第2章:眩い光と小さな誓い

しかし、次に感じたのは衝撃ではなく、柔らかく暖かい感触だった。目を開けると、視界いっぱいに小さな手のひらが広がっていた。


「大丈夫? 動ける?」


透き通るような声が響いた。そこに立っていたのは、リオよりも少しだけ背の高い、人間の女の子だった。彼女は透き通るような銀色の髪を三つ編みにし、大きな青い瞳がリオをじっと見つめていた。その手には、泥で汚れた小さなパンが握られている。


「これ、よかったら食べる? 私、エマっていうの。あなたは?」


エマと名乗る女の子は、警戒心もなくリオにパンを差し出した。リオは戸惑った。人間が、魔族の子どもに優しくする? 今まで出会った人間は、リオを見れば石を投げてきたり、恐怖に震えながら逃げ出したりするばかりだった。あの時、村人に投げつけられた石の痛みがまだ身体に残っているようだった。エマの差し出すパンは、まるで毒でも入っているかのように見えた。だが、それを上回る飢えがリオの理性を麻痺させる。


「…リオ」


か細い声で答えると、エマはにっこり笑った。その笑顔は、リオがこれまで見たどんな光よりも眩しかった。差し出されたパンを震える手で受け取り、むさぼるように齧り付いた。ほんの少しのパンだったが、その温かさと甘みが全身に染み渡るようだった。生き返る。心底そう思った。


「よかった。元気になったみたいね」


エマは満足そうに微笑んだ。その時、リオは悟った。この子は、きっと特別な存在なのだと。魔族の自分にも分け隔てなく接し、命を救ってくれた。こんな人間がいるなんて、夢にも思わなかった。しかし、その優しさは、同時にリオの心に深い疑問を投げかけた。なぜ、この子は自分を助けるのか? 何か裏があるのではないか? 長い間、裏切りと理不尽に晒されてきたリオには、エマの純粋な善意が理解できなかった。それでも、今の飢えを満たしてくれたこの温かさだけは、嘘ではないと感じた。


「ありがとう……」


掠れた声で感謝を述べると、エマは再び笑顔を見せた。

「ううん。大丈夫よ。困ってる人は、助けてあげなくちゃね」


その言葉を聞いた瞬間、リオの心に今まで感じたことのない感情が芽生えた。それは、感謝と同時に、形容しがたい衝撃のようなものだった。エマの言葉が、リオの心を覆っていた氷を少しだけ溶かすような感覚があった。


その時だった。


ガサガサ、と茂みが大きく揺れる音がした。森の奥から、体長一メートルほどの牙狼(がろう)が現れた。灰色のごわごわした毛並みに、黄色く光る鋭い目。低く唸り声を上げながら、牙狼は獲物を見定めていた。明らかに、リオとエマを標的としている。


「きゃっ!」


エマが小さく悲鳴を上げた。リオはとっさにエマの前に立ちはだかろうとしたが、飢えで衰弱した身体は思うように動かない。足がもつれ、よろめいたその瞬間、牙狼が素早い動きでエマに飛びかかった。


「エマ!」


リオの叫びも虚しく、鋭い爪がエマの腕を掠める。細い腕に、たちまち赤い線が走った。

「いっ……!」


エマは顔を歪めながらも、すぐさま身をひるがえし、近くに落ちていた枯れ枝を拾い上げた。

「大丈夫、リオ! 落ち着いて!」


牙狼は再び飛びかかろうとする。エマは震える手で枝を構え、果敢にも牙狼の横腹を叩きつけた。小枝ではたいしたダメージにはならないが、怯んだ隙に、リオは無我夢中で、近くに転がっていた石を拾い上げ、渾身の力で牙狼に投げつけた。石は牙狼の鼻先に命中し、牙狼は「キャン!」と情けない声を上げて、森の奥へと逃げ去っていった。


二人の間に沈黙が流れる。

エマは息を整え、掠れた腕を見つめていた。その傷は深くはないが、はっきりと血が滲んでいる。


「ごめんなさい……僕が、足手まといで……」


リオは震える声で呟いた。自分のせいで、エマが怪我をした。飢えで動けない自分。石を投げつけるのが精一杯だった自分。何もできなかった自分。エマが命を救ってくれたのに、その恩を返すどころか、かえって彼女を危険に晒してしまった。身体の奥底から、無力感と悔しさが込み上げてきた。


エマは、そんなリオの顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ。たいしたことないから。それに、リオが石を投げてくれたおかげで、助かったわ」


エマの言葉は、リオの心の深い場所を抉った。彼女は、優しく、慰めるように言うが、リオの心には、自分の不甲斐なさが重くのしかかる。


あの時、ゴブリンに踏み潰された木の実。

人間の村で投げつけられた石。

そして、今、エマが負った、自分のせいの傷。


これらの経験は、リオに「自分は弱い」という事実を嫌というほど突きつけた。だが、エマの優しさに触れた今、その「弱さ」を乗り越えたいと強く思った。このまま弱いままでいれば、いつかまた、踏み潰され、追い出され、誰にも顧みられずに消えてしまう。そして、自分に優しくしてくれた人を守ることすらできない。それは、エマという光を見つけた今、何よりも避けたい未来だった。


「僕は、この命を救ってくれたエマに、必ず恩返しがしたい。」


闇の中で生まれた小さな命が、深い森の底で、静かに、そして力強く、その未来への誓いを立てたのだった。

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