王と英雄の話

王と英雄の話

 石造りの広間には、火の灯る燭台の揺らめきが影を伸ばしていた。


 この国を共に築いた男二人が、静かに杯を交わしている。


「本当に、留まってはくれぬのか」


 王の声は重く、ほんのわずかに、かすれた。


「……ああ」


 ヴァルターは静かに答えた。


 英雄と呼ばれるその男は、疲労の静けさをまとっていた。


「俺は、国と部下に全幅の信頼を置いて戦場で判断し、行動してきた。そこに疑念があれば判断をためらう。指示が遅れる。剣も鈍る。今までのようには、いかなくなる」


「人は、そこまで強くはない」


 王は小さく息を吐く。


「目先の利益に惑わされ、誤ったこともすることはあろう?」


「そんなことは分かっている。だが──」


 ヴァルターの目が炎に反射して揺れる。


「俺たちが創った国と、受け入れた民は特別だと思っていた。お前は違うのか?」


 王は口を閉ざした。


「信頼していたから、伝令に迷いはなかった。だからこそ、これまで敗れなかった。“ハイドランジアの英雄”などともてはやされてはいるが、兵に恵まれていただけさ。俺ひとりの力ではない」


 そして、静かに続けた。


「お前はいい王だ。友人として、それは保証しよう」


 ヴァルターは杯を置き、まっすぐ王を見る。


「国が……大きくなりすぎたのかもしれない。俺たちが治められる範囲を、超えてしまったんだろう」


 王は沈黙を保った。


「王の食事に毒を盛る者が出た。民の中に、兵の中に、密偵が紛れ込むようになった。俺の剣にかつての冴えは戻らない。俺の手が届く範囲で国が傷つくことには、もう、耐えられそうにない」


 一拍置いて、ヴァルターは口角をわずかに緩めた。


「なぁに、死に分かれるわけじゃない。国を出てアイビーと隠居生活するだけさ。あいつには、長い間心配をかけすぎた」


 ヴァルターは杯の酒を飲み干した。


「気が向いたら、夕食にでも招待してくれ。こちらも気が向けば二人で顔を出す」


 ヴァルターが立ち上がる。


「ランドが寂しがるな」


 王が最後につぶやいた。


「当然だ。俺は名付け親だぞ? 見くびってもらっては困る」


 広間を後にするヴァルターの影が、王の影と交差し、重なり──そして、二度と交わらぬように別れた。

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コインランドリー 齊藤 車 @kuruma_saito

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