第28話 肉無し麻婆丼

 人間の思考は五感に支配されている。目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぐ、それらによって己のしたいことは決定づけられているのだ。たとえ確固たる意思を持っていたとしてもそれを覆すことは難しい、今回はそんなお話。






 狐乃渡このわたり零細会計事務所の奥側の部屋、お祓い等を執り行う場にて、真名子まなこは禅を組み瞑想していた。霊的存在との戦いは精神力の強さが物を言う世界、常に折れず・迷わず・惑わされずの心構えにて挑むもの。これはそのために日々行う修練なのだ。


 1日30分をワンセットとしてこれを出来る限り毎日、これが幼少期の修行時代から続くルーティンワークだ。これで真名子は不惑の精神を養ってきた。あるいは物怖じしないずけずけとした物言いも、この修練によって培われたものなのかもしれない。


「おお狐乃渡の、今日の瞑想は終わりか。」


「ええ。それと今からお金おろしに行ってきますので引き続き留守番お願いします。」


 そう言うと真名子はさっさと着替えて事務所を出ていく。こういう整然とした迷いのない行動もあの修行の賜物なのだろうな、と鴉魅からすみは感心するのだった。






ザー ザー ザー


 銀行で金をおろしたその帰り道、通り雨に見舞われた。ついぞ出かけた頃は青空が広がっていたというの本当に急な通り雨だ。普通なら己の運の悪さに腹立たしくもなるところだが、真名子はやはり慌てず騒がず近くのスーパーに自転車を止めた。


(買うものも無いのに駐輪するのも心苦しいですが、仕方ありません。)


 仕方ないと言いつつ、買いもしないのに店内に入るのは気が引けたようで、駐輪場の雨どいで雨が過ぎるのを待つ。スマホでも見ながら時間を潰していると、ただ雨音のみが耳に入ってくる。


シュアアアアア……パチパチパチ……


 そしてその雨の降り注ぐ音、そして雨どいにぶつかる音、その軽快なリズムは真名子に「あるもの」を連想させた。


「……天ぷらが食べたい。」


 それは天ぷらを揚げる音。脳内に溢れるのはカラッと揚がったエビや茄子などのイメージ。それは食欲中枢を刺激し、今夜のは天丼以外ありえないという気持ちにさせる。


「しかし予算が……いや待て、かき揚げ丼なら……」


 小麦粉・卵・玉ねぎに人参は買い置きがある。となれば後は洒落っ気のある具材のひとつでもあればいい。真名子は店内へと進み、ちょうど売り出しであった剥き海老を買って帰るのだった。






 雨はようやく止み、真名子は再び自転車を漕ぎ出す。口の中は完全にかき揚げ丼の気分、バイト終わりの料理に心躍らせていた。


ふわり


 雨上がりの住宅街を通る途中、「ある香り」が鼻をくすぐった。今の時間は午後5時、一般家庭では夕食の準備に取り掛かる時間だ。換気扇近くを通りがかるたびにそれらの匂いが漂ってくる。


 そしてその「ある香り」はあまりにも印象深く脳裏に焼き付くものだった。あるいはこの香りに抗うことができる日本人など存在しないのではないかとすら思える、そんな香りである。


「……カレーが食べたい。」


 みんな大好きカレーの匂い、それが鼻腔を直接刺激したのだ。雨音から連想された油で揚げる音などという間接的な刺激などとは比べるべくもない。真名子の脳内はあっという間にカレーに支配された。


(いやしかしもう剥き海老買ってしまったし……いや、さっと煮る感じのシーフドカレーにすれば……)


 幸いカレールウも買い置きがあるし、玉ねぎと人参は共通する材料だ。突然の変更に真名子は大いに戸惑ったものの、もうこれ以上変わることはないだろうと心に決めて帰路につくのだった。






 そして深夜、真名子は今日も今日とてコンビニバイトに臨む。幸いこの日は客の入りも少なく暇であった。それこそ、帰ってからのご飯のことで頭がいっぱいでも問題無い程度には。


(エビのカレー……どんなふうに仕上げましょうか?肉メインじゃないですからあまりごってりした味よりか、シンプルでクリーミーな方向性で……)


 未だにカレーに支配された脳内で、どんな風に作るかを思案する。ただ美味しく作ればいいだけではない、家で留守番してる酔っ払いの舌と腹に合うようにしなければならない。そしてその考えている時間もまた、真名子にとっては楽しみであった。


「そうそう、そういえば店長に頼まれてたんだった。」


 そんな最中、バイトリーダー石垣が何やら丸めた紙を持って休憩から帰ってきた。


「なんですかこれ?」


「明後日からの四川フェアの告知。ちょいと早いけど、深夜暇だったら前倒しでやっといてくれって。」


 石垣が丸められたポスターを広げて見せる。そこには唐辛子の赤が映える「いかにも」な限定商品が連ねられていた。激辛汁無し担々麺・回鍋肉おにぎり・棒々鶏味のサラダチキン・チーズ入りエビリチまん……



 そして中央に配置された目玉商品・本格四川麻婆チャーハン。



「……あっやばい。」


「やばい?どうかしたんですか狐乃渡さん?」


「い、いえ、こちらの話です。」


 思わず言葉が漏れてしまった。コンビニ商品だてらに、真っ赤なラー油の赤と真っ白な豆腐のコントラストが映えるがたっぷりとかけられたチャーハンは実に美味そうに見える。


―――それこそ、頭の中を支配していたカレーへの執着を駆逐するほどに。


(いやダメですって!折角剥き海老買ったのに麻婆豆腐なんて!というかどうせならエビチリのほうの気分になりなさいよ私!)


 人間の心とはげに不可思議なものである。頭ではカレーを断行すべきだとわかっていても、口の中は完全に麻婆豆腐の気分だ。そんな理性と本能の乖離を抱えたまま、真名子は煮えきらぬ気持ちでその日のバイトを続ける。そして終業とともに、ものすごい勢いで自転車を漕いて帰宅するのだった。






「おお帰ったか狐乃渡の。して本日のは何じゃ?」


「麻婆丼です!!」


 帰って早々に飯のことを尋ねる鴉魅に対し、真名子は半ばキレながら返した。理性と本能の葛藤の結果は本能が勝ったようだ。


 どかどかと強い足音を立てながら台所に向かい、冷蔵庫を確認する。豆腐・ネギ・豆板醤・しょうがとにんにくは買い置きがあった。しかし足りぬのは甜麺醤と挽肉、いずれも麻婆豆腐には欠かせない材料だ。


 しかし諦めてカレーないしかき揚げ丼に軌道修正するなどという選択肢は今の真名子の頭には存在しない。視野狭窄に陥っている自覚はあるが、それをどうにかしようと思うような冷静な判断は既にできない状態にあった。


 かくして真名子が見つけたのはひきわり納豆と田楽味噌。これで何とかしてみようと調理を始めた。




 まずは豆腐をさいの目切りに、ネギは細かく刻む。フライパンを熱しごま油を敷き、豆板醤・田楽味噌・チューブのおろしにんにくしょうがをよく混ぜたものを炒める。香りが出てきたら焦げる前に水・中華スープの素を投入。塩コショウで味を整える。


 沸いてきたら豆腐を加え中まで火が通るまで煮る。その間にひきわり納豆をよくかき混ぜ、付属のタレも加えて滑らかめな粘りに。フライパンの火を止め、納豆と刻みネギを投入、豆腐が崩れないようにそっとかき混ぜる。納豆の粘りでとろみをつけるので水溶き片栗粉は不要だ。


 そしたらご飯をよそい、出来上がった麻婆豆腐をかければ完成だ。



「はい、今日ののご飯は『肉無し麻婆丼』になります!お好みで山椒とラー油をかけてお召し上がり下さい!」



「何でちょっとキレ気味なんじゃ……?」


 真名子の態度に疑問を抱きつつも、鴉魅は目の前に出されたの飯に期待を寄せる。確かに大豆は「畑のお肉」とも称されるが、果たして麻婆豆腐の挽肉の代わりにはなるのか?レンゲで掬い、口に運ぶ。


「うむ!これはこれで!」


 柔らかく油分の無い納豆では、豚ひき肉の歯ざわりとコクの代わりとするには役者不足と言わざるを得ない。しかし辛み臭みと納豆の相性は以前食べた「韓国風ひっぱりうどん」で実証済み、にんにくの効いた豆板醤ベースのスープとよくなじんでいる。


 そして納豆に加え、甜麺醤代わりに使った田楽味噌のおかげかどことなく和風のテイストも漂う。好みでかけろと言われた山椒が、四川定番の花椒ホワジャオでなく和山椒わざんしょうなのもそういう統一感を考えてのものなのだろう。実際にあまり刺激的すぎないシビカラがよく合っている。


 納豆の粘りを使った自然なとろみも喉越しよく、あれよあれよという間に完食してしまった。




「ごちそうさま―――って、どうしたんじゃ狐乃渡の?」


「いえ……少し己の至らなさを反省しているところです。」


 自身の欲求を満たすぐらいにはよくできた麻婆丼であったにもかかわらず、真名子は食後顔を覆い伏せっていた。迷いを断つ精神修養の直後に三度も献立を変えるほど心乱されたことは、彼女に修行不足を嫌という程痛感させた。


 そして衝動買いしてしまった剥き海老をいつ、いかなる形で消化するかも頭を悩ませる。


 そんな真名子の苦悩など知る由もない鴉魅は、ただ不思議そうな表情を浮かべるのだった。




今回のレシピ

https://cookpad.com/jp/recipes/24960736

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