連鎖の切れた空間に浮遊す。

H/B

第1話 停滞する夏と風の呼び声

都会の片隅で、過去の影と共に


20歳の夏は、まるで生ぬるい水の中に沈んでいるようだった。大学二年生。独り暮らしの僕の部屋は、いつだって同じ空気を纏っていた。朝、目覚めても、夜、眠りについても、その澱んだ気配が変わることはない。天井の石膏ボードには、いつからかできたひび割れが、まるで僕の心の不安を映し出すかのように、不規則な模様を描いていた。夢も目標も、これといって「これがしたい」と強く願うことも見つからず、漠然とした将来への不安だけが、そのひび割れのように、じわりじわりと心に広がっていく。


人間関係は、常にぎこちなかった。特に、小学校の頃に壊れてしまった幼馴染との関係が、僕の心に深い傷として残っていた。あの時、僕が放った無責任な言葉が、彼女の心を深く抉り、僕たちの間に決定的な溝を作ってしまった。それ以来、僕は他者との親密な繋がりを築くことへの恐怖を抱え、無意識のうちに人との間に壁を作るようになっていた。サークルにもゼミにも所属しているけれど、深い交流はない。表面的な会話はできる。笑顔も作れる。けれど、一歩踏み込んだ関係になる前に、僕の心はいつもブレーキをかけてしまうのだ。


毎日は、ただ過ぎ去っていく。講義に出て、バイトをして、部屋に戻り、天井のひび割れを眺める。そんな単調な繰り返しの中で、僕は自分が世界の回路から外れてしまったような、奇妙な疎外感を抱えていた。まるで、僕だけが別の周波数で存在しているかのように。


ある夏の日、その閉塞感に耐えきれなくなった僕は、理由もなくレンタカーを借りた。明確な目的地などなかった。ただ、この澱んだ日常から、少しでも遠ざかりたかった。キーを回し、エンジンが唸りを上げる。その振動が、僕の心に微かな高揚をもたらした。普段使い慣れた軽自動車とは違う、少しばかり大きな車体が、僕をどこか遠くへ連れて行ってくれるような気がした。


車は、都市の喧騒を背に、郊外へと向かう道を滑らかに進んでいく。カーラジオからは、古びたジャズが気だるく流れ、そのメロディは、僕の心に染み付いた重苦しい空気を、少しずつ溶かしていくようだった。乾いた風が窓から吹き込み、僕の髪を揺らした。それは、僕がこれまで感じていた停滞とは異なる、どこか自由な風だった。アスファルトの照り返しが、蜃気楼のように揺らめく。視界の端を流れていく景色は、高層ビル群から、やがて低い住宅街へと変わり、さらに進むと、緑豊かな田園風景が広がり始めた。コンクリートの匂いが薄れ、土と草の匂いが混じった、どこか懐かしい香りが車内に満ちる。僕はアクセルを踏み込み、さらに遠くへと向かった。どこへ辿り着くのか、何が見つかるのか、それは分からなかったけれど、このまま走り続けていれば、何か、ほんの少しでも、変わるかもしれないという、微かな期待が胸の奥に芽生えていた。


高台の出会いと最初の波紋


車はいつしか、緩やかな坂道を登り切り、眼下に街を見下ろす高台へと辿り着いた。そこは、観光客もまばらな、小さな展望台だった。車を停め、僕はゆっくりと外に出た。広がる都市の光景は、まるで巨大なパノラマ写真のようだった。遠くには高層ビル群が霞み、手前には住宅街が広がる。一つ一つの家には、それぞれの生活があり、それぞれの物語があるのだろう。けれど、僕の存在は、その広大な世界の回路から、完全に外れてしまっているように感じられた。僕は、ただ、その光景を眺めるだけの、傍観者だった。


その時だった。


涼しげなリネンのシャツを纏い、北欧の彫刻のような端正な顔立ちをした「不思議な男性」が、まるで最初からそこにいたかのように、何の違和感もなく、自然に僕の隣に立っていた。彼は、僕が彼に気づく前から、ずっとそこにいたような、そんな不思議な存在感を放っていた。彼の目は、僕と同じように、眼下の街を見つめている。けれど、その瞳の奥には、僕には理解できない、深い知性のようなものが宿っているように見えた。彼は僕を一瞥し、親しみを帯びた曖昧な表情を浮かべた。その表情は、僕がこれまで出会ったどんな人間とも異なっていた。警戒心も、好奇心も、敵意も、何も感じさせない。ただ、そこにいる。それだけだった。


「また来たね。君はいつも、何かを確かめるように、同じ場所に引き寄せられる」


彼の声は、風のように静かで、しかし、どこか遠くから響いてくるような、不思議な響きを持っていた。僕は驚き、彼の方を見た。なぜ、彼が僕のことを知っているのだろう?僕がここに来ることを、彼は予期していたのだろうか?疑問が頭の中を駆け巡るが、言葉は出てこない。


僕と彼との間で、流れるような会話が始まった。彼の言葉は流暢で、示唆に富んでいた。彼は僕の人間関係の不協和音や、心の奥底に潜む過去の影、あの幼馴染とのトラウマを察しているようだった。彼は僕の目を見て、静かに言った。「君は、世界との間に、自ら壁を築いているようだね。その壁は、君を守るためだけのものなのだろうか?それとも、君自身を、この世界の連鎖から切り離しているだけなのだろうか?」


彼の言葉は、僕の心に静かに染み渡り、まるで僕自身の内面を見透かされているかのような感覚を与えた。僕は、彼の言葉に反論することも、同意することもできなかった。ただ、彼の言葉が、僕の心の奥底に、小さな波紋を広げていくのを感じていた。彼は決して深くは踏み込まない。けれど、その言葉の端々には、僕がこれまで誰にも話したことのない、僕自身の弱さや不安が、まるで透けて見えているかのように感じられた。


「世界は、君が思っているよりもずっと複雑で、そしてシンプルだ。君の記憶は、その複雑さの一部を切り取っているに過ぎない。しかし、その切り取られた断片の中にこそ、真実の連鎖が隠されていることもある」


彼の声は、風のように僕の耳を通り過ぎ、しかし、その言葉だけは、僕の心に確かに残った。彼は、まるで宇宙の原理を語る哲学者のようであり、同時に、僕の心の奥底に眠る秘密を知る預言者のようでもあった。僕は、彼の言葉に引き込まれ、彼が次に何を語るのか、知らず知らずのうちに期待していた。


夕暮れ時、空は茜色に染まり、街の灯りが一つ、また一つと点り始めた。彼は何の予兆もなく、静かに言った。「そろそろ行こうか」。その言葉は、僕に微かな寂しさを残した。彼は、僕が彼に何かを尋ねる間もなく、静かに、そして自然に、僕の隣から立ち去った。まるで、最初からそこにいなかったかのように。


僕は高台に一人残され、彼の言葉がもたらしたもの、そして彼の正体について掴みきれないまま、微かなざわめきを心に残した。足元には、奇妙な螺旋状の痕跡が、一瞬、浮かび上がったような気がした。それは、砂の上に描かれた、まるで古代文字のような、しかし、すぐに風に消えてしまいそうな、曖昧な線だった。僕は目を凝らしたが、次の瞬間には、それは消え失せていた。本当に見たのだろうか?それとも、僕の錯覚だったのだろうか?


この出会いが、僕の日常に、小さな亀裂を入れた。それは、これまで僕が築き上げてきた、安全で、しかし閉塞的な世界に、微かな光を差し込むような、最初の波紋だった。僕は、彼の言葉の意味を、そして彼の正体を、知りたいと思った。この夏は、もう、ただ過ぎ去っていくだけの夏ではない。そんな予感が、僕の胸の奥で、静かに、しかし確かに、脈打ち始めていた。

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