案件002:古き良き
森を抜ける道は、アルファの的確なナビゲーションがあったとしても、想像以上に険しかった。
数時間に及ぶ過酷な行軍の後、ようやく森の端が見えてきた。木々の隙間から、開けた土地と、そして人間の営みの気配が感じられる。
ジュリアスは、最後の力を振り絞って坂を登り切り、そして、息を飲んだ。
眼下に、小さな村が広がっていた。
石と木で造られた、素朴で不揃いな家々が、数十軒ほど肩を寄せ合うように建ち並んでいる。畑には、緑色の作物が植えられ、家畜の牛や鶏と思しき動物たちが、のんびりと草を食んでいる。
そして、村の広場のような場所には、多くの人々が集まり、何やら活気に満ちた賑わいを見せていた。色とりどりの天幕が張られ、様々な品物を並べた露店が軒を連ねている。
「ジュリアス、あれは……市場のようですね」
アルファの声が、わずかながら興奮の色を滲ませる。
「複数の集落から人々が集まり、多種多様な品物が持ち寄られている様子。これは、この地域における定期的な交易の場、あるいは大規模な市(いち)が立っているのかもしれません。いずれにせよ、情報収集及び、今後の我々の活動基盤を築く上で、またとない好機と言えるでしょう」
ジュリアスは、しばしその光景を丘の上から黙って眺めていた。
未来銀河社会の、機能的で洗練されきった超巨大都市とは、何もかもが違う。非効率で、泥臭く、そして、どこか人間的な温かみを感じさせる風景。
「よし、行ってみるか。まずは情報収集だ」
彼はゆっくりと丘を下り、その原始的な市場へと、慎重に足を踏み入れた。
周囲の人々は、見慣れない高価なスーツを身に纏い、明らかに異質な雰囲気を漂わせるジュリアスに、好奇と警戒が入り混じった視線を向ける。だが、彼らは武器を手に取るでもなく、ただ遠巻きに様子を窺っているだけだった。
ジュリアスは、そんな視線を意に介することなく、市場をゆっくりと見て回る。アルファが、彼の耳元で、小声で目についた品物の素材や推定される用途、そして貨幣価値などを、リアルタイムで分析していく。
「アルファ、この世界の技術レベルはどの程度だ?」
「ジュリアス、あちらの鍛冶屋が叩いているのは、農具の鋤(すき)のようですが、鍛造技術は驚くほど稚拙です。あれでは、数日も使えば刃こぼれしてしまうでしょう。改良の余地は……無限大と言っても過言ではありませんね」
アルファの分析は、常に的確で、そして時に辛辣だった。
「ふっ、辛辣だな。だが的確だ。つまり、ここにはビジネスチャンスがいくらでも転がっている、ということか」
ジュリアスは、この世界の経済システム、技術レベル、そして人々の価値観を、貪欲に吸収していく。それは、彼が長年培ってきた、起業家としての本能的な行動だった。
新しい市場を分析し、そこに潜む問題点と、そしてビジネスチャンスを見つけ出す。
そんな時、市場の隅の方で、ひときわ小さな、そして寂しげな露店が彼の目に留まった。
地面に敷かれた粗末な布の上には、数種類の乾燥させた薬草の束と、手作りの小さな木彫りの動物が数点、申し訳程度に並べられているだけ。
店番をしているのは、歳にして12、3歳ほどであろう、一人の少女だった。亜麻色の髪を無造作に束ね、着古したワンピースの裾からは、泥のついた素足が覗いている。その大きな瞳は不安げに揺れ、時折、助けを求めるように市場の入り口の方へと視線を送っていた。
他の賑わう露店とは対照的に、彼女の店には、誰一人として足を止める気配がない。
ジュリアスは、その少女の姿に、ふと足を止めた。
憐憫(れんびん)の情が湧いたわけではない。少なくとも、彼自身はそう認識していた。ただ、その非効率な状況――明らかに価値のある商品が、稚拙な販売方法と、不適切な状況によって埋もれ、誰にも顧みられていないという事実――が、彼の合理的な精神を刺激したのだ。
彼は、ゆっくりと少女の露店に近づいた。少女は、見慣れない風体のジュリアスに気づくと、ビクリと肩を震わせ、小さな身体をさらに縮こませた。
「……お嬢さん、少し、品物を見せてもらっても構わないかな?」
ジュリアスは、できるだけ威圧感を与えないように、穏やかな声色を心がけた。
少女は、警戒するような目でジュリアスを見つめた。その瞳には、見知らぬ大人への当然の用心深さが宿っている。
「……あ、あの……お客様ですか?」
か細い声で、少女が問いかける。
「ああ、そうだ。君の薬草に興味がある」
ジュリアスは、ゆっくりと腰を下ろし、少女と目線を合わせる。
「わ、私の薬草なんて、大したものじゃありません……」
少女は、まだ警戒を解いていない。
「これらの薬草は、君が採ってきたのかね?」
ジュリアスが尋ねると、少女は小さく頷いた。そして、おずおずと、事情を話し始めた。
彼女の名前はリリ。父親と一緒に、隣村からこの市場へ薬草を売りに来たのだという。だが、道中で父親が足を滑らせて怪我をしてしまい、動けなくなってしまった。仕方なく、リリが一人で店番をしているが、今まで一度も物を売った経験などなく、どうしていいか分からずに途方に暮れていたのだ、と。
「お父様は、『この薬草は、とても良いものだから、きっと誰かが買ってくれる』って言ってくれたんですけど……」
リリの声に、不安と悲しさが滲む。
「でも、もう半日も経つのに、誰も見てくれません……。このままじゃ、お父様の怪我も治せないし、家に帰るお金も……」
話の端々から、彼女の父親への心配と、自分の無力さへの悔しさが滲み出ていた。
ジュリアスは、黙ってリリの話を聞き終えると、彼女の前に並べられた薬草の一つを手に取った。それは、鮮やかな赤い色をした、星型の小さな花だった。
「アルファ、この赤い花の成分を分析しろ」
「ジュリアス、その赤い花……仮称『スターブルーム』。極めて強力な抗炎症作用及び、細胞再生促進効果が期待できます。この世界の医療レベルを考慮すれば、まさに万能薬と言っても過言ではないでしょう。これだけの量を、あの少女が一人で……」
(なるほどな。宝の山が、文字通り道端に転がっているようなものか。そして、それを売る術を知らないが故に、飢えと絶望に瀕している……。実に、この世界らしい非効率さだ)
ジュリアスは、内心で状況を分析し終えると、リリに向き直った。その瞳には、もはや絶望の色はなく、代わりに、新たな挑戦を前にした起業家の、鋭い輝きが宿っていた。
「リリ君、と言ったかな」
ジュリアスの声に、リリがびくりと身を震わせる。
「君のお父さんの怪我の具合も心配だろう。もしよろしければ、私が君の商売を手伝おう」
「え……?」
リリは、戸惑った表情を浮かべる。
「でも……あなたは、どちら様ですか? 急にそんなことを言われても……」
当然の反応だった。見知らぬ大人が、いきなり「手伝う」などと言い出したのだ。警戒するのは当たり前である。
「私の名前は、ジュリアス・グランツ。旅の商人……とでも言っておこうか」
ジュリアスは、少し考えてから答えた。
「商人……さん?」
「そうだ。そして、君のその素晴らしい薬草を、一人でも多くの人に届け、正当な対価を得るために、私の知識を貸したいと思う。もちろん、これはボランティアではない。成果が出れば、売上の一部を、コンサルティング料として頂戴する。どうかな?」
リリは、ジュリアスの申し出に困惑していた。
「こんさる……てぃんぐ……?」
聞き慣れない言葉に、リリは首を傾げる。
「ああ、簡単に言えば、君の商売がもっと儲かるように、知恵を貸すということだ」
ジュリアスは、分かりやすい言葉に言い換えた。
「でも……そんな、急に言われても……本当に信用できるんですか?」
リリの疑いは、もっともだった。
ジュリアスは、少し考えてから、リリの目の前にあった、色褪せたスターブルームを一つ手に取った。
「では、実演してみせよう」
彼は、自分の指先を薬草の棘で軽く傷つけ、そこにスターブルームの花弁を擦り込んだ。
すると、どうだろう。傷は瞬く間に塞がり、痛みも消え去ったではないか。
「こ、これは……!」
リリは目を丸くした。
「君の薬草は、本当に素晴らしいものだ。だが、その価値を人々に伝える方法を知らないだけ。私が教えるのは、その方法だ」
ジュリアスの自信に満ちた眼差しと、そして何より、今目の前で見せた「実績」に、リリの心は大きく揺れた。
「ほ、本当に……私の薬草を、ちゃんと売ることができるんですか?」
「間違いない。ただし、君がきちんと私の指示に従えば、の話だが」
リリは、しばらくジュリアスの顔をじっと見つめていた。そして、小さく、しかし確かに、頷いた。
「……はい! お願いします、ジュリアス様!」
ジュリアスは、その言葉に満足げに微笑んだ。
それは、彼がこの異世界アストラ紀で踏み出す、記念すべき「最初のビジネス」の始まりだった。
彼は、リリの露店の商品を素早く検分し、アルファの分析に基づいて、それぞれの薬草の効能や希少性を把握する。そして、未来銀河社会で培ったマーケティング戦略と心理学の知識を、この原始的な市場に合わせて瞬時に最適化し、具体的な販売戦略を組み立て始めた。
「よし、リリ君。まずは、この『スターブルーム』を目玉商品にしよう」
ジュリアスは、リリの持っていた粗末な木の板の切れ端と炭を借り、そこに簡単な図案と、キャッチーな文句を書き添えた小さな看板を作った。
「次に、陳列だ。今はただ雑然と置かれているだけだが、これでは商品の魅力が半減する。このスターブルームは、一番目立つ場所に、少量ずつ、まるで宝石のように飾る」
ジュリアスは、リリの小さな手を取り、商品の並べ方、客への声のかけ方、そして何よりも「自信を持って商品を勧める」ことの重要性を、まるで経験豊富なコンサルタントが新入社員に研修を行うかのように、丁寧に、しかし熱意を込めて指導していく。
リリは、最初こそ戸惑っていたものの、ジュリアスの言葉の端々から感じられる確信と、テキパキとした指示に従ううちに、次第にその表情から不安が消え、代わりに好奇心と期待の色が浮かび始めていた。
「さあ、リリ君。ここからは君が主役だ。私が教えた通りにやってごらん。大丈夫、君ならできる」
リリは、深呼吸を一つすると、まだ少し震える声で、しかし以前よりずっとはっきりとした口調で、通りかかる人々への声かけを始めた。
「いらっしゃいませー! 怪我や火傷によく効く、不思議なお花は如何ですかー? 旅のお供にも、きっとお役に立ちますよー!」
最初は、誰も足を止めなかった。だが、ジュリアスが作った小さな看板と、以前とは見違えるように魅力的に陳列された商品、そして何よりも、必死に声を張り上げるリリの健気な姿に、少しずつ興味を示す人々が現れ始めた。
一人の屈強な体格の行商人が、面白半分といった様子で足を止めた。
「ほう、嬢ちゃん、威勢がいいな。その赤い花、本当に怪我に効くのかい?」
リリは、ジュリアスに教わった通り、スターブルームの効能を一生懸命に説明する。そして、ジュリアスが「お試し用」として少量だけ用意しておいたスターブルームの粉末を、行商人が見せてくれた小さな切り傷にそっと塗ってみせた。
すると、どうだろう。みるみるうちに、傷口からの出血が止まり、赤みも引いていくではないか。
「こ、これは……本当に効きやがる! おい、嬢ちゃん、その赤い花、あるだけ全部買わせてもらうぜ!」
行商人は目を丸くし、興奮した様子で薬草を買い占めていった。
それが、起爆剤となった。
「あの店の薬草は本物だ」「小さな女の子が売ってるけど、すごい薬らしい」という噂が、市場の中を瞬く間に駆け巡る。
次から次へと客が訪れ、リリは嬉しい悲鳴を上げながら、薬草を売っていく。ジュリアスは、その後ろで静かに指示を出し、時には客との交渉を手伝い、商品の魅力を最大限に引き出すためのアドバイスを的確に与え続けた。
ほんの数時間で、リリの露店に山と積まれていた薬草は、ほぼ全て売り切れてしまった。リリの手には、彼女が今まで見たこともないほどの量の銅貨や銀貨が握られていた。
「……う、売れた……全部、売れちゃった……! ジュリアス様、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
リリは、涙を浮かべながら、ジュリアスに向かって何度も何度も頭を下げた。
その純粋な感謝の言葉と、喜びに輝く笑顔は、ジュリアスの心の奥深くに、温かい何かを灯した。それは、彼が銀河の頂点を極めた時でさえ感じることのなかった、純粋で、そして確かな手応え。
ゼロから価値を生み出し、それを必要とする人に届け、そして喜ばれる。その原始的で、しかし根源的な「商売の喜び」。
(……面白い。実に、面白いじゃないか)
ジュリアスは、思わず口元に笑みを浮かべていた。それは、絶望の淵から這い上がった男が、再び生きる意味を見つけ出した瞬間の笑みだったのかもしれない。
失ったものは大きい。だが、この世界には、まだ彼が成し遂げるべきことがある。いや、彼だからこそ成し遂げられることがある。
「そうか……俺は忘れていたのか……」
ジュリアスは、小さく呟く。
「俺が最初に事業を始めた時の、あの高揚感を……」
彼の目の前では、リリが興奮して売上を数えている。その横顔は、純粋な喜びに輝いていた。
「銀河の帝王などという肩書きに酔い、数字の魔術に溺れ、俺は……本当の商売の楽しさを忘れていた」
ジュリアスは、立ち上がる。その瞳には、かつて何もない所から巨大企業を築き上げた青年の、情熱の炎が再び灯っていた。
「リリ君、君の頑張りがもたらした結果だ。私は、ほんの少し手助けをしたに過ぎない」
ジュリアスはそう言いながらも、胸の内で確かな決意を固めていた。
「アルファ」
「はい、ジュリアス」
アルファの声にも、明らかな安堵と喜びが混じっていた。
「この世界で、我々はもう一度、事業を始める。まずは、この小さな市場からだ」
ジュリアスは、リリの笑顔を見つめながら続ける。
「今度は、数字や権力のためではない。人々の笑顔のため、そして……俺自身が心から楽しめる商売のために」
彼の声には、新たな決意と、そして久しく忘れていた純粋な情熱が込められていた。
「グランツ・ユニバースの再興……いや、それ以上のものを、このアストラ紀で成し遂げてみせる。今度こそ、本当の意味での『成功』を掴んでみせようじゃないか」
その言葉には、かつて銀河を席巻した稀代の起業家の、揺るぎない意志と、新たな野望が込められていた。だが、それは以前のような冷徹な野心ではなく、もっと人間的で、温かみのある決意だった。
AI相棒アルファは、その言葉を静かに聞きながら、ディスプレイの奥で、微かに、しかし確かに、喜びの色を点滅させたように見えた。
辺境の市場の片隅で、銀河より墜ちた男の、新たな伝説が、今、静かに、そして力強く、その第一歩を踏み出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます