第2話 無名の神たち

 「ぐぬぬ……また力が弱くなった。このままではまずい」


 小夜由良玉結比売命さよゆらたまむすびのひめのみことは、眉間にしわを寄せて自分の右の掌を見つめながら、うなっていた。思うように力が出せないのである。彼女は日本の片田舎にある穂杜国ほとのくに狭宮藩の、とある山奥の祠にひっそりと祀られている女神であった。しかし、その知名度はほとんどなく、地元の人間でさえその存在を知るのはごく一部にすぎない。そして、彼女の祠を訪れる人は減る一方だった。そのことは、彼女の力が弱まっている理由に大いに関係があった。


 この時代、日本には、多くの神々が存在していた。神話に登場する非常に有名な神から、小夜玉結比売命のような、一部の地域・人々にのみ知られているような無名の神まで、それこそ八百万やおよろずである。


 しかし、このところ、消滅の危機に瀕する神が増えてきていた。神というのは、人間の信仰なくしては存在し続けられない。信仰されるということは、神にとっては生きるための活力を手に入れられるということを意味する。逆に言えば、その信仰をなくしてしまえば、神は生きる力を失っていずれは消滅するという定めであった。最近、日本には外国の船が続々と訪れ、国交樹立を迫っているのだという。幕府は既にいくつかの国と条約を結び、異国の人々や文化が日本国内に流入しつつある。その影響で、今まで神の御業と見なされてきた現象が、外国からもたらされた最先端の知識によって説明されることが増えてきた。そのことによって、神々に対する信仰心も揺らぎを見せていたのである。


 小夜由良玉結比売命——長いので小夜姫とする——は、弱小神であるため、信者が一人減るだけでも大打撃を受ける。もともとさほど強くはなかった神通力が、最近は弱まる一方であった。以前は雨乞いに応えて雨を降らせることぐらいはできたのだが、今は空を曇らせるのがやっとだった。そのような、人々の期待に応えることができないということが、信仰離れを招き、一層力が弱まっていくという悪循環に陥っていたのである。


「ええい、こうしてはおれぬ。何とか現状を打開する策を見つけねば、わらわは……妾は忘れ去られ、いずれは消えてしまう!」


 小夜姫はすくっと立ち上がったが、その拍子に、自身の着ている薄紅色を基調とする十二単の裾を踏みつけ、身体の均衡を崩して転びそうになった。長く伸ばした黒髪が、はらりと顔に垂れてくる。それを鬱陶しそうに払いのけ、小夜姫は軽く息を吐いた。


「何だよ、まだ諦めてなかったのかぁ?」


 頭上から突然、若い男の声が降ってきた。小夜姫が声のした方を見やると、頭の後ろで手を組みながら、器用にも木の上で寝そべっている青年の姿が目に入った。青年ははなだ色の直垂ひたたれ姿で、侍烏帽子を被っている。小夜姫よりも幾分身軽な服装だ。彼は薄笑いを浮かべて小夜姫を見ている。


「諦めるなどという言葉は、妾には似つかわしくなかろう? どこまでも足掻いてやるつもりじゃ。お主は、このまま座して死を待つのか? 深山みやまよ」


 青年の名は深山月杙炸神みやまつきぐいさくのかみといい、小夜姫と同じく無名の神の一柱である。彼が祀られているのは、小夜姫の祠があるところからさらに奥にある、山の頂上のごく小さな神社だった。しかし、そこもまた参拝者の減少により、今は廃神社と化しているのである。


「いや、俺だって消えたかねえよ。だけどな、いい加減現実を見ろ、小夜。こんな誰も来ねえようなところに祀られてるんだぜ、俺たち。前に参拝客の姿を見たのはいつだったか思い出せねえくらいなんだ。むしろまだ消えてねえのが不思議なくらいだろ。しかも、なんか知らんが、最近は異人どもが国に入ってきて、新しい思想を広めてんだって? そのおかげで、もしかしたら自分たちへの信仰も失われちまうかもしれねえって、神たちみんな戦々恐々としてんだぜ。知らねえわけじゃねえだろ?」


 深山月杙炸神——やはり長いので深山とする——は、滔々とうとうと語る。その口ぶりからして、彼は多少未練はあっても、もう既に諦めているようだった。深山はくるりと宙返りして、小夜姫の前に音もなく着地した。その軽やかな身のこなしに内心で舌を巻きながら、小夜姫は彼に食ってかかる。


「それでも……それでも、妾は消えるわけにはゆかぬのじゃ! ……もういい。このやり取りも何度繰り返したか分からぬ。ここでお主と話をしていても埒が開かん。そうじゃ、深山、妾は行くぞ」

「は? 行くって、どこにだよ?」

「決まっておるじゃろう。人里じゃ」

「何だ? 人間に『私を信仰してください』って直訴する気か? そんなことできるわけねえだろ! あいつらには俺たちの姿はほとんど見えねえんだぞ! 仮に見える奴がいたとして、はいそうですか、信じますって応じてくれると思うか? ああ、馬鹿げてるにもほどがある。何百年も山に閉じこもって、ついに気が触れたのか?」


 呆れ果てて首を横に振る深山に対し、小夜姫は憤慨する。


「妾は本気じゃ! 確かに、いきなり押しかけていっても試みは成功すまい。それに、妾にも神としての矜持がある。じゃが、妾には考えがあるのじゃ」

「考え?」

「お主は知らずとも良いことじゃ。止めるなよ、深山」


 それだけ言って、小夜姫は地を蹴って宙に浮いたかと思うと、そのまま姿を消した。


「……お前が何をしようが勝手だが、無茶だけはするなよ……小夜」


 深山は小夜姫が消えた方角を、いつまでも見つめていた。

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