第七章 都市の迷路と糸電話

屋上での一夜から、季節は少しだけ進んだ。蟬の声が遠くに聞こえ始め、アスファルトが蓄える熱も日増しに強くなっている。杏里と璃子の関係は、以前と変わらぬように見えた。屋上で交わされるとりとめのない会話、コンビニの袋を提げたささやかな晩餐。しかし、水面下では、何かがゆっくりと、しかし確実に変化しているような予感が、杏里の胸の奥に微かに漂っていた。


その予感は、ある日の古本屋での出来事から、より明確な形を取り始めた。


深夜の静寂を破ってドアベルが鳴り、入ってきたのは和田恵子だった。いつも通りの黒縁眼鏡に飾り気のない服装。しかし、その日の彼女はどこか落ち着きがなく、店内を早足で歩き回り、特定のジャンルに絞ることなく、あちこちの棚に手を伸ばしては、すぐに離すという行動を繰り返していた。まるで、何か大切なものを失くして、それを必死に探しているかのように。


杏里がカウンターから見守っていると、恵子はふと足を止め、杏里の方をじっと見つめた。その眼鏡の奥の瞳は、いつもよりも鋭く、何かを問いかけているようだった。


「……あの」


恵子が、か細いながらもはっきりとした声で杏里に話しかけてきたのは、それが初めてだった。


「はい」

「……ここに、人は、来ますか」


途切れ途切れの、奇妙な問いだった。杏里は一瞬、言葉の意味を測りかねた。


「お客さん、ということですか」

「……ええ。その……若い女性とか」


恵子の視線が、杏里の顔から逸れて、店内の薄暗い隅に向けられる。杏里の脳裏に、ふと璃子の姿がよぎった。璃子がこの古本屋に来ることはない。けれど、恵子の言う「若い女性」が、特定の誰かを指しているような気がして、杏里は少しだけ緊張した。


「時々、いらっしゃいますけど……何かお探しの方が?」

「……いえ。すみません、変なことを聞いて」


恵子はそれだけ言うと、再び俯いてしまい、結局何も買わずに店を出て行った。ドアベルの音が、やけに大きく店内に響いた。後に残されたのは、不可解な問いと、恵子の纏っていた焦燥感のような空気だった。


その数日後、璃子からのメッセージのトーンが、わずかに変わったことに杏里は気づいた。いつもの絵文字が少なく、文面もどこか素っ気ない。屋上に誘う言葉もなく、ただ日常の断片を報告するような、事務的な内容が続いた。


杏里は、恵子の言葉と璃子の変化を、無理に結びつけようとは思わなかった。けれど、都市という巨大な迷路の中で、自分たちの知らないところで、何かが繋がり、影響し合っているのかもしれないという漠然とした感覚があった。まるで、見えない糸電話が、あちこちに張り巡らされているかのように。


ある夕暮れ時、杏里はバイト先へ向かう途中、駅前の雑踏の中で、璃子の友人らしき数人の男女が深刻な顔で話し込んでいるのを見かけた。璃子の姿はそこにはなかったが、彼らの険しい表情は、何か良くないことが起きていることを暗示しているようだった。杏里は足を止めず、彼らの横を通り過ぎた。自分には関係のないことだ、と心の中で呟きながら。


しかし、その夜、古本屋のカウンターでぼんやりと外を眺めていると、ショーウィンドウの向こうを、璃子が一人で俯き加減に歩いていくのが見えた。昼間に見かけた友人たちとは一緒ではなく、その足取りは重く、どこか追い詰められているような印象を受けた。杏里は思わず立ち上がりかけたが、璃子は杏里の存在に気づくことなく、雑踏の中に消えていった。


あの時、声をかけるべきだったのだろうか。


その問いが、杏里の心に重くのしかかる。けれど、自分に何ができたというのだろう。


都市の迷路は、今日も人々を飲み込み、すれ違わせる。見えない糸電話は、時に繋がり、時に断ち切られ、誰にも予測できないメロディを奏でている。杏里は、その複雑な響きの中で、ただ耳を澄ませることしかできないのかもしれない。そして、次に璃子と会った時、どんな言葉を交わせばいいのか、まだ見つけられずにいた。

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