第2話 大学の迷宮、日常の調律

予期せぬ空白の時間


大学の夏は、まるで生ぬるいスープのように、どこまでも緩やかに流れ続けていた。それは、誰もがその中に浸かり、ゆっくりと溶けていくのを待っているかのような、そんな季節だった。ある日の午後、僕はいつものように講義に出ようと、薄暗い廊下を歩いていた。蛍光灯の光は、僕の影を長く、そして歪に引き伸ばし、それはまるで、僕自身の存在が、現実から少しだけずれていることを示唆しているかのようだった。あるいは、僕の影だけが、僕よりも少しだけ、別の世界に足を踏み入れているのかもしれない。目的の講義室の扉に辿り着くと、そこに一枚の紙が貼られているのが目に入った。「休講」。たった二文字。それだけの情報が、僕の日常の歯車を、わずかに、しかし確実に狂わせた。3時間の空白。それは、まるで、予定されていたはずの時間が、突然、宇宙のどこかへと吸い込まれてしまったかのような感覚だった。あるいは、僕の目の前にある現実の風景から、その3時間だけが、まるで古いフィルムから切り取られたかのように、ごっそり抜け落ちてしまったのかもしれない。僕は呆然と立ち尽くし、その空白をどう埋めようかと、漠然と考えた。ポケットに手を入れると、数枚の小銭と、昨日買ったコンビニのレシートの感触があった。レシートには、僕が買ったもののリストが印字されている。それが、僕の存在をこの現実に繋ぎ止める、唯一の確かな証拠であるかのように思えた。


僕は、特にすることもなく、大学の校舎を出た。夏の太陽が、容赦なくアスファルトを照りつけ、熱気が揺らめく。アスファルトからは、微かに油と焦げ付いたような匂いが立ち上っていた。どこへ向かうという明確な意図はなかった。ただ、この予期せぬ空白を、どこか別の場所で消費したかった。それは、まるで、自分の内側に溜まった澱を、どこか遠い場所で洗い流したいと願うような、そんな衝動だった。僕は、普段は通らないような裏道を、まるで何かに導かれるように歩き始めた。細い路地が迷路のように続き、建物の陰には、ひっそりと忘れ去られたような自転車が錆びついていた。その錆の色は、まるで時間がそこで凝固してしまったかのように、深く、そして濃かった。古い電柱には、色褪せたポスターが何枚も重なり、風に揺れている。それは、過去の記憶の断片が、幾重にも積み重なった地層のようだった。その光景は、まるで時間がそこで止まってしまったかのようだった。僕の足音だけが、その静寂の中で、妙に大きく響いた。


しばらく歩くと、僕は、昔ながらのレトロな商店街を発見した。それは、まるで、都市の喧騒から切り離された、別の時間軸に存在する場所のようだった。錆びたトタン屋根の店、色褪せた暖簾、そして、どこからか漂ってくる、香ばしい惣菜の匂い。それは、僕がこれまで嗅いだことのない、しかし、なぜか懐かしさを覚える匂いだった。昭和を知らないはずの僕なのに、そこには微かなノスタルジアが漂っていた。それは、僕自身の記憶ではない。けれど、まるで誰かの記憶の残滓が、この街並みに染み付いているかのようだった。あるいは、僕の遺伝子の奥底に眠る、遠い祖先の記憶が、この場所で呼び覚まされたのかもしれない。古いレコード店からは、かすれた音質のポップスが流れ、その歌声は、まるで遠い過去から届くメッセージのようだった。八百屋の店先には、色鮮やかな野菜が積み上げられ、その鮮やかな色彩が、この古びた街並みの中で、ひときわ目を引いた。僕は、その光景を眺めながら、自分がまるで、古い映画のセットの中に迷い込んだような、奇妙な感覚に囚われていた。それは、現実と非現実の境界線が、曖昧に溶け合うような感覚だった。


斉藤さんとの不協和音と見えない力


商店街の角を曲がったところで、僕は予期せぬ人物と出くわした。同じゼミの斉藤さんだった。彼女は、いつも通りの現実的でそっけない態度で、僕が感じていたノスタルジアは、一瞬にして冷やされた。それは、まるで、温かいスープの中に、突然、冷たい氷が放り込まれたような感覚だった。彼女は、僕がこんな場所にいることを、心の底から理解できないといった表情で、僕を見つめた。その視線は、僕の存在を、まるで奇妙な異物として捉えているかのようだった。


「こんなところで何してるの?珍しいね、あなたがこんな場所に来るなんて」


彼女の唐突な問いかけに、僕は言葉に詰まった。何をどう説明すれば、この奇妙なノスタルジアを、この古びた街並みが僕に語りかけてくる不可解な感覚を、彼女に理解してもらえるのだろう?僕の脳裏には、適切な言葉が何一つ浮かんでこなかった。まるで、言葉を紡ぐための回路が、一時的にショートしてしまったかのように。沈黙が、僕たちの間に、まるで透明な壁のように立ち上がった。それは、僕がこれまで築いてきた、他者との間の見えない壁と、寸分違わぬ形をしていた。


その時だった。斉藤さんの言葉に詰まる僕の脳裏に、あの高台で出会った「不思議な男性」の言葉が、かすかに、しかし確かに、よぎった。それは明確な記憶ではない。まるで、遠い記憶の残響が、僕の意識の奥底から浮上してきたかのように。けれど、その言葉は、僕の口から自然な相槌や話題の転換を引き出した。まるで僕の言葉が誰かの声に「調律」されたかのように、僕の口は、僕の意思とは無関係に、滑らかに動き始めた。


「いや、ちょっと散歩してただけ。この辺、意外と面白いね。なんか、時間がゆっくり流れてるみたいで。まるで、別の世界に迷い込んだみたいだ」


僕の言葉に、斉藤さんの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。彼女の眉間の皺が、わずかに緩んだのが分かった。それは、まるで、固く閉ざされていた扉が、かすかに開いたような、そんな変化だった。彼女の瞳の奥に、かすかな好奇の光が宿ったようにも見えた。


「ふうん。まあ、確かに、ここだけ別の時代みたいだよね。私も、たまにこういう場所、歩きたくなる時があるかな」


斉藤さんはそう言って、僕の言葉を肯定した。そして、なんとなく二人で商店街の散策を続けることになった。僕は、自分の口から出た言葉が、まるで僕自身のものではないような、奇妙な感覚に囚われていた。それは、僕の意識とは無関係に、誰かの声が僕の言葉を操っているかのようだった。まるで、僕の体が、見えない糸で操られる人形になったかのように。けれど、その「調律」された言葉のおかげで、斉藤さんとの会話は、これまでになくスムーズに進んだ。それは、僕がこれまで経験したことのない、不思議な感覚だった。不協和音ばかりだった僕の日常に、突然、心地よいハーモニーが生まれたような。


僕たちは、古びたレコード店の前で立ち止まり、店内に流れる古いロックミュージックに耳を傾けた。かすれた音質のギターリフが、僕たちの周りの空気を、まるで古いワインのように熟成させていく。斉藤さんは、意外にも古い音楽に詳しいようで、僕が知らないバンドの名前をいくつか挙げた。彼女の口から紡がれるバンド名や曲のタイトルは、僕にとっては未知の記号だったけれど、彼女の言葉の響きには、確かな愛情が込められているのが分かった。僕はただ、彼女の言葉に相槌を打ち、時折、彼女の横顔を盗み見た。彼女の表情は、先ほどよりもずっと穏やかで、時折、かすかな笑みを浮かべていた。それは、僕がこれまで見たことのない、斉藤さんの別の側面だった。まるで、彼女の中に、僕が知らなかった、もう一つの部屋があるかのようだった。その部屋の窓から、かすかな光が漏れている。


僕たちは、さらに奥へと進み、小さな喫茶店を見つけた。入り口には、手書きのメニューが貼られ、店内からは、コーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。それは、まるで、遠い記憶の扉を開く鍵のような匂いだった。僕たちは、自然と店の中へと足を踏み入れた。店内は、薄暗く、古びた木製のテーブルと椅子が並んでいた。壁には、色褪せたポスターが貼られ、BGMには、やはり古いジャズが流れている。それは、まるで、僕がレンタカーの中で聞いたジャズの続きのようだった。あるいは、僕の人生という長い物語の、どこかのページで途切れていた音楽が、ここで再び奏でられ始めたかのようだった。


僕たちは、窓際の席に座り、それぞれアイスコーヒーを注文した。斉藤さんは、僕が注文したアイスコーヒーの氷が、グラスの中でカランと音を立てるのを、じっと見つめていた。その視線は、まるで、氷の結晶の奥に、何か隠された意味を見つけようとしているかのようだった。あるいは、僕の言葉の奥に隠された、真実の響きを探しているのかもしれない。


「ねえ、あなたって、いつも何を考えてるの?」


斉藤さんが、突然、そう尋ねた。その問いかけは、僕の心の奥底に、まるで鋭い針を突き刺すようだった。僕は、何を考えているのだろう?漠然とした不安、過去のトラウマ、そして、あの「不思議な男性」の言葉。それら全てが、僕の頭の中で、まるで混沌としたスープのように混ざり合っていた。そのスープは、僕の意識の表面に、泡のように浮かび上がり、消えていく。


「別に、何も」


僕は、そう答えるのが精一杯だった。それは、僕の心の奥底に隠された、真実の言葉とはかけ離れた、ただの音の羅列だった。斉藤さんは、僕の答えに、特に反応することなく、ただ、自分のアイスコーヒーをゆっくりと飲んだ。その沈黙は、僕にとって、決して不快なものではなかった。むしろ、心地よいものだった。それは、僕たちの間に、言葉では表現できない、何か別の繋がりが生まれたことを示唆しているかのようだった。それは、まるで、二つの異なる周波数のラジオが、偶然、同じ曲を同時に受信したような、そんな静かな共鳴だった。


残された違和感と僕の内心


喫茶店で時間を潰した後、僕たちは店を出た。夕暮れ時、商店街の灯りが、一つ、また一つと点り始める。それは、まるで、眠りについていた街が、ゆっくりと目覚めていくかのようだった。あるいは、僕の意識の奥底に眠っていた何かが、その光に誘われて、少しずつ浮上してくるかのようだった。斉藤さんと別れ、僕は一人、大学へと戻る道を歩いた。彼女の背中が、街の雑踏の中に消えていくのを、僕はしばらく見送っていた。


あの「調律」された会話は、僕自身の言葉ではなかったような、借り物めいた感覚が、僕の心に深く残った。それは、まるで、誰かの服を借りて着ているような、そんな違和感だった。僕の日常に、理解できない謎が、また一つ付け加えられたように感じた。高台の彼が、僕の意識に介入しているのだろうか?もしそうなら、その目的は何なのだろう?僕の心は、微かな不安と好奇心で揺れ動いていた。それは、まるで、水面に投げ込まれた小石が、小さな波紋を広げていくように、僕の心の奥底に、静かに、しかし確実に広がっていった。その波紋は、やがて、僕の意識の表面にまで達し、僕の見る世界を、わずかに、しかし決定的に歪ませていく。


僕の足元には、アスファルトのひび割れが、まるで僕の心の不安を映し出すかのように、不規則な模様を描いていた。僕は、そのひび割れをじっと見つめた。それは、まるで、僕自身の存在が、この世界のどこかで、わずかにずれていることを示唆しているかのようだった。あるいは、僕の魂が、この現実とは別の、どこか遠い場所に、かすかに繋がっているのかもしれない。僕は、この奇妙な体験が、僕の人生に何をもたらすのか、まだ知る由もなかった。けれど、僕は、この不可解な謎に、少しだけ、興味を抱き始めていた。それは、まるで、夜空に浮かぶ満月を、じっと見つめるような、そんな静かな興味だった。その月は、僕に、まだ見ぬ世界の存在を、静かに、しかし力強く、語りかけているかのようだった。そして、僕の心臓は、これまでよりも少しだけ、速いリズムを刻み始めていた。それは、新しい物語の始まりを告げる、静かな鼓動だった。

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