第二十三話:北伐戦略、合肥か淮南か
白帝城において蜀との新たな同盟関係が再構築され、そして国内においては、後継者問題に端を発する内紛の危機が未然に回避されたことにより、呉の国力は、かつてないほどに充実し、安定の度を深めていた。
これを受けて、主君・孫権と、彼が絶対の信頼を置く呂蒙は、いよいよ本格的な対魏戦略の策定と、その実行へと、その目を鋭く向けることになった。
それは、呉にとって、建国以来の悲願であり、同時に国家の存亡を賭けた、壮大なる挑戦の始まりを意味していた。
呉の朝廷で開かれた最高軍事会議の席上、孫権は、居並ぶ重臣たちに対し、厳かに問いかけた。
「今や、我が呉の国力は、かつてなく充実している。魏を討ち、中原に王道楽土を建設すべき時は、まさに今であると朕は信じる。して、その攻略の第一歩として、我々は魏のいずれの地を攻め入るべきであるか。諸卿の忌憚なき意見を聞きたい」
多くの将帥たちからは、これまでの呉の対魏戦略における宿願であり、幾度となく攻撃を試みてきた合肥の攻略を、改めて最優先目標とすべきであるという意見が相次いだ。
合肥は、長江と淮水という二大河川を結ぶ水陸交通の要衝であり、この地を完全に制圧すれば、呉軍は中原への進出路を確保し、魏の東方における防衛線に楔を打ち込むことができるからであった。
しかし、呂蒙は、これらの意見に対し、静かに、しかし断固として異を唱えた。
「陛下、合肥が戦略的に極めて重要な拠点であることは、この呂蒙も十分に承知しております。しかしながら、これまでの我が軍による度重なる攻撃にも関わらず、我々は未だ一度として合肥を陥落させることができておりません。魏もまた、合肥の重要性を熟知しており、その守りは文字通り鉄壁と言っても過言ではございません。一つの難攻不落の拠点に固執し、貴重な兵力と時間を徒に消耗するよりも、より広範な戦略的視野に立ち、魏の弱点を突く新たな攻撃軸を検討すべきかと存じます」
「では、子明よ」孫権は、呂蒙の深謀遠慮に期待を込めた眼差しを向け、言葉を促した。「そなたは、魏のいずれの地を、我らが最初に狙うべき急所であると考えるか?」
「この呂蒙が、現時点において我が軍が攻略すべき最重要目標と考えるのは、淮水流域全域、すなわち淮南の地でございます。具体的には、まず魏の東方における軍事・経済の中心地である寿春を攻略し、これを拠点として淮南全域を完全に制圧いたします。これにより、魏の東方における最も重要な穀倉地帯を我が呉の手に収め、同時に彼らの補給線を根底から脅かすことが可能となります。さらに、この淮南の地を確固たる足掛かりとして、北方の徐州方面へも進出し、魏の東部戦線全体を大きく揺るがすのです。このようにして魏の東方を攪乱し、その兵力を分散させれば、あるいは難攻不落とされた合肥の守りも、自ずと手薄になる可能性がございます。いや、あるいは、合肥を直接攻めずとも、中原の心臓部への道が、我々の前に大きく開かれるやもしれませぬ」
呂蒙の提示した戦略は、合肥という一点に集中するのではなく、淮南という広大な「面」をまず制圧し、そこからさらに徐州へと戦略的に展開するという、これまでの呉の対魏戦略を根底から覆す、極めてダイナミックかつ野心的なものであった。
それは、彼が長年にわたり読み耽った数多の兵法書や歴史書から得た、大局的かつ複眼的な戦略的思考の賜物であった。
一部の老練な将からは、「あまりにも広範囲に戦線を拡大しすぎではないか。兵力の分散は、各個撃破の危険を招く」という、もっともな懸念の声も上がった。
しかし、孫権は、呂蒙の提示した戦略の壮大さと、その背後にある緻密な計算、そして何よりも、その戦略眼の深さに、改めて深く感銘を受けた。
「子明の策、まことに壮大にして、かつ合理的である。これまでの我々は、合肥という、目の前の戦術目標に囚われすぎていたのかもしれぬな。よし、対魏戦略の立案と、その実行の全指揮権は、そなた呂蒙子明に一任する。存分にその才覚を発揮し、我が呉の悲願を達成してくれ!」
孫権の、絶対的な信頼を込めた言葉に、呂蒙は、その双眸に不退転の決意を宿し、力強く応えた。
「陛下の御期待、この呂蒙、必ずやその一身全霊を賭して果たしてご覧にいれまする!」
呉の国家の命運を賭けた、新たな北伐戦略が、稀代の戦略家・呂蒙の卓越したリーダーシップのもと、ここに静かに、しかし確実に始動した。
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