第九章 アスファルトに落ちた羽
ほとんど眠れないまま朝を迎えた。窓から差し込む光は、やけに白々しく、杏里の不安を増幅させるだけだった。璃子の部屋の番号を何度も押そうとしては、そのたびに指が止まる。呼び出し音が虚しく響くだけだと分かっているのに。
重い体を引きずってアパートの階段を降りると、郵便受けの隣に、見慣れない白い封筒が落ちているのに気づいた。差出人の名前はない。ただ、杏里の部屋番号だけが、震えるような文字で記されていた。
封筒の中には、一枚の写真と、短いメモが入っていた。写真は、どこかの薄暗い雑居ビルの一室を捉えたものだった。床にはゴミが散乱し、壁には落書きがされている。その部屋の隅に、見覚えのあるピンク色のスマートフォンのストラップが落ちているのが、辛うじて見て取れた。璃子のものだ。
メモには、震える文字でこう書かれていた。
『昨夜、妹がこの写真の場所にいたかもしれない。私は、もう一人では……』
和田恵子からのものだと、すぐに分かった。
杏里は、写真に写る部屋の窓の外に、微かに見える看板の文字に意識を集中させた。それは、杏里が時折、古本屋の帰り道に通る、少し寂れた商店街の一角にある看板だった。
恵子に連絡を取ると、声はひどく憔悴していた。杏里は、写真の場所に見当がついたことを告げ、そこで落ち合う約束をした。警察に届けるべきだという恵子の言葉に、杏里は明確に反対はしなかったが、今の段階で警察がどこまで動いてくれるのか、確信が持てなかった。そして何より、璃子が自らその場所にいる可能性も、完全には捨てきれなかった。
指定された場所は、予想通り、古びた雑居ビルの立ち並ぶ一角だった。人気はなく、昼間だというのに、どこか薄暗い空気が漂っている。恵子は既に到着しており、不安そうに周囲を見回していた。その手は、きつく握りしめられている。
「ここだと思うんです」杏里が写真のビルを指差すと、恵子はこくりと頷いた。「でも、どうやって……」
ビルには複数のテナントが入っているようだったが、そのほとんどはシャッターが下りていたり、人の気配がなかったりした。写真の部屋が何階にあるのかも分からない。
「璃子がよく話していたんです。時々、友達と『秘密基地』みたいな場所に集まるって」
杏里は、屋上での璃子との他愛ない会話を思い出していた。その時は聞き流していた言葉が、今になって重く甦る。
「もしかしたら、このビルのどこかに……」
二人は、ビルの薄暗い階段を、息を殺して登り始めた。軋む床の音、どこからか聞こえる水の滴る音。階を上がるごとに、空気は重くなり、得体の知れないプレッシャーが二人を包み込む。
三階まで来た時、一つの部屋のドアが僅かに開いているのに気づいた。ドアの隙間から、微かに話し声と、音楽のようなものが漏れ聞こえてくる。恵子が息を呑むのが分かった。
杏里は、恵子に目配せして制止すると、そっとドアに近づき、中の様子を窺った。薄暗い部屋の中には、数人の若い男女が気だるそうに座り込んでいるのが見えた。その中には、先日駅前で見かけた、璃子の友人らしき顔ぶれも混じっている。しかし、璃子と、恵子の妹らしき少女の姿は見当たらない。
彼らの会話は途切れ途切れで、何を話しているのかはっきりとは聞き取れない。ただ、その口調や雰囲気からは、決して友好的ではない、むしろ何かを隠し、警戒しているような印象を受けた。
杏里が後ずさりしようとした瞬間、部屋の中の一人が、不意にドアの方に視線を向けた。杏里は慌てて身を隠したが、見られたかもしれない、という焦りが胸を締め付ける。
「誰かいるのか?」
低い声が聞こえ、ドアがゆっくりと開かれる気配がした。杏里と恵子は、音を立てないように、しかし急いで階段を駆け下りた。背後から、誰かが追いかけてくるような足音は聞こえなかったが、心臓は激しく波打っていた。
ビルの外に出ると、眩しい太陽の光が目に痛かった。二人は、しばらく言葉もなく、荒い息を整えていた。
「……いなかった」恵子が、絞り出すような声で言った。「あの子も、璃子さんも」
「でも、あの部屋は……何か関係があるはずです」
杏里の手のひらには、汗が滲んでいた。恐怖と、焦りと、そして、わずかな手がかりを掴んだという、奇妙な高揚感が入り混じっていた。
写真に写っていたピンクのストラップ。あれは、璃子が大切にしていたものだ。それが、あの部屋にあった。それは偶然ではないはずだ。
「もう一度、夜に来てみませんか」杏里は、自分でも驚くほど冷静な声で言った。「昼間は人が少ないかもしれない。夜なら、何か動きがあるかもしれない」
恵子は、不安そうに杏里の顔を見つめた。その瞳には、恐怖と、それでも妹を助けたいという強い意志が揺らめいていた。
「……分かりました」
夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始める。杏里は、璃子が屋上で見せていた笑顔を思い出していた。あの笑顔を、もう一度見たい。その一心だけが、杏里を突き動かしていた。アスファルトに落ちた一枚の羽。それを拾い集めて、もう一度、空へ帰してやらなければならない。そんな思いが、杏里の胸を満たしていた。
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