第二十二話:二宮の変の萌芽、呂蒙の直言
白帝城において新・呉蜀同盟が締結され、呉の国内は、ひとまずの安定と、そして荊州完全支配という大きな成果に対する祝賀ムードに包まれた。
主君・孫権は、この外交的勝利と、それに先立つ夷陵での軍事的勝利により、その権威と名声をますます高めた。
彼は、かねてからの懸案であった後継者問題についても、ひとまずの決着をつけるべく、嫡男である孫登を皇太子に正式に冊立した。
これにより、呉の将来は盤石であり、安泰であるかのように、多くの臣民の目には映った。
しかし、宮廷という場所は、平和な日々が続けば続くほど、新たな権力闘争の火種が燻り始めるという、不可解な宿命を負っている。
孫権には、皇太子・孫登以外にも、多くの皇子が存在した。
中でも、三男の孫和と四男の孫覇は、それぞれ文武の才能に恵まれ、容姿も端麗であり、父である孫権からの寵愛も特に深かった。
彼らが壮年に達するにつれ、それぞれの皇子の周囲には、将来の権力を見越した臣下たちが自然と集まり始め、いつしか派閥のようなものを形成し始めた。
そして、それらの派閥は、互いに牽制し合い、時には皇太子である孫登の地位を脅かすかのような、不穏な空気を宮廷内に漂わせるようになっていったのである。
この宮廷内の微妙な、しかし危険な変化の兆候を、呂蒙は、その鋭敏な政治的嗅覚でいち早く察知していた。
彼が、孫権より下賜された数多の歴史書を読み解く中で、後継者問題に端を発する内紛が、いかに多くの強大な国家や王朝を滅亡へと導いたかを、嫌というほど学んでいた。
特に、強大な勢力を誇りながらも、袁紹が後継者を巡る醜い骨肉の争いの末に、あれほど磐石と思われた基盤を自ら崩壊させ、曹操に滅ぼされていった悲劇は、呂蒙の脳裏に、強烈な教訓として焼き付いていた。さらには、遠く秦の始皇帝没後の混乱や、漢の武帝晩年における後継者争いの凄惨さも、彼に国家の安定における後継者問題の重要性を痛感させていた。
「このまま事態を放置すれば、我が呉もまた、かの者たちの二の舞となりかねぬ…陛下がこの危機に気づかれる前に、この呂蒙が、不退転の覚悟でご進言申し上げるしかない…」
呂蒙は、孫権が最も信頼を寄せる重臣の一人として、この国家の将来を揺るがしかねない問題を、決して座視することはできなかった。
彼は、ある日、孫権に対し、周囲に人を払っての単独での拝謁を願い出た。
そして、主君の前に進み出ると、恭しく、しかし揺るぎない声で直言を開始した。
「陛下、近頃、宮廷内に、臣といたしましては看過できぬ、まことに不穏なる動きが見受けられます。皇子方への、時に過度とも思える陛下の御寵愛が、一部の軽薄なる臣下たちの間に、余計な野心と派閥を生み出し、ひいては国政に重大な混乱を招く恐れがございます。かつて、河北の雄たる袁紹が、後継者を明確に定めなかったが故に、あれほど強大な勢力を持ちながら、あっけなく自滅していったことは、陛下もご記憶に新しいはず。まず何よりも、皇太子殿下のそのお立場を盤石のものとし、他の皇子方には、それぞれの分を厳しく弁えさせ、そして臣下たちが、皇太子以外の皇子に阿り、余計な野心を抱くことのないよう、断固たる措置を講じられることこそ、我が呉国の百年、いや、末永き繁栄を見据えた、最も肝要なる王道策と、この呂蒙は愚考いたします」
呂蒙の言葉は、いかなる遠慮もなく、極めて直接的かつ厳しいものであった。
孫権は、最初こそ、最も信頼する呂蒙からの、この予期せぬ痛烈な苦言に対し、その表情に不快の色を隠さなかった。
しかし、呂蒙の双眸に宿る、一点の私心も曇りもない純粋な忠誠心と、その言葉の端々から滲み出る、呉の国家の将来に対する真摯な憂い、そして何よりも、歴史の教訓に裏打ちされたその諫言の重みを感じ取り、次第に冷静さを取り戻していった。
「……子明よ…そなたの申すことは、まことに耳が痛いが、しかし、的を射ているのかもしれぬ…朕も、近頃の皇子たちの取り巻きたちの、目に余る動きには、少なからず懸念を抱いていたところであった…。」
孫権は、呂蒙の、命を賭した諫言を真摯に受け止めた。彼は、直ちに皇太子・孫登の教育体制をさらに強化すると共に、孫和や孫覇といった他の皇子たちの権限や待遇を適切に見直し、彼らに仕える者たちに対しても、厳しくその分を諭した。特に、孫和・孫覇の周囲で、皇太子の地位を脅かすかのような扇動を行っていたと目される数名の側近については、呂蒙の進言も容れ、表向きは地方への栄転という形を取りつつも、事実上の左遷処分とし、彼らの影響力を削いだ。さらに、呂蒙は孫権に対し、皇子たちが互いに競い合うのではなく、長幼の序を重んじ、将来の皇太子(皇帝)を補佐する徳を養うことの重要性を説き、そのための具体的な教育カリキュラムの導入も提案した。
呂蒙の、この勇気ある、そして極めて早期の直言により、呉の国力を大きく傾かせ、その後の衰退の遠因となりえる、血で血を洗う後継者争いの萌芽は、この時点で、まだ小さいうちに、しかし確実に取り除かれることになったのである。
この一件を通じて、孫権の呂蒙に対する信頼は、単なる軍事面における最高顧問としてだけでなく、国政全般における、最も重要な相談相手としても、もはや揺らぐことのない、絶対的なものとなった。
そして呂蒙もまた、主君を正しい道へと導き、国家の安寧を保つことの重要性と、その責任の重さを、改めてその双肩に深く刻み込むのであった。
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