第3話 神を名乗る女

 清治は、江戸から狭宮藩に一時帰国していた。父親、つまり藩主の容体が悪化したという知らせを受けたからである。藩主の土川道忠みちただはこのところ体調を崩しがちであり、床に臥せることが多くなっていた。病状はなかなか深刻なものであるらしく、藩内には跡目は誰になるかという議論が持ち上がっていた。


「当然、長男の道秀みちひで様が殿の座に就くべきだろう。それ以外に考えられない」

「いや、四男の幸匡ゆきまさ様の方が相応しい。何せ、母君が正室であらせられるからな。血筋から考えればそちらの方が良いだろう」

「では、間を取って次男の道展みちのぶ様にするというのは……」

「それだけはないだろう。あのお方は暗愚だ」


 度々城内で後継者を決めるための会議が開かれてはいたが、紛糾し、結論は出ないまま終わるというのが常だった。しかし、様々な意見が出る中でも、末子の清治を推す声は全くなかった。清治の母は町人出身の女中であり、身分は低く、さらに清治には兄が大勢いたため、通常ならば彼が藩主になることなどあり得ないことではあるのだが。


「……はあ、今は国の中で争っている場合ではないというのに。その隙を突かれて、異国にでも攻め込まれたらどうするつもりなんだ。家臣連中には危機感が足りん。だが、そんなことを俺が言ったところで、取り合ってなどもらえないのだろうな」


 清治はため息をつきながら、城下町をあてもなくぶらぶらと歩いていた。父の具合が悪いとはいえ、常に傍にいなければならないということもないので、城を出てきたのである。それに、清治はあまり父に会ったことはないため、父に対する思慕の念に欠けているところがあった。


 ちょうど甘味処が目に留まったので、団子を買い、彼はそれを食べながら散策を続けた。


「……暇だし、せっかく郷里に戻ってきたのだから、山の方にでも行ってみるか」


 田舎の風景を恋しく感じていた自分がいたことにやや驚きながら、清治は鬼足きたり山へと足を伸ばすことにした。








 

 鬼足山はさほど高くない山で、それほど重装備でなくても比較的気軽に登ることができる。山に近づくにつれて、人通りも少なくなってきた。途中で宿を借りながら歩いていくうちに、山の麓の村に辿り着いた。滅多に武士はこの村には立ち寄らないため、村の人々は藩主の子である清治を見て驚き、丁重にもてなそうとしたが、清治はそれを断り、山の方に向かう道だけを聞いて立ち去った。


 ちょうど周りに人がいない、荒地が広がる地域に差しかかったところで、清治は何か得体の知れない気配を背後に感じた。背筋がぞくりとするような、怪しい気配である。


「……何奴だ」


 清治は低い声で問い、前を向いたまま、反射的に腰の刀の鯉口を切り、その柄に手をかけた。異国の脅威を前にしては役に立たないだろうと思っている武器ではあるが、やはり非常時ともなると頼りたくなってしまう。


「土川清治じゃな」


 清治はその声を背中で聞いた。涼やかで凛とした、よく通る女の声である。


「……なぜ俺の名を知っている」


 清治は当然の疑問を口にした。本当ならば、一刻も早く振り返って声の主を確認したいところだったが、軽率な言動は控えるべきだと本能が告げていた。


「ふっ、愚問じゃな。答えは簡単じゃ。妾は神ゆえ」

「……は?」


 訳が分からず、清治はその場に立ち尽くした。もはや言葉が出てこない。何と返すべきか判断しかねて、彼は刀の柄を握る手に力を込めた。


「まあ、そう警戒するでない。妾はお主の妻となる者なのじゃからな」

「……!?」


 一瞬、言われたことの意味が理解できず、清治は目を見開いた。その頭の中は混乱で占められており、流石の清治でも冷静な思考はできそうにない。回らない頭で、振り返るべきか否かを必死で考えていると、


「何じゃ、妻の顔も見ようとせぬのか? 薄情な奴じゃの」


という声が聞こえた。かと思うと、突如として背後の気配が消えた。


「なっ……」


 清治は柄を強く握りしめた。これ以上相手に何か不審な動きがあれば、刀を抜くことも躊躇わないつもりでいた。すると次の瞬間、清治の目は薄紅色を捉えた。その正体を見定めるべく、清治は顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。


 そこには、この時代に似つかわしくない、十二単を着た長い黒髪の女の姿があった。年の頃は十代後半ぐらいだろうか。髪は彼女の背丈よりも長いようで、地面に垂れている。平安時代から時を超えてやって来たような出で立ちだ。


「やっと妾の顔を見たの。どうじゃ、なかなか良い女であろう?」


 女は両手を挙げ、胸を張った。自慢げな表情を浮かべている。だが、清治にとっては、良い女であるか否か以前に、彼女が誰で、なぜここにいてそのような格好をしているのか、妻となるとはどのような意味なのかということの方がはるかに重要だった。


「……どこから聞いていいか分からないが、ひとまず問おう。あなたは何者だ?」


 清治はいぶかしげに聞いた。それに対し、女はさも意外そうな顔をする。


「何じゃ、先ほども申したであろう。妾は神じゃ。名は小夜由良玉結比売命という」

「さよ……何だと?」

「小夜由良玉結比売命じゃ」

「長いな。小夜姫でいいか?」

「お主……神に対して不敬じゃぞ!」


 女は声を荒らげた。しかし、清治はまだ彼女が本物の神であるとは信じていない。不敬と言われても、実感は湧かなかった。

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