第十九話:白帝城の劉備、呂蒙の使者

白帝城へと辛うじて逃げ延びた劉備は、その心身ともに、もはや立ち上がることすら困難なほど打ちのめされていた。

最愛の義弟・関羽を失ったと、劉備は絶望していた。呉に囚われた義弟が生きていようとは、彼には到底信じられず、もはや死んだも同然に思えたのだ。そして、桃園の誓いを共にしたもう一人の義弟・張飛もまた、この夷陵の地で、自らを庇って壮絶な最期を遂げた。何よりも、数十万という自慢の将兵を、この夷陵の地で犬死にさせてしまったのだ。

その耐え難い絶望感と、自らの判断の誤りに対する激しい自責の念から、劉備は白帝城に着くや否や、重い病の床に就いてしまう。

「朕の、朕の浅はかな判断が故に…皆を、多くの忠臣勇将を死なせてしまった…雲長にも、そして泉下で待つであろう多くの兵たちにも、合わせる顔がない…益徳よ、そなたの忠義、この兄は生涯忘れぬぞ…!」

劉備は、高熱に浮かされながら、病床で自らを責め苛むうわ言を、ただただ繰り返すばかりであった。

その姿は、かつて仁徳の君として天下に名を馳せた英雄の面影を、もはやどこにもとどめてはいなかった。

一方、夷陵において空前の大勝利を収めた呉軍。

大都督・陸遜は、一部の将から出た「勢いに乗じて白帝城まで追撃し、劉備の首を刎ねるべき」という強硬な意見を退け、深追いを避けるという冷静な判断を下した。

強大な魏が、この呉蜀の争いを好機と捉え、呉の背後を突いてくる可能性を、彼は片時も忘れてはいなかったのである。

江陵の拠点にあって戦局の推移を見守っていた呂蒙は、陸遜からの詳細な戦勝報告を受け、その若き後輩の卓越した戦術眼と、勝利に驕ることのない冷静な判断力を改めて高く評価した。

しかし、彼は勝利の余韻に浸ることなく、直ちに今後の対蜀戦略について深い思考を巡らせていた。

蜀をこのまま完全に滅ぼしてしまうことは、呉にとっても必ずしも得策ではない。

なぜならば、魏という、呉蜀双方にとって共通の、そしてより強大な敵が、依然として北方に厳然と存在しているからだ。

問題は、怒りと絶望の淵にある劉備の心をいかにして鎮め、呉にとって有利な形で再び同盟関係を再構築するか、であった。

外交とは、時に武力以上に困難な技術を要するものである。


呂蒙は、腹心の中から弁舌に長け、かつ胆力のある使者を一人選び出し、白帝城の諸葛亮の元へと派遣した。

その使者には、呂蒙の真意を込めた、次のような内容の書状を持たせた。

「蜀の国、丞相・諸葛亮殿へ。此度の夷陵における戦、まことに両国にとって痛恨の極みであったと拝察いたします。しかし、これ以上の無益な争いは、呉蜀双方にとって、もはや何の益もなく、ただ北方の魏を利するだけであることは、賢明なる貴殿であれば、先刻ご承知のことと存じます。伝え聞くところによれば、劉備殿の御身も深く案じられる状況にあるとのこと。我が呉は、これ以上の敵対行動を取るつもりは毛頭ございません。願わくは、建設的な話し合いの場を設け、両国の安寧と、天下の平和について、虚心坦懐に語り合いたいと存じます。つきましては、貴殿の、国家百年の大計を見据えた、賢明なるご判断を、心より期待するものでございます。」

さらに呂蒙は、使者に対し、口頭で伝えるべき極めて重要な情報を授けた。

それは、呉に幽閉されている関羽が、まだ辛うじて生存しているという事実であった。

ただし、その健康状態は決して芳しいものではなく、予断を許さない状況であることも、それとなく示唆させた。

これは、劉備と諸葛亮の関心を、武力による報復ではなく、外交交渉へと向けさせるための、呂蒙の計算され尽くした一手であった。


白帝城にあって劉備の看病と敗戦処理に忙殺されていた諸葛亮は、呂蒙からの書状と、使者がもたらした関羽生存の報を受け、その心中は複雑な思いに激しく揺さぶられた。

劉備の病状は日増しに悪化しており、蜀の国力はこの壊滅的な敗戦によってまさに疲弊しきっている。

これ以上の戦争継続は、国家の自滅を意味する。

呂蒙の提案は、絶望的な状況にある蜀にとって、まさに乾天の慈雨、一縷の望みとも言えるものであった。

そして、何よりも、関羽生存の報。それがもし、万に一つでも真実であるならば…。

諸葛亮は、劉備のうなだれた病床の傍らで、国家の未来と、主君への忠誠と、そして義兄弟の絆の間で、深く、そして重く思い悩むのであった。

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