第二十話:関羽との再会、劉備の葛藤

諸葛亮は、呂蒙の使者がもたらした「関羽生存」という、信じ難い、しかし一条の光とも思える情報を、最大限の注意を払いながら、衰弱しきった劉備に伝えた。

生死の境をさまよっていた劉備であったが、その言葉を耳にした瞬間、虚ろだった瞳に、わずかながら生気が戻ったかのように見えた。

「雲長が…我が義弟、雲長が、まだ生きていると申すのか…孔明よ…そ、それは、まことであろうな…?」

途切れ途切れのか細い声で問いかける劉備に対し、諸葛亮は、静かに、しかし力強く頷いた。

「はっ。呉の呂蒙の使者が、そう明確に申しております。ただし、ご健康の状態は決して芳しいものではなく、予断を許さぬ状況にあるとも…呉は、おそらく、関羽殿のその御身柄を、我々との外交交渉における、最大の切り札として利用するつもりなのでございましょう」

義弟・関羽が、まだこの世に生きているかもしれない。

その事実は、絶望の暗闇の淵に沈んでいた劉備にとって、まさに一条の光明であり、生きる気力を取り戻すための、最後の希望の綱となった。

しかし同時に、それは、彼にとって新たな、そしてより深刻な精神的苦悩の始まりでもあった。

呉に対する、骨髄にまで染み込んだ憎しみは、決して消えるべくもない。

しかし、愛する義弟の命がかかっているとなれば、話は別である。

そして、もし呉との交渉に応じるようなことになれば、泉下で待つであろう多くの将兵、そして蜀の民衆に対し、一体どのような顔向けができようか。

この夷陵における、国家存亡の危機を招いた壊滅的な大敗の責任は、全て自分一人の浅慮と驕りにあったのだ。

劉備は、その後数日間にわたり、高熱に浮かされながらも、この耐え難い葛藤と格闘し続けた。

浅い眠りの中で見る夢の中では、若き日に、関羽、そして今は亡き張飛と共に、満開の桃園の下で兄弟の誓いを交わした、あの輝かしい光景や、夷陵の炎の中で無念の死を遂げていった、多くの名もなき兵士たちの顔が、繰り返し、そして鮮明に現れた。

その頃、呉の都・建業にあって、呂蒙は、捕虜となっている関羽の処遇について、改めて主君・孫権と密に協議を重ねていた。

「陛下、白帝城の劉備は、関羽生存の報を受け、必ずやその心中、激しく動揺しているはずでございます。今こそ、彼に対し、呉との和睦か、それとも義弟の死か、という究極の『選択』を迫る絶好の機会と存じます」

呂蒙は、劉備に対し、一定の条件下において、関羽との面会の機会を与えることを提案した。

もちろん、その面会は、呉軍の厳重な監視下で行われ、時間も極めて限定されたものでなければならない。

「実際に、衰弱したとはいえ、生きている義弟の姿をその眼で確認すれば、いかな劉備といえども、その心は大きく動揺せざるを得ないでしょう。そして、我が呉が提示する和睦の条件を、より真剣に、そして前向きに検討せざるを得なくなるはずでございます」

孫権は、呂蒙の、時に冷徹とも思える、しかし極めて合理的な策略を承認した。

外交とは、時にこのような、非情な心理戦の様相を呈するものである。

数日後、呉の使者が再び白帝城を訪れ、劉備に対し、関羽との面会を正式に提案した。

面会の場所は、呉と蜀の国境に近い、いずれの勢力にも属さない中立的な地点が選ばれた。

劉備は、諸葛亮や趙雲といった、数少ない信頼できる重臣たちの意見を慎重に聞き、そして何よりも、自らの内なる声に耳を傾け、苦悩に満ちた長い思索の末に、この呉からの提案に応じることを決断した。

たとえそれが、呉の仕掛けた巧妙な罠であったとしても、万に一つの可能性に、彼は賭けてみたかったのである。

そして、運命の日が訪れた。

劉備は、やつれ果て、見る影もなく衰弱した姿の関羽と、涙の再会を果たした。

そこにいたのは、かつて赤兎馬に跨り、その重き青龍偃月刀を軽々と振るって天下を震撼させた武神の面影はなく、ただ、長く厳しい幽閉生活によって心身ともに深く傷つき、生ける屍のようになった一人の老人であった。

その痛ましい義弟の姿を目の当たりにし、劉備は、もはやこらえきれず、人目もはばからず号泣した。

「雲長…おお、雲長…すまぬ…この兄が、この兄が不甲斐ないばかりに、そなたにこのような辛い思いをさせてしまった…許してくれ…」

「兄者…何を仰せられますか…これもまた、天が我らに与えた試練…運命なのでございましょう…」

関羽の声もまた、力なく、弱々しかった。

短い、しかしあまりにも重い面会の後、白帝城へと戻った劉備の心は、以前にも増して激しく揺れ動いていた。

呉に対する燃えるような憎しみは、今も変わらない。

しかし、あの痛々しい姿の関羽を、このまま見殺しにすることなど、彼には到底できなかった。

自分は、蜀の国の君主として、そして何よりも、桃園の誓いを交わした義兄弟の兄として、一体何をすべきなのであろうか…。

呉の知将・呂蒙が、周到に計算して仕掛けた「再会」という名の、巧妙にして非情な心理的な揺さぶりは、劉備の心を、確実に、そして深く捉え始めていた。

歴史の歯車は、ここから再び、新たな方向へと回転を始めようとしていた。

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