幕末異類小夜曲(せれなあで)

薄井氷(旧名:雨野愁也)

第1章 神との婚姻

出会い

第1話 異国の船

 ボオオオという音を立てながら、巨大な黒い影が港に近づいてくる。一目見ただけでは、それを船だと認識するのは難しかった。何しろ、当時の日本の人々にとって、船といえば木でできた帆船だったからである。


「黒船だー!」

「初めてあれを見た時も思ったが、本当にあのでかいのが船なのか?」

「まったく、何なんだ、この音は! こんなうるさいものが鳴り続けたら、夜も眠れんぞ!」

「公儀は何をしているんだ! 異人なんぞ、とっとと追い払え!」


 見物に集まった野次馬たちは、口々に声を上げる。皆目の前の鉄塊に興味津々のようだ。煙突からもうもうと吐き出される黒い煙が、青空へと消えていく。そんな様子を、群衆から離れたところで一人眺めている男がいた。


「……黒船、ねえ。あんなものを造れる文明を持った国が本気で攻めてきたら、こんなちっぽけな国はひとたまりもないな」


 男は土川ひじかわ清治きよじといい、江戸から遠く離れた田舎にある狭宮さみや藩藩主の十男で、よわいは十七である。藩校では秀才としてその名を知られていた清治は、儒学だけでは飽き足らず、遊学のためにはるばる江戸まで来ていた。彼は高名な学者である若竹わかたけ春英しゅんえいに師事し、蘭学を学んでいるのである。


「聞けば、あれに乗ってきたのは、オランダじゃなくてメリケンとかいう国の奴ららしいじゃないか。この間若竹先生のもとで見せてもらった地球儀とやらによれば、日本なんてメリケンに比べれば小指の爪の先ほどの大きさしかないらしい。『世界は広い。もっと外に目を向けよ』と先生はおっしゃっていたが、この先はそういう視点が不可欠になりそうだな」


 清治は一つ息を吐き、踵を返して歩き去った。


 ——これからは蘭学だけではなく、様々な国の学問や知識を吸収し、異国に追いつかなければ、この国の……日本の存続は危ぶまれる。公儀はようやく重い腰を上げて国を開くことにしたようだが、今のままでは間違いなく異国の餌食にされるだろう。長いこと国を閉ざしていた害が、顕著に現れようとしているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、清治は懐から蘭学の本を取り出し、パラパラとめくった。オランダ語は少しずつ理解できるようになってきたばかりだ。日夜勉学に励むだけではなく、さらに剣術の稽古もしているが、そんなものでは到底異国には太刀打ちできないと感じていた。何しろ、その辺りで配られていた瓦版によれば、黒船には大砲が積まれているらしいのである。刀では外国の最先端の武器に敵うわけもなかった。


「……この国は、長い眠りからようやく覚める時が来たようだな。価値観も変わっていくのだろうか?」


 清治はそう呟くと、おもむろに懐から煙管を取り出した。その先から、紫煙がくゆり、穏やかな風にたなびいていた。

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