4.指先の温もり

夜、ホテルの廊下にかすかな足音が響いた。

コツ、コツ、ゆっくりと近づく音。


美咲は固まったままベッドに座っていた。

呼吸が浅くなる。

胸が、痛いほど早く打ち始める。


(……まさか……)


心の奥が凍る。

部屋のチャイムが鳴る。

――ピンポーン。


震えるような音だった。


美咲は一歩も動けず、ただ壁を見つめていた。

スマホに手を伸ばし、さくらへメッセージを打とうとする。

が、手が震えて打てない。


――ピンポーン。

二度目の音。


続けて、低く唸るような男の声が扉越しに届いた。


「……美咲。開けろよ。」


脳が一瞬、止まった。


(……なんで……なんでここに……!?)


「開けろって。

……話があるだけだから。」


声が低く、優しさを装っているのが余計に怖い。


(助けて……)


震える唇が、小さく呟く。


(誰か……誰か助けて……)



そのとき――。


廊下の向こう側から、もう一つの足音が近づいてきた。

隼人が振り向いたとき、そこには拓也が立っていた。


「……あんた、誰?」


「……あなたこそ、何してるんですか。」


偶然見かけた彼、隼人を追いかけてきた拓也。

睨みつける隼人に、拓也は真っ直ぐ立ったまま言った。


「その子に、もう近づかないでください。」


「はぁ?」


「彼女、怯えてます。

あなたが何をしたか……全部じゃないけど、俺は見てる。」


隼人の顔が歪んだ。


「お前……上の階のやつか。」


「……そうだ。」


「関係ねぇだろ、部外者が。

あいつは俺の女なんだよ。」


「……あなたのものじゃない。」


沈んだ声だった。

だが、確実に怒りと決意を孕んでいた。


「……殴ったり、脅したりして、

それでも“俺の女”って言うんですか。

それはただの支配です。」


隼人が拓也の胸ぐらをつかんだ。


「調子に乗んなよ、クソが……」


「やめて!」


その声は、部屋の中からだった。

震えながらもはっきりした、美咲の声。


「もう……来ないで……

私……あなたが怖い……!」


沈黙。

一瞬の間ののち、隼人の手が下がった。


「……お前……俺に向かって“怖い”って言うのか……?」


拓也が、隼人と美咲の間に静かに立った。


「警察、呼びました。

ここで終わりにしましょう。」


隼人はしばらく拓也を睨みつけていたが、

ゆっくりと後ずさりし、無言のままエレベーターに向かった。


廊下には、緊張が残されたまま沈黙が落ちた。



数分後。

拓也はドアの前で小さくノックした。


「……もう、大丈夫です。」


しばらくして、美咲がドアを開けた。

目元は腫れ、肩が細かく震えている。


「……ありがとう……ございました……。」


「いえ……。

怖かったですね……。」


美咲は、唇をかみしめた。


「……私、初めて……“怖い”って言ったかもしれない。

誰かに……“助けて”って、思ったかもしれない……。」


「……それで、いいんです。」


拓也の言葉に、美咲の目から静かに涙がこぼれ落ちた。


「……私……変われますかね……。」


「ゆっくりでいい。

……俺が、見てますから。」


二人は、短い間、見つめ合った。


その指先が、ふと触れた瞬間。

美咲の心に、静かに熱が灯った。



この夜、世界は少しだけ動いた。

密室の向こう側にいた二人が、ほんのわずかに、心のドアを開けた夜だった。

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