第9話 ステージ裏、心が揺れる場所

 暗幕に包まれたステージ裏は、まるで別の世界だった。


 観客のざわめき、ライトの熱気、機材の音――それらすべてが壁一枚の向こうで鳴っているのに、ここはひどく静かだった。


 


「はぁ……はぁ……」


 


 深呼吸を何度繰り返しても、リリスの胸はちっとも落ち着かなかった。


 心臓が早鐘を打ち、手のひらは汗でぐっしょりと濡れている。これが“本番”というものなのか。訓練で味わった緊張とは、まるで別の生き物のようだ。


 


(逃げたい……)


 


 ほんの一瞬、そんな考えがよぎる。だって、間違えたらどうしよう? 歌詞を飛ばしたら? 観客がシーンってなったら?


 それでも、自分の名前が書かれた出番表が視界に入ると、足がすくむ。

 “リリス・アルセリア=ファム(センター)”――その文字が、まるで責任の鎖のように思えてしまう。


 


「……無理かも」


 


 ぽつりと呟いたそのとき、背中から優しく肩を叩かれた。


 


「大丈夫だよ、リリスちゃん」


 


 振り向けば、そこには春日優雅がいた。メイクを終えたその顔は、まるで月の光のように柔らかく、どこか神秘的ですらある。


 


「ステージに立つって、誰だって怖いよ。私だって最初は震えてた。けどね、怖いって思えるのは、ちゃんと夢を追いかけてる証拠だよ」


 


 その言葉に、リリスの心がほんの少しだけ揺れた。


 


「でも……わたし、本当に……みんなの足、引っ張っちゃったら……」


 


 弱々しい声。そんなリリスに、春日は静かに首を振った。


 


「引っ張るとかじゃない。一緒に立つの。その声が震えるのは、心が真剣だからよ。本物のアイドルは、震えてても笑ってる人なの。リリスちゃん、ちゃんと届いてたわよ」


 


 そこへ、もうひとり、足音もなく現れたのは高槻凪だった。


 手にはいつものタブレットを抱えて、無表情なまま近づいてくる。


 


「……これ、さっきのリハで録ったやつ。見て」


 


 タブレットには、リリスが歌った音声波形と、調整されたピッチラインが映っていた。


 


「技術的には……完璧ではない。でも、“伝わる”歌だった。音は震えてるのに、まっすぐで、泣きそうになる」


 


「凪……ちゃん……」


 


 リリスの胸に、じんわりと何かが染みこんできた。


 春日の言葉、凪の声。仲間たちは、彼女を“できる子”だから支えているわけじゃない。“今、ここに立とうとしている”から支えているのだ。


 


「……怖いよ。でも、わたし……立ちたい。歌いたい。

 あのとき、鏡の前で決めた。“わたし自身”として、夢を追いかけるって」


 


 手の震えは止まらない。けれど、リリスの足は、ゆっくりとステージへと向き直った。


 


「ありがとう。わたし、行ってくるね!」


 


 春日がふわりと微笑み、凪が小さく頷く。


 カウントが聞こえる。

 ステージ裏から、司会者の声が響く。


 


「――本日のオープニングアクト! 話題の新人ユニット、Myth∞Twinkleミス・トゥインクル!」


 


 ドラムロールと観客の歓声が重なる。


 その瞬間、リリスの中で“何か”が弾けた。


 ――恐れも、夢も、すべて抱きしめたまま。

 リリスは、光の中へと足を踏み出した。

 それは、小さな一歩。でも、この世界を揺らす第一声だった。

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