第八章 交錯するノイズと孤独のシグナル

璃子からの連絡は、途絶えた。

最後に交わしたメッセージは、杏里の記憶では、当たり障りのない、天気の話だったような気がする。それから三日。杏里のスマートフォンは、璃子からの着信も、新しいメッセージの通知も告げることなく沈黙を守っていた。屋上に足を運んでみても、そこに璃子の姿はなかった。ただ、空になったペットボトルが一つ、手すりの下に転がっているだけだった。


杏里の日常は、表面上は何も変わらなかった。深夜の古本屋のカウンターに座り、時折訪れる客の対応をし、あとは静かに本を読む。しかし、その静寂は、以前とは質の異なる重さを伴っていた。ページをめくる指先はどこか覚束なく、文字は頭の中を滑っていくだけで、意味を結ばない。


その夜も、古本屋の蛍光灯は無機質な光を投げかけていた。閉店間際、ドアベルが鳴り、杏里は反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、和田恵子だった。しかし、その手には本はなく、いつも肩から下げているトートバッグも見当たらない。そして、その表情は、以前の焦燥感とはまた違う、切羽詰まったような、あるいは何かを懇願するような色を浮かべていた。


「あの……是枝さん、ですよね」


恵子は、杏里の名前を呼んだ。杏里は驚きを隠せなかった。自分の名前を、彼女が知っているとは。


「……はい」

「少し、お時間いただけますか。どうしても、お伝えしたいことがあって」


恵子の声は震えていた。杏里は頷き、彼女をカウンターの裏にある小さな休憩スペースへと促した。パイプ椅子に座った恵子は、震える手で自分のスマートフォンの画面を杏里に向けた。そこには、数人の若い男女が薄暗い部屋で騒いでいる動画が映し出されていた。画質は悪く、音声も不明瞭だったが、その中に、一瞬だけ、苦しそうな表情を浮かべた璃子の顔が見えたような気がした。


「これは……」

「……私の、妹なんです」


恵子の言葉に、杏里は息を呑んだ。恵子が語り始めたのは、複雑な家庭環境、年の離れた奔放な妹、そして、その妹が最近関わるようになったという、素性の知れないグループの話だった。妹は、恵子の忠告も聞かず、そのグループに入り浸り、数日前から連絡が取れなくなっているのだという。そして、そのグループのメンバーの一人が、時折この古本屋を訪れていたらしい、と。


「妹は……あなたのお友達、出村璃子さんとも、最近よく一緒にいたようなんです」


恵子の言葉は、杏里の頭の中でバラバラだったピースを繋ぎ合わせるかのように響いた。璃子の友人たち、恵子の妹、そして、璃子自身。それらが、杏里の知らないところで、危険な糸で結ばれていた。


「璃子が……何か、巻き込まれていると?」

「分かりません。でも……不安なんです。あの子たち、普通じゃない。妹も、璃子さんも、もしかしたら……」


恵子の声は、涙で途切れがちだった。杏里は、何も言えなかった。ただ、スマートフォンの画面に映る、不鮮明な璃子の顔をじっと見つめていた。あの屋上で見せる、屈託のない笑顔とは似ても似つかない、歪んだ表情。


恵子が帰った後、杏里は一人、古本屋の静寂の中で立ち尽くしていた。璃子を助けたい。けれど、自分に何ができる? 警察に届けるべきか。しかし、確たる証拠は何もない。恵子の話も、憶測の域を出ない部分が多い。


杏里は、自分の無力さを痛感していた。これまで、他人との深い関わりを避け、自分の殻に閉じこもってきた。その結果が、これなのか。大切な友人が危機に瀕しているかもしれないのに、自分は何もできない。


ふと、杏里は数日前に璃子と最後に交わしたメッセージを思い返した。「天気がいいね」という杏里の言葉に、璃子は「そうだね。でも、なんだか嵐がきそう」と返信していた。あの時、璃子は何を思っていたのだろう。その言葉の裏に隠されたSOSに、なぜ自分は気づけなかったのだろう。


杏里は、古本屋のシャッターを閉めると、宛てもなく夜の街を歩き始めた。スマートフォンの連絡先リストから、璃子の名前を何度も呼び出す。しかし、返ってくるのは、無機質な呼び出し音だけだった。


都市のネオンが、雨上がりのアスファルトに滲んで、まるで血の色のように見えた。杏里は、その赤い光の中を、ただひたすら歩き続けた。璃子の手がかりを求めて。しかし、広大な都市は、あまりにも多くのノイズに満ちていて、璃子からのシグナルは、どこにも見当たらなかった。

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