第五章 ショーウィンドウの他人
屋上での出来事から数日が過ぎた。璃子とは時折メッセージをやり取りするものの、あの夜のような濃密な空気は薄れ、どこか当たり障りのない、日常の薄い膜が再び二人を覆っているようだった。杏里はそれを寂しいとは思わなかった。むしろ、それが普通なのだと、どこかで安堵している自分もいた。
その日、杏里は古本屋のバイトが休みで、特に目的もなく街をぶらついていた。初夏の陽射しはまだ柔らかく、Tシャツ一枚でも過ごせるくらいの気候だった。雑踏は苦手だが、人々の流れに身を任せて歩いていると、奇妙な匿名性に包まれて、それはそれで悪くないと思える時もある。
ふと、賑やかなカフェのオープンテラスに璃子の姿を見つけた時、杏里は思わず足を止めた。璃子は数人の男女と一緒で、大きな声で笑い、身振り手振りを交えて何かを話している。その輪の中心にいるように見えた。杏里と二人でいる時の、少し甘えたような、あるいはどこか投げやりな雰囲気とは全く違う、明るく社交的な「璃子」がそこにいた。
杏里は、ショーウィンドウに映る自分の姿をぼんやりと見つめた。そこには、何の変哲もない、街の風景に溶け込んでいる自分がいる。璃子のいる華やかなテラスとは、まるで違う種類の空気が流れている場所。杏里は、璃子の友人たちに嫉妬したわけではなかった。ただ、自分が見ている璃子は、彼女のほんの一部分でしかないのだという当たり前の事実を、改めて突きつけられたような気がした。そして、それは杏里自身についても言えることなのだろう。
(私たちは、互いの一面しか知らない)
その思いは、軽い目眩にも似た感覚を杏里にもたらした。人は、相手に見せたい自分を選び、あるいは無意識のうちに演じている。それは、この都市で生きていくための処世術なのかもしれない。
杏里は、古本屋で出会った和田恵子のことを思い出していた。彼女は、誰に見せるでもなく、ただ黙々と自分の世界に没頭していた。それはある意味で、非常に純粋な孤独の形なのかもしれない。一方、璃子は、多くの人間に囲まれながらも、どこかで孤独を抱えているように見える。どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ違う種類の孤独が、この街には無数に存在している。
その時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。璃子からのメッセージだった。
『杏里、今日暇? 屋上で新しいお菓子でも食べない? 笑』
いつもの、絵文字混じりの軽い文面。さっきまでの華やかな輪の中にいた璃子とは、まるで別人のようだ。杏里は、カフェのテラスに再び視線を送った。璃子は、スマートフォンを片手に、少しだけ輪から外れて、誰にも気づかれないように周囲を見回しているように見えた。その目が、杏里の姿を探しているわけではないと分かっていながらも、杏里はショーウィンドウの陰に隠れるように身を潜めた。
(私たちは、互いの一面しか見せ合わないのかもしれない)
杏里は、璃子への返信を打ちながら、そんなことを考えていた。
『いいよ。いつもの場所で』
短い返信を送ると、杏里はカフェの前を静かに通り過ぎた。璃子のいる世界と、自分のいる世界。それらは、決して交わることのない平行線なのかもしれないし、あるいは、思いがけない場所で不意に接点を持つのかもしれない。
街の喧騒が、再び杏里を包み込む。ショーウィンドウに映る自分の姿は、相変わらずぼんやりとしていて、掴みどころがなかった。けれど、それでいいのかもしれない、と杏里は思った。他人も、自分も、完全には理解できない。その不確かさの中で、私たちは手探りで何かを掴もうとしている。
屋上に向かう足取りは、いつもより少しだけ軽かった。璃子がどんな顔で待っているのか、少しだけ楽しみだった。そして、自分はどんな顔で璃子に会うのだろうか。そんなことを考えながら、杏里は雑踏の中を歩いていった。
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