となって、風に溶けるように消えていった。


少女のくすんだ黄金の瞳が、わずかに希望の光を宿したように輝いた。


今、目の前にいるのは大男だった。彼のまとった全身の装甲は、流れるようなしなやかな曲線と鋭い装飾が絶妙に組み合わさり、見る者を圧倒する神聖な美を形作っていた。


胸元には金で細工された紋章が浮かび上がり、

それはまるで、神の加護を受けし者にのみ許される“証”のようだった。


腰には、純白の布地に金糸の装飾をあしらった装飾布が垂れ、動くたびに優美な光沢を放っていた。


裾には、祈るような手つきで縫い留められた複雑な刺繍が施されている。

その布地からは、まるで聖域に属する者だけが持つ、厳かな威厳がにじみ出ている。


足元には、白銀に金の意匠が施された鋼靴が嵌まり、歩みに一分の乱れもない。

白い手袋に包まれた両手のうち、右手には、

ザルグを一閃で斬り裂いた、大剣が静かに握られている。


ザルグに襲われかけたときは、目の前のことで精一杯だった少女だが、今は少しずつ視界が開けてきた。

落ち着きを取り戻しはじめたその目に、ようやく周囲の光景が映りはじめている。


今の下町では、ザルグと呼ばれる異形の怪物たちと、少女を救った大男と同じく白銀の鎧をまとった騎士たちが、淡い光を帯びた武器を手に、激しく交戦している。


そんな光景に目を奪われながらも、少女の視線は自然と、目の前の“彼”へと戻る。


その大男が、ふいに背を向けて歩き出そうとする。


「ま……待って!!」


少女の小さな声が、必死に空気を震わせる。

大男は立ち止まって、ゆっくりと振り返る。

眉をわずかに寄せた顔で、静かに少女を見つめる。


「お…お母さまを助けて!!」


大男は静かに半身を返し、腰に手を添えたまま、少女の腕の中で目を閉じている女を見下ろし、ひとつ、重い吐息をこぼした。


「……残念だな、お嬢ちゃん。その女はもう、助からないだろう」


「お母さまは……まだ息をしてるの! ほんの少しだけど、ちゃんと感じるの……だから、お願い……助けて!」


「……あのな。俺たちみたいな、神聖で高貴な存在にはな、人間を救う義務なんて、最初からないんだ」


「でも……さっき、私を──」


少女の言葉を遮るように、大男が声を重ねる。寄せていた眉をさらに険しくしながら、冷えた口調で言い放つ。


「何を勘違いしているんだ? 俺たち聖騎士の務めは、ザルグを討つこと。それだけだ」


「せい……きし……?」


「お嬢ちゃんはまだ小さいから知らないだろうが、俺たち聖騎士が守るのは、“神の意志に選ばれし者たち”なんだ。

大神官や神殿に仕える者たち、それこそが神聖なる存在。

俺たちが剣を振るうのは、彼らをザルグの脅威から守るためであって……ただの人間を助けることは、務めのうちには入らない。」


少女は、言葉のすべてを理解できたわけではなかった。けれど、この人は、母を助けてくれない。

その事実だけは、幼い心にもはっきりと伝わった。

小さな胸の奥を、冷たい絶望が静かに満たしていく。

声をあげることもできず、少女は唇を震わせながら、ただ母を抱きしめた。


「救える力があったとしても、救うべき価値があるかは別の話だ」


そう吐き捨てるように言い残し、大男は少女のもとを去っていった。


少女は落胆の面持ちで、聖騎士と名乗った大男の背中が遠ざかっていくのを、ただ見つめていた。


胸の内には、まだ自分では名前すらつけられない何かが、静かに降り積もっていく。

その重みに、ただじっと耐えるしかなかった。

少女が腕に抱く、目を閉じた母の最後の息が、静かに消えていく。


その瞬間、魂ごと抜け落ちたかのように、少女の表情から力が失われた。


だが――

曇った瞳の奥底で、確かに何かが芽吹いた。

それは怒りか、悲しみか、それとも…言葉にできない想いか。


今はまだ、ただうずくまることしかできない。

けれど、誰も助けてくれなかったこの日を、少女はきっと忘れない。


次の瞬間、黄金色の光が、少女の瞳の奥からゆっくりと揺らめき始める。

まるでその小さな体の奥底に、秘められていた力が、静かに目覚めていくかのように。


今の少女は、まだ“希望”という光を知らない。

だがいずれ、彼女自身が、多くの人々にとってのその光になる。

その事実を、このときの少女も、誰一人として知らなかった。

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