第11話:静寂の始まり


 ある日、教室の重い鋼鉄の扉が軋みながら開き、いつものように先生が姿を現した。


 古びた蝶番がキィッと不協和音を奏で、子どもたちのざわめきが一瞬途切れる。


 先生の顔には、普段の冷淡な無表情とは異なる、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


 パンデモニウムは教室の隅の机で膝を抱え、窓のない壁をぼんやりと見つめていた。先生の声が、賑やかな教室に響き渡る。


 「おめでとう、ミナちゃん。今日、退所できるよ。」


 その言葉に、ミナ――パンデモニウムの隣でいつも明るい笑顔を振りまいていた少女――が弾けるように立ち上がった。


 金色の髪がふわりと揺れ、瞳は喜びに輝いた。


 子どもたちが一斉に歓声を上げ、教室は色とりどりの笑顔で溢れた。


 「ミナ、よかったね!」

 「夢、絶対叶えてね!」

 「また会おう、約束だよ!」


 子どもたちの声は、春のそよ風のように軽やかだった。


 パンデモニウムも、舌足らずな声で小さな笑みを浮かべた。


 「ミ、ミナちゃん……おめでとう……!」


 白いワンピースの裾が、そっと揺れる。


 ミナは皆の間を駆け回り、笑顔で一人ひとりの手を握った。


 「みんな、ありがとう! 絶対、夢を叶えるから!」


 子どもたちはミナを鉄の扉へと送り出した。


 扉の向こうには、きっと新しい世界が待っている――そう信じて、皆が手を振った。


 ミナの軽快な足音と笑い声が、錆びた扉の向こうに消えるまで、パンデモニウムはただ、じっと見つめていた。


 黒い瞳には、喜びと、なぜか胸を締め付けるような寂しさが混じっていた。


 その夜、パンデモニウムは食事のために小さな個室へと連れていかれた。


 食事の時間、子どもたちは冷たい鉄の壁に囲まれた狭い部屋に隔離される。これはいつものことだった。


 薄い壁越しに、他の子どもの囁き声やスプーンのカチャリという音がかすかに聞こえる。


 先生の足音が近づき、食事用のスロットがガタンと開く音が響いた。


 促されるまま、パンデモニウムは目隠しをされ、黒い布が視界を奪う。


 小さな手がわずかに震えた。


 トレイがスロットから滑り込み、鉄のテーブルに軽く当たる音がした。


 手探りでトレイを引き寄せると、鼻をつく酸っぱい匂いが漂ってきた。


 指先で触れたスープの容器は冷たく、ぬるりとした感触だった。肉はゴムのように硬く、押すと弾力を返してきた。


 トレイの重さから、いつもより量が多いことがわかった。


 スプーンを持つ手が震え、舌足らずな声で呟く。


 「……こ、これ、いつもより、多い……?」


 遠くで波の音が不気味に響き、空母の揺れが床を微かに震わせる。


 壁の向こうから、誰かの小さな咳やスプーンが容器に当たる音が聞こえてくるが、それも遠い。


 パンデモニウムは唇を噛み、吐き気を抑えながらスープを飲み、硬い肉を噛み砕いた。


 喉を通るたびに、胸の奥で何かが軋むような感覚がした。


 目隠し越しに、かつて一度だけ――目隠しがずれた瞬間に見た――濁った灰色のスープや不気味なゴムの肉が、記憶の中でよみがえる。


 翌日、教室に戻ったパンデモニウムは、また一人の少年が退所する場面に立ち会った。


 「夢に向かって頑張るよ!」


 少年の声が教室に響き、子どもたちは手を叩き、歓声を上げた。


 パンデモニウムも、小さな手をそっと叩きながら呟いた。


 「……がんばって、ね……。」


 だが、少年の声には、喜びと同時に、かすかな怯えが混じっていた。笑顔の裏に、硬い表情が垣間見えた。


 日が経つにつれ、仲間たちは次々と姿を消した。


 退所のたびに教室は歓声で満たされたが、その喜びはすぐに寂しさに変わった。


 教室の賑わいが薄れ、笑い声や足音が減っていく。


 パンデモニウムの小さな胸に、喜びと寂しさが交錯する。


 彼女は気づいていた。食事の時間に個室で渡されるトレイが、日に日に重くなっていることを。


 スープの酸っぱい匂いはさらに強くなり、肉はまるで腐ったゴムのように噛み切れない。


 記憶の中の食事の姿が、口に含むたびに吐き気を催した。それでも、空腹に抗えず、彼女は無理やり飲み込んだ。


 そして、とうとうその日が来た。


 パンデモニウムは、教室に一人きりで座っていた。


 かつて笑い声で溢れていた空間は、今や静寂に支配されている。


 鉄の壁が冷たく光り、空母の振動だけが、彼女の孤独を刻むように響く。


 先生の姿も、もう何日も見ていない。


 時計のない部屋では、時間の流れすら曖昧だった。


 食事の時間になっても、個室のスロットは開かなくなった。


 トレイの重さも、酸っぱいスープも、ゴムの肉も、今はただの記憶でしかない。


 空腹が彼女の胃を締め付け、頭をぼんやりとさせた。


 小さな体は、空腹と疲労で震えていた。


 「もう……耐えられない……」


 パンデモニウムの小さな手が、震えながら教室の重い鉄の扉に触れた。


 

 

 

 ――食事がない今、目隠しは必要ない。


 

 

 

 

 誰も見ていない。


 錆びた蝶番が、ギィッと不気味な音を立てた。


 心臓が激しく鼓動する。


 扉は、意外にも抵抗なく開いた。


 軋む音が、静寂を切り裂き、暗い廊下の向こうに冷たい風が吹き抜ける。


 白いワンピースが、わずかに揺れた。


 黒い瞳に、かすかな決意が宿る。


 パンデモニウムは一歩、踏み出した。


 波の音が、遠くで不気味に響き続ける中、彼女の小さな足音が、静寂の空母にこだました。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ねぇ……だれか……」


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