第10話:私達の夢
彼女の華奢な体が、薄暗い蛍光灯の下でほのかに白く輝く。
くたびれた布の感触が、彼女の小さな胸に淡い安堵を灯した。
窓の外には、果てしない闇の海が広がっている。
月光さえ届かない漆黒の水面は、まるで世界の秘密を飲み込むように静かに揺蕩っていた。
空母の鋼鉄の甲板が、微かな震動とともに彼女の体を揺らし続ける。
波の音は低く遠く、まるでこの巨大な船が生き物の鼓動を刻んでいるかのようだった。
彼女は目を閉じた。
瞼の裏に広がる闇。
空母の揺れが、まるで古い子守唄のように彼女を眠りの淵へと誘う。だが、それは穏やかな休息への扉ではない。錆びた鍵が外れる音とともに、彼女の意識は過去の牢獄へと滑り落ちていく。
夢の中。
そこはどこかの最下層、息苦しいほど閉ざされた鋼鉄の部屋だった。
窓はなく、壁には無骨な配管が蛇のように這い、錆の匂いと消毒液の鋭い臭いが空気を重くしていた。
遠くで、波の音が響く。
それはこの部屋が海の近くにあることを示していたが、幼いパンデモニウムにはその意味を考える余裕などなかった。
彼女はただ、そこにいた。
まだ10歳にも満たない、か細い少女。
白いワンピースは少し大きく、裾が床をかすめそうだった。
ショートカットの髪が、彼女の小さな仕草に合わせて揺れる。
黒い瞳は遠くを見つめているようで、その奥には純粋な光が宿っていた。
彼女の周りには、10人ほどの子どもたちがいた。
どの子も、ぼんやりとした霧に顔を覆われ、表情は見えない。だが、弾けるような笑い声や、じゃれ合う軽やかな動きから、彼らの絆が伝わってくる。
まるで、この冷たい鋼鉄の部屋が、彼らだけの小さな楽園であるかのように。
「〇〇ちゃん、今日も本読む?」
「ほら、先生が新しい絵本持ってきたよ!」
「やった! 早く見せて!」
子どもたちの声が、硬い壁に明るい響きを刻む。
彼らは「病気」でここにいると説明されていた。
聖人財団が運営する「治療施設」。
その言葉は、幼いパンデモニウムにとって、ただの遠い響きだった。
生活は不思議なほど穏やかで、優しい「先生」が絵本を読み聞かせ、簡単な歌を教えてくれる。
色褪せたクレヨンで絵を描く時間もあり、子どもたちはその時間を心から楽しんだ。だが、ひとつだけ、奇妙なルールがあった。
食事の時間。
子どもたちはそれぞれ別の部屋に連れていかれ、目隠しをされて食事をさせられる。
トレイに載せられた食事は、いつも同じ。ドロリとした、灰色の何か。味はひどく不快で、鉄のような、腐臭のような後味が舌に残った。
パンデモニウムは毎回、眉をひそめながらスプーンを口に運んだ。
「うっ、今日のご飯もまずいね……」
彼女がつぶやくと、隣の部屋から別の子の声が響いた。
「我慢して食べなきゃ。治るためだからって先生が言ってたよ。」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。
食事が終われば、子どもたちはまた笑い合った。ご飯以外は、幸せだった。
この閉ざされた空間で、彼らは互いを支えに、希望を紡いでいた。
ある日、子どもたちは輪になって床に座り、夢を語り始めた。
薄暗い部屋に、蛍光灯の冷たい光が反射する中、彼らの声だけが温かな色を帯びていた。
まるで、希望の灯がこの無機質な空間に小さな光をともすように。
「私は治ったら商人になって、世界一のお金持ちになるんだ!」
ひとりの子が、目を輝かせながら胸を張った。
彼女の声には、閉じ込められた生活を吹き飛ばすような力があった。
「船に乗って、いろんな国を旅するの! キラキラの宝石や、ふわふわの布、ぜんぶ私のものにする!」
別の子が、興奮したように手を振った。
「私は薬草を集めて、すごい薬剤師になる! どんな病気も治せる薬を作るんだ! そしたら、こんな施設はいらなくなるよね!」
彼女の声には、どこか切実な響きがあった。まるで、自分たちの「病気」を本気で終わらせたいと願っているかのようだった。
「私は貴族になって、本に囲まれてのんびり暮らす!」
別の子が笑いながら、両手を広げて寝そべる真似をした。
「大きなお屋敷に、ふかふかのベッド! 本を読みながら、毎日お菓子を食べて暮らすの!」
その気楽な口調に、みんながくすくすと笑った。だが、その子の目には、自由への憧れが確かに宿っていた。
「学校に行って、普通の学生になりたいな……」
小さな声で、別の子がつぶやいた。彼女は膝を抱え、遠慮がちに、しかし憧れを込めて言った。
「制服着て、友達と笑って、授業受けて……そんな普通が、いいな。」
その言葉に、部屋が一瞬静まり返った。「普通」という言葉が、どれだけ遠い夢かを、みんなが知っていたから。
パンデモニウムは膝を抱えて少し考え込み、みんなの夢がキラキラと輝く星のように部屋に響き合った。
彼女の小さな胸に、温かで、けれどどこか切ない気持ちが広がった。そして、ぽつりと、彼女は言った。
「私は……美味しいものが食べたいな。」
その言葉に、子どもたちは一瞬ぽかんとした。やがて、くすくすと笑い声が広がった。
「それ、いいね!」
「〇〇ちゃんらしいや!」
「どんな美味しいもの?」
「甘いお菓子? それとも、あったかいスープ?」
パンデモニウムは少し照れながら、でも真剣に答えた。
「うーん、全部! 甘いケーキ、ふわふわのパン、ジューシーな果物! ぜーんぶ食べてみたい! それで、みんなで一緒に、美味しいって笑いたい!」
彼女の声は舌足らずながら、どこか力強かった。
「ここじゃ、いつもまずいご飯ばっかり……だから、いつか、みんなで美味しいものを食べて、笑って、幸せになりたい!」
子どもたちは目を丸くし、やがて大きな笑い声が部屋を満たした。
「それ、最高の夢じゃん!」
「〇〇ちゃん、食いしん坊!」
「でも、いいね! 美味しいもの、みんなで食べよう!」
「私、商人になったら、〇〇ちゃんに一番美味しい果物持ってくるよ!」
「私は薬剤師になって、美味しい薬作っちゃう!」
「貴族の私が、豪華なディナー用意するよ!」
「学校で、みんなでお弁当食べよう!」
子どもたちの声が重なり合い、夢が夢を呼ぶように、部屋は希望の光で満たされた。その瞬間、空母の揺れも、鋼鉄の壁も、消毒液の匂いも、遠い世界の話だった。
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