第17話 あの日の夕陽
凪を追いかけたあの日。
夕暮れなのにまだ明るい空は、強い風にちぎれた雲が流されていた。
本当は間違えて渡された凪の健康カードを見てないなんて嘘だ。
凪が自分と同じ身長だった事に、俺は少しショックを受け、あの日からバカみたいに牛乳を飲んで、背が伸びると聞けばなんでも試した。
いつか2人で並んで歩く日がきたら、少しでも背を高く見せたかった。
「さっきから何やってんの?」
耳にペンを掛けようと何度も落としてる凪を見て、渡会が言った。
「佐武さんがね、いつもここにペンを掛けてるから、やってみたくって。」
「佐武さんって、あの社長さん?」
「そう。やっぱり鉛筆じゃないとダメなのかな、ほらここに消しゴムがついている黄色の鉛筆。」
「それができたら、どうなるっていうの?」
「なんかかっこいいじゃない。」
渡会は落ちているボールペンを手にとって耳に掛けた。
「渡会くんもできたんだ。」
凪は渡会の耳を触った。
「やめろよ、耳を触られるのって慣れてないから。」
渡会は凪の手を笑いながら捕まえた。
「ごめん。」
凪は俯いて渡会に謝った。
「凪。」
「ん?」
顔を上げた凪に、渡会が言った。
「触っていいぞ、ほら。」
渡会は凪の手を自分の頰にあてた。
「恥ずかしいよ。もう、寝るから。おやすみ。」
凪は小さな運送業社で働き始めた。従業員のほとんどが外で仕事をしている間、事務所に残る凪は、電話番と経理の仕事を任された。事務所の掃除も自分達でしなくてはならない。1日はあっという間に終わるけれども、上司に呼び出されてビクビクして以前とは違って、名前を呼ばれる度に、凪は気持ちよく返事をした。
時にはセクハラまがいの冗談も飛び交う。沸き上がる笑いの中では、自分も自然と笑ってやり過ごせる様になった。
「渡会さんは新婚なんでしょう?こんな男臭いところで働くの、旦那さんはよく許してくれたわね。」
社長の叔母だという女性は、凪に仕事を教えていた。
「引っ越しの時、すごくお世話になりましたから。」
「そっか、白井くんの会社にいたっていうのが、渡会さんだったっけ?」
「そうです。」
「あの会社って、確か最近合併したわよね。賢い男の人だって多いだろうし、ヒールカツカツ鳴らして働いてる女の人なんかもいるんでしょう?こんな作業着きてる仕事なんか、渡会さんにはつまらないでしょう。」
「こっちの方が好きです。」
「ふ~ん、変な子ね。」
渡会と約束した温泉には、急に忙しくなった仕事のせいで、なかなか行く事ができず、クリスマスの少し手前で、なんとか2人で休みを取った。
前日の夜は頭がずっと冴えていて、睡眠薬を飲んでいるはずなのにぜんぜん効き目がない。何度寝返りを打ったかもわからない真夜中。
疲れて眠る渡会の後頭部を眺めると、起きて話しをしようと身体を揺すりたくなるの左手を、凪は押さえた。
これ以上縮まらない2人の距離は、もどかしさと寂しさを募らせていく。
自分の身体には消えない汚れがついている。渡会が少しでも身体に触れるたびに、その汚れが私を笑っているようで、何度もその手を避けてしまった。
隣りで笑っていたいなんて、そんなのスポ根漫画の恋愛話しだけだよ。
次の日。
目をこすっている凪を見て、
「眠れなかったの?」
車の中で、渡会がそう言った。
「うん。」
「子供みたいだね。」
「渡会くんは眠れたの?」
「俺はそういうの、鈍感だから。」
「そう言えば、試合の時もいつもそうだった。緊張って、した事ないでしょう?」
「あれこれ考えても、もう遅いだろう。そうだ、またやらないか、年が明けたら、試合があるから。」
「動けるかな、私。ずっと家でゴロゴロしてたから。」
「鍛えてやるから、ついてこいよ。俺と一緒なら、凪も緊張しないだろうし。」
結婚してから、渡会は男らしくなった。
中性的で風に吹かれている少年の様な絵画の印象とは違って、いつも凪よりもひとつ多くの事をやろうとしている。
自分の両親だって、結婚して最初の頃はみんなそうやってうまくやっていたのだろう。そのうち、自分の事が精一杯になると、相手の気持ちを思いやれなくなる。
外に別の相手を作る人達は、埋まらなくなったパズルを埋めようとしているだけの事。
欲望だとか、本能だとか、そんな感情を満たそうとしたら、世の中は犯罪だらけになる。それを犯さない最低限のルールでついている嘘だって、いつかは神様が間違いを裁いてくれるはず。
凪が勤めていた会社は合併されて、北川や一部の幹部は、それを機に退職したそうだ。
私もいつか、裁かれる日がくる。その時は言い訳なんかせずに、自分の審判を委ねよう。
今はただ、幻かもしれないこの生活を、精一杯大切にしたい。
「どうした?」
渡会の横顔を見つめていた凪は、渡会と視線が合うと、なんだか恥ずかしくて目を反らした。
宿に着いた。
温泉宿が立ち並ぶ、坂道の一番上に立つ大きな旅館は、源泉に一番近いと言われている。
大浴場から少し外れた場所にある、この地域で一番最初に湧き出たという温泉がある古い浴室に行った凪は、なかなか部屋に戻って来なかった。
ぐったりしている凪のおでこに、渡会は冷たいペットボトルをつけた。
「サウナにでも入ったのか。」
渡会は凪の赤い顔を覗き込んだ。
「渡会くん、忘れ物したかも。」
凪はペットボトルのお茶を一口飲むと、またお風呂にむかった。
フラフラになって部屋に戻ってきた凪は、冷蔵庫から残っていたお茶を出して飲むと、そのまま布団に入った。
「凪、あのさ。」
「ん?」
布団を被っている凪は、気のない返事しかしない。
「私のお茶だよ。間違ってないから。」
凪はそのまま眠ってしまった。寝顔を確認した渡会は、電気を消した。
「おやすみ。」
返事のない背中にそう言って自分も凪に背をむけた。
眠れずに何度か寝返りを打ち、渡会はぐっすり眠る凪の後頭部を見つめた。
こんな夜は何度もあった。
結婚すると決めた日。
身体に触れられる事を嫌がる凪は、きっと何か理由があるんだろうと思っていたけれど、いつかそれも忘れるくらいに愛し合える時がくると思っていた。
女医の前で話した事が、凪を苦しめていた原因だと知ると、この先も、ずっと凪の身体はそれを思い出して苦しみ続ける。自分は二度と触れる事のできない凪をどうやって守っていけばいいのか、いくら考えても答えが出なかった。
隣りで笑っていてくれればいいだなんて、そんな格好のいいセリフなんて言えない。
いつかはその肩に触れ、その唇を重ねたい。
凪、悪かったな。
時間を巻き戻したいのは、俺の方だ。
もう少し早く会っていたら、そんな事になる前に、凪を連れて逃げたのに。
「渡会くん。」
凪は背中越しに名前を呼んだ。
「どうした?」
「ごめん。さっきのお茶、やっぱり渡会くんのだったね。」
凪はそう言うと背中を丸めた。
「わざとだろう。」
渡会には凪の気持ちが理解できた。
「そう。わざと。」
渡会は冷蔵庫からお茶を出すと、凪の前に持っていった。
「喉、渇いたんだろう。これ、全部飲んでいいから。」
凪は起き上がってお茶を飲んだ。
少し残ったお茶を渡会は飲み干した。
「渡会くん、そっちで一緒に寝てもいい?ちゃんとキレイにしたつもり。」
何度もお風呂に行った凪は、消えない心の傷を洗っていたのだろう。
「おいで。」
渡会は布団に入ってきた凪を、両手で包むように抱きしめた。
少しひんやりとしていた凪の身体は、自分の体温と同じに温められていく。渡会は自分の胸の中で、目を閉じていた凪の唇を指で触ると、凪は目を開けてこっちを見た。何も言わず、凪の顔に近づいて、少しだけ唇を重ねて、すぐに離れた。
はっとしたように渡会の胸に顔を埋めた凪の髪を撫で、頬を触った。固く閉じている凪の瞼に触れ、凪の顎を軽く持ち上げた。
静かに唇を重ねると、凪は自分を受け入れているような感じがした。
「大丈夫か?」
渡会は凪の顔を見た。暗闇でも、凪の目が自分を見ているのがわかる。
「大丈夫。」
凪はそう言った。
明け方。
渡会が目を覚ますと、凪は自分の布団に戻っていた。浴衣を着て、髪が少し濡れている。
渡会は裸のまま凪の布団に入り込む。
「どうしたの?」
凪が目を覚ました。
「また風呂に入ってきたのか。」
「うん、そう。」
「そんなに俺が触るのは嫌だったか?」
渡会は凪に聞いた。
「違うよ。その反対。」
凪はそう言って渡会を見つめた。
身体を頻回に洗う事は、他の人から見たらおかしな習慣なのかもしれないけれど、自分に触れてほしいからと、健気にお風呂へ通っていた凪の事を、俺は愛おしいと思った。
渡会は凪の身体を背中から抱きしめた。
触れた凪の左手は、渡会の左手よりも温かかった。
「凪の手、温かいな。」
渡会は凪の身体を包む穏やかな空気を思いっきり吸い込んだ。
家に帰る途中で見た夕焼けの空は、朱色の絨毯の様にだった。
今日最後の太陽を隠しているぶ厚い雲は、何層にも折り重なっている。
「渡会くん、空。」
凪はフロントガラスを見ながら、渡会に言った。
「雲があるのに、明るいなんて珍しいな。」
渡会は前をまっすぐに見て、ハンドルを握っている。
「凪はずっと渡会くんのままなのか?」
渡会の横顔は、朱色の光りに照らされていた。
「そうだね、渡会くんのままじゃおかしいね。」
「昨日の話だけど。」
「なんの?」
「練習に行かないかって話し。」
「バドミントンの事ね。」
「凪が行ける時だけでいいからさ、一緒にやろうよ。」
「火曜日だったっけ?」
「そう。」
「返事は手紙に書こうかな。」
「めんどくさい事するなよ。今、答えを出せばいいだろう。」
「だって、渡会への返事、ずっと書いてなかったから。」
渡会は凪に渡した手紙の事を思い出した。凪が他の手紙と間違えて自分の下駄箱にいれた手紙は、10年もの時を経てやっと凪の所へ届いた。
捨ててしまおうと何度も考えたのに、あれから数回引っ越しする度に、また机の引き出しにしまわれた。
中学生の自分は、悩んで悩んで手紙を書いた。
あまり目を合わせてくれない凪に書いた言葉は、
今度 一緒に バドミントン一緒にやろう
それだけだった。
「手紙は家のどこかに隠しておくから、早く見つけて。」
無邪気に笑った凪の横顔は、あの日のまま。
幸せだと思う瞬間は、そう長くは続かない。
1日だって、落ち込んだり、舞い上がったり、そんな風に浮き沈みしながら過ぎていく。
だけど今は、こうして凪の笑顔を見て安心している自分が、明日も明後日も存在していると信じたい。
冬の真ん中に吹く風は、また雪を連れてくる。
すべてを白く塗り潰したら、嘘をついている事も気づかれなくなる。
春になって雪に埋もれていた気持ちが見つかった時、私はまた言い訳をする。
それでも彼は同じように、左手を握ってくれるだろうか。
切り過ぎたと思っていた髪は、いつの間にか肩にかかっていた。
終
夏のかけら 小谷野 天 @kuromoru320
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