3.そこにいた人

夜のホテルロビー。

美咲は荷物を抱え、ロビーの隅に座り込んでいた。

チェックインを済ませたのに、心が落ち着かない。


(……あの人、名前、なんだろ……。)


上の階の住人――拓也。

助けてくれた人。

あのときの強い声と、優しいまなざしが、頭を離れない。



翌日、買い出しに出た美咲は偶然、コンビニの前で拓也と鉢合わせた。


「あ……。」


「……お疲れ様です。」


拓也は軽く会釈をした。

美咲は戸惑いながらも、勇気を出して口を開いた。


「あの、先日は……本当に、ありがとうございました。」


「いえ……。

何か困ったことがあったら、いつでも。」


「……はい。」


ほんの数秒の会話。

でも、美咲の心はどきどきと高鳴った。


(……この人、なんでこんなに優しいんだろ……。)



夜、ホテルの部屋でスマホを握る美咲。

さくらからのLINEが届く。


『大丈夫?そっちの部屋、不便ない?

何かあったらすぐ連絡して。』


「……うん、大丈夫……。」


返事を打ち込み、深く息を吐いた。


(……ずっと逃げてるだけで、いいのかな……。)


目を閉じると、拓也の落ち着いた笑顔が浮かんだ。


(……私、ちゃんと変わりたいな……。)



一方、拓也は店のカウンターで仕込みをしていた。

バイトの悠斗が顔を覗き込む。


「マスター、またぼーっとしてる!

やっぱ絶対、恋っすよ!」


「……違う。」


「違わないっすって。

で、どうするんすか?

声かける?誘う?

行っちゃいましょうよ~。」


「……お前なぁ……。」


笑いながらも、拓也の心はざわついていた。


(……年の差とか、関係あるのか……。

俺は、何を期待してるんだ……。)



隼人はその頃、健吾と居酒屋の個室にいた。

ジョッキを握りしめ、低い声で呟く。


「……どこに、いるんだよ……。」


健吾が眉をひそめる。


「お前な、もういい加減やめとけって。

女のほうから離れたんだろ。」


「違ぇよ……。

あいつは俺が必要なんだ。

わかってねぇだけなんだ。」


健吾は苦笑する。


「お前、ほんっと女にだけはしつこいよな。」


「……絶対、取り戻す。」


隼人の目が、鋭く光った。



ホテルへの帰り道、美咲はふとコンビニで立ち止まった。

そこにまた拓也が現れる。


「あ、偶然ですね。」


「……あの、コーヒー……どうですか?」


言葉が、自然に口をついて出た。

美咲は自分でも驚いた。


拓也も、少し目を丸くして笑った。


「……いいですね。」


二人は小さなテーブル席に座り、缶コーヒーを手にした。



「……私、今、避難中なんです。」


「……そうなんですね。」


「……情けないですよね。

三年も付き合って、結局こんな……。」


「……情けなくなんかないです。」


「……。」


「むしろ、逃げてきたあなたは……強いと思います。」


美咲の目が潤んだ。


「……ありがとうございます……。」


(……なんでだろ……。

こんなに、あったかいの……。)



夜、健吾がタバコをくゆらせる隣で、

隼人がスマホを見つめていた。


「……あった。」


「は?」


「ホテルの予約更新履歴。

引っ越し先の候補。

……全部、見つけた。」


「お、おい、隼人……!?

やめとけって……!」


「……会いに行くだけだよ。」


笑みを浮かべる隼人の背筋は、薄ら寒いほど静かだった。



夜のホテル。

窓の外を見つめる美咲は、胸に手を当てていた。


(……もう、戻りたくない。

私、ちゃんと前に進みたい……。)


そっと目を閉じたとき、部屋の外で小さな物音がした。


――コツ、コツ。


心臓が一瞬で跳ね上がる。


(まさか……。)

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