第六章 屋上のコンフェッションズ
錆びた鉄の扉を押し開けると、ひやりとした夜風が杏里の頬を撫でた。屋上には、既に璃子の姿があった。手すりに寄りかかり、ぼんやりと街の灯りを眺めている。その背中は、いつもより少し小さく見えた。
「待った?」
杏里が声をかけると、璃子はゆっくりと振り返った。その顔には、昼間に杏里が遠目に見たような、華やかで自信に満ちた表情はなく、どこか疲れたような、それでいて少し安心したような、複雑な色が浮かんでいた。
「ううん、私も今来たとこ」
璃子はそう言って、いつものように杏里の隣のスペースを空けた。杏里が腰を下ろすと、璃子はコンビニの袋から、見慣れないパッケージのチョコレート菓子を取り出した。
「これ、新しいやつ。杏里も食べる?」
「……うん」
差し出された菓子を受け取りながら、杏里は璃子の横顔を盗み見た。どこか無理をしているような笑顔。昼間のカフェでの、友人たちに囲まれていた時の、あの溌剌とした表情とは明らかに違う。
「なんか、変な感じ」
璃子がぽつりと言った。
「何が?」
「うーん……なんか、杏里とこうしてると、他で何があっても、どうでもよくなるっていうか……リセットされる感じ?」
「そう」
「でも、リセットされたからって、何も解決するわけじゃないんだけどね」
璃子は自嘲気味に笑い、チョコレートを一口かじった。その言葉の端々に、杏里が垣間見た「璃子の日常」の断片が散らばっているように感じられた。友人たちとの華やかな時間の裏側にある、見えない軋轢や疲労。
「別に、解決しなくてもいいんじゃない。一時的に忘れられるなら、それはそれで」
杏里の言葉に、璃子は少し驚いたように目を見開いた。そして、ふっと息を吐くように微笑んだ。
「杏里ってさ、たまに核心突くこと言うよね。無自覚っぽいけど」
「そうかな」
「うん。だから、安心するのかも」
璃子は、今度は杏里から視線を逸らし、再び遠くの夜景に目を向けた。その横顔は、何かを堪えているようにも、あるいは何かから解放されたようにも見えた。
「今日ね、ちょっと嫌なことあってさ」
璃子が静かに語り始めた。それは、昼間のカフェでの出来事の続きなのかもしれないし、あるいは全く別の話なのかもしれない。具体的な内容は曖昧だったが、言葉の端々から、人間関係の面倒くささや、自分の思い通りにならない現実への苛立ちが滲み出ていた。
杏里は黙って聞いていた。璃子の言葉に頷くでもなく、否定するでもなく、ただ、その言葉が夜の空気に溶けていくのを感じていた。璃子が抱える問題は、杏里には解決できない。それは分かっていた。けれど、こうして話を聞くことくらいはできる。そして、璃子もまた、それを杏里に求めているのかもしれない。
「なんか、ごめんね。こんな話ばっかりで」
「別に」
杏里は短く答えた。本当に、そう思っていた。璃子が自分にどんな顔を見せようと、どんな話をしようと、それは杏里にとって、璃子という存在の一部でしかなかった。
しばらくの間、二人は黙って同じ景色を眺めていた。無数の窓の灯りが、まるで遠い銀河のように瞬いている。その一つ一つの光の下に、それぞれの人生があり、それぞれのドラマがある。自分たちの悩みなど、この広大な夜景の中に埋もれてしまうほど、ちっぽけなものなのかもしれない。
「でもさ」と、璃子が口を開いた。「杏里とこうしてると、なんか、大丈夫な気がしてくるんだよね。根拠はないけど」
その言葉は、夜風に乗って、杏里の心にじんわりと染み込んできた。杏里は、璃子の肩にそっと自分の頭を寄りかからせた。璃子は少し驚いたようだったが、すぐに杏里の頭を優しく受け止めた。
温かい体温が伝わってくる。シャンプーの甘い香り。規則正しい呼吸の音。
(私たちは、結局、こうして寄り添うことしかできないのかもしれない)
杏里は目を閉じた。互いの抱えるものを完全に理解することはできなくても、その重さを少しだけ分かち合うことはできる。言葉にならない感情を、沈黙の中で共有することはできる。
屋上には、ただ、都市の喧騒と、二人の静かな呼吸だけが響いていた。ひび割れた万華鏡は、それぞれの胸の中にしまわれたまま。けれど、そのひび割れから漏れる微かな光が、この暗闇の中で、二人を繋ぎとめているのかもしれない。
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