第9話:思い
パンデモニウムは小さな手で、会議室の分厚い鋼鉄の扉を力強く押し開けた。
140cmにも満たない華奢な体からは想像できないほどの力で、扉が軋む音が無機質な通路に響き渡る。
白いワンピースの裾がふわりと舞い、ショートカットのツインテールが軽やかに揺れる。黒く底知れぬ瞳が、闇を切り裂くように鋭く光った。
冷ややかな空気が頬を撫で、まるでこの浮遊戦艦――セインツ・クレイドル――が彼女を拒絶するかのような圧迫感を漂わせる。
かつて聖人財団が誇った空中要塞は、今や秘密結社ウロボロスの手中に落ち、魔法師たちの新たな牙城と化していた。
鋼の壁を這う無数の配管、淡い蛍光灯の無機質な光、遠くで唸るエンジンの低音、海面を叩く波の鈍い響き――すべてが彼女の鼓動と不思議に共鳴していた。
ブーツが金属の床を踏むたび、カツンと鋭い音が通路に反響し、まるで戦艦そのものが彼女の存在を試すかのようだった。
セインツ・クレイドルは、聖人財団が密かに運営していた魔法師の実験場であり、陰謀と野望が交錯する場所だった。しかし財団は崩壊し、その瓦礫から這い上がったウロボロスが新たな支配者として君臨していた。
パンデモニウムは知っていた。ウロボロスのリーダーが、かつて財団の中枢にいた男であることを。
彼女はウロボロスに潜入し、仲間として振る舞いながら、200年にわたる復讐の炎を胸に秘めていた。
ウロボロスの理念に共感を示しつつ、心では決して信じていなかった。彼女にとって、すべては復讐のための道具でしかない。無垢な笑顔に惑わされた仲間たちは、彼女の真の目的――友を奪った者への報復――に気づいていない。
通路を進む彼女の足取りは力強いが、どこか疲れを帯びていた。
会議室での議論は、いつも通り空虚だった。リーダーの言葉は滑らかで、まるで毒を塗った刃のように鋭い。その裏に潜む冷徹な計算を、彼女は軽やかにかわしつつ、自身の目的を心の奥に隠していた。黒い瞳には、過去の傷と未来への決意が交錯し、星のない夜空のように冷たく輝いていた。
舌足らずで甘い声とは裏腹に、彼女の心には人間への憎悪と冷酷さが渦巻く。無邪気な笑みの裏で、すべてを焼き尽くす怒りが燃えていた。
彼女の力は、聖人財団の実験で失われた仲間たちのものだった。かつての友を「喰らい」、その力を奪ったのだ。
200年前、財団の実験で仲間たちが次々と命を落とす中、彼女だけが生かされた。心は砕け、記憶は霧に閉ざされた。残ったのは戦うための力と、癒えぬ傷だけだった。
ウロボロスに潜り込み、リーダーを欺き、復讐を果たす――それが彼女の200年にわたる計画だった。仲間さえ冷たく扱い、すべてを計算ずくで動く。誰も彼女の本性に気づかない。
居住区画の最奥、牢獄のような一角に彼女の部屋があった。
スライド式の扉がシュッと開くと、息を詰まらせるような簡素な空間が現れる。灰色の壁は彼女の心の色を映し、金属製の机は必要最低限の機能しか備えていない。
小さな窓の向こうには、果てしない闇の海。静かに、だが執拗に波が揺れ、彼女の心の奥底を覗き込むようだった。艦の微かな振動が、彼女の不安をそっと揺さぶる。
ベッドには、サカバンバスパスのぬいぐるみが無造作に置かれていた。魚型のそれは、ビーズのような目で彼女を見つめ、まるで「おかえり」と語りかけるようだった。
パンデモニウムの唇に、ほんの一瞬、儚い微笑みが浮かぶ。
このぬいぐるみは、彼女がまだ「人間」だった頃の唯一の温もりの欠片。パンデモニウムという怪物に変わる前の、純粋で脆い心の名残だった
誰がくれたのか、なぜ残ったのか――記憶はない。だが、触れるたび、遠い記憶の断片が胸を締め付けた。
「いつもそんな間抜けな顔で待ってるよね、お前」
ぬいぐるみを手に取り、ビーズの目をじっと見つめる。舌足らずな声には、深い孤独と自嘲の響きが混じる。
「お前だけだよ、私の弱さを見ても黙ってそばにいてくれるの」
言葉は自分に言い聞かせるようだった。小さな指がぬいぐるみを握る力が一瞬強まり、ビーズの目に彼女の黒い瞳が映る。そこには、かつての笑顔も涙も飲み込んだ闇があった。
彼女は重い足取りでバスルームへ向かう。背後で、彼女の影からもう一人のパンデモニウムが姿を現す。彼女の能力で生み出された分身は実体を持ち、静かにその動きを見守っていた。
「――シャワー浴びたら寝るから、時間になったら起こしてね」
鏡に向かって告げる。白いワンピースの少女だけが映るが、声はまるで悪魔の囁きのようにいたずらっぽく響いた。
「ふふ、わかったよ。ちゃんと起こしてあげる、私」
その声は彼女自身でありながら、心の奥底に潜む別人格のよう。彼女を試すような、挑発するような響きがあった。
パンデモニウムは唇を噛み、シャワーのノブをひねる。熱い湯が黒髪を濡らし、肩を伝って滴り落ちた。
湯気の中で目を閉じる。空母の振動、ウロボロスの策略、血と涙に塗れた過去――すべてが、湯とともに一瞬だけ溶け落ちていくかのようだった。
熱い湯は肌を刺すように流れ、まるで心の傷を洗い流そうとするかのようだった。だが、深い傷はそう簡単に癒えない。
彼女は聖人財団の実験で生み出され、仲間たちの命を「喰らい」、その力を奪った。再生、肉体の変形、血の操作、未来予知、影の操縦――それぞれが失った仲間たちの力だった。
200年にわたる怒りを胸に、ウロボロスに潜り込み、リーダーを欺く。彼女の心は複雑だった。
理念に共感を示しつつ、誰も信じず、仲間さえ冷淡に扱う。誰もその冷酷さに気づかない。
湯気の中で、過去の断片が蘇る。笑顔の少女、温かい手、遠い笑い声――だが、すぐに血と闇に塗りつぶされる。
拳を握り、湯の熱さに耐えるように唇を噛んだ。
「もういい」と心の中で呟く。
「過去は過去。私はもう迷わない」
シャワーを終え、タオルで髪を拭きながら部屋に戻る。サカバンバスパスのぬいぐるみは、変わらずベッドで彼女を待っていた。
ベッドの縁に腰を下ろし、パンデモニウムはぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
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