第8話 私たちはまだ、“夢の入口”

 リリスは、誰もいない練習室の鏡の前に立っていた。

 白いレッスンウェアの肩から、汗が一筋、頬をつたう。


 ――鏡に映る自分。

 そこには、さっきステージで何もできなかった、自信のない少女の顔があった。


 


「……“魔王と女神の娘”って、何なんだろうね……」


 ぽつりと、独り言が落ちた。


 赤ん坊の頃から“特別”と呼ばれていた。魔界でも天界でも、どこにいても“期待”ばかりが先に立っていた。


 けれど、この世界では違う。

 歌も踊りも声も、何も通じない。夢を語るだけじゃ、誰にも届かない。


 


「……わたし、何もないよ……」


 震える声が床に落ちる。

 でもそのとき、鏡の中の自分が、まるで語りかけてくるようだった。


 


 『それでも――まだ、立ちたいんじゃないの?』


 


 心の奥で、ひとつ、小さな音がした。

 それは痛みのようでいて、どこか懐かしくもあった。


 「……うん。立ちたいよ。

  魔王の娘でも、女神の血でもない、“わたし自身”として――」


 


 扉がそっと開く音がした。


「……リリス?」


 立っていたのは、高槻凪だった。タブレットを手に、いつものように感情をほとんど見せない表情で。


「……よかったら、これ。渡そうと思ってて」


 凪が差し出したのは、未完成の楽譜。五線譜には歌詞の断片が滲んでいる。


「あなたの声、他の誰にも似てない。

 揺れてて、不安定で、でも……どこか、“光を探してる”って音がした」


 リリスは、その言葉に思わず息を呑んだ。


「……好きかも。あなたの歌」


 それは、誰よりも静かで、でも、誰よりもあたたかい肯定だった。


 


 ――その夜。

 寮のラウンジには、ユニットメンバー5人が集まっていた。


 カーペットの上に円になって座る彼女たちは、もう“他人”じゃなかった。


 


「リズム感覚は、まず日常からね。歩き方から矯正してみましょうか」

「発声は腹筋っしょ! 一緒にラジオ体操やろー!」

「それ、朝ごはんなかったら無理」

「私、筋トレアプリ入れておくね。全員でやると続くし」


 笑い声が混ざる。

 その中心で、リリスはこっそり唇を噛み、そして微笑んだ。


「わたし……がんばる。

 この声で、ちゃんと“誰かの心”に届くようになりたい」


 


 そのとき、ラウンジの扉が静かに開いた。


「いい顔をするようになったな」


 クロノが現れた。

 普段は冷静なその表情に、今日はほんのわずかに微笑みがあった。


「――決意が固まったようだな。なら、君たちに用意しよう。最初のステージを」


「ステージ……?」


「『Myth∞Twinkle』としての初公演だ。小規模だが、観客は本物だ」


 ごくり、とリリスが喉を鳴らす。


 けれど、その瞳は、もう迷っていなかった。


「出たい……! やりたいです!」


「……よろしい」


 


 そうして、クロノが去ったあと。

 5人の少女はしばらく、誰も言葉を発しなかった。


 でも、空気は確かに変わっていた。


 


 まだ不器用で、未完成で、震えるままだ。

 けれど彼女たちは――


 


 夢の入口に、立った。


 誰かの期待でも、伝説の血でもない、“自分の足”で。


 


 その一歩が、ステージという名の世界を照らす

 **最初の光ファースト・ライト**になるとは――


 このとき、誰も知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る