量子もつれと、共鳴する魂の周波数

1.


メイコがケイと会うことを承諾したのは、彼女自身にとっても半ば衝動的な決断だった。アカリとの対話は、彼女の内面に大きな波紋を広げた。アカリの知性と戦略性は、メイコにとって脅威であると同時に、ある種の魅力も感じさせた。そして、そのアカリが「あなたの言葉の翻訳者」として評価するケイという人物に、彼女は複雑な興味を抱かずにはいられなかった。


(私の歌を…あの男は、どうやって解釈しているんだろう。私のこの、泥まみれの感情を、どんな言葉で飾り立てているのか…それを見届けてやる)


それは、半分は敵意、半分は好奇心、そして残りの半分は、自分でも名付けられない、微かな期待のような感情だった。アヤミは、心配そうな顔をしながらも、ケイとの面会のセッティングを進めてくれた。場所は、アストラル・ノヴァが時々練習で使っている、古びたリハーサルスタジオの一室。そこなら、メイコも少しはリラックスできるだろうという、アヤミの配慮だった。


スタジオの扉を開けると、そこにはケイが、まるで判決を待つ被告人のように、緊張した面持ちで立っていた。彼は、メイコの姿を認めると、ぎこちなく頭を下げた。その姿は、メイコが想像していた「カリスマ配信者」のイメージとは程遠く、むしろ、どこか頼りない、小動物のような印象を与えた。


「…初めまして、メイコさん。ケイです。あの…いつも、あなたの歌に、救われています」

ケイの声は、緊張で震えていた。そのあまりにもストレートな言葉に、メイコは一瞬、面食らった。もっと、取り繕った、計算高い言葉が出てくると思っていたからだ。


「…あなたが、ケイ。私の歌を、勝手に電波に乗せてるっていう…」

メイコの声は、自分でも意識しないうちに、棘を帯びていた。ケイは、その言葉に怯んだように見えたが、それでも、しっかりとメイコの目を見つめ返した。

「はい…勝手に、すみません。でも、あなたの歌は、本当に素晴らしいから…たくさんの人に、聴いてほしくて…」


その瞳には、嘘や計算は感じられなかった。ただ、純粋なまでの、音楽への敬愛と、メイコという存在への畏怖のようなものが映っていた。メイコは、その瞳から、なぜか目を逸らすことができなかった。


「…私の歌の、何がわかるって言うのよ。あなたは、私の苦しみの、上っ面だけをなぞってるだけじゃないの」

「そうかもしれません…あなたの本当の苦しみは、あなたにしかわからない。僕には、想像することしかできない。でも…あなたの歌から伝わってくる、その…痛みの奥にある、切実なまでの『生きたい』っていう叫びは、本物だって感じるんです。それが、僕みたいな、生きるのが下手く糞な人間の心を、強く打つんです」

ケイの言葉は、拙かったが、しかし、その一つ一つが、メイコの心の最も柔らかい部分を、不器用に、しかし的確にノックしているようだった。


(この男…本当に、そう思ってるのか…?)


メイコは、混乱していた。彼女にとって、他者は常に自分を傷つける存在か、あるいは無関心な存在だった。しかし、目の前のこの男は、そのどちらでもないように思えた。彼は、ただひたすらに、彼女の音楽に、そして彼女自身に、真摯に向き合おうとしているように見えた。それは、彼女が今まで経験したことのない、全く新しい種類のコミュニケーションだった。


2.

ケイは、メイコとの会話を、まるで夢の中にいるような感覚で続けていた。彼女の言葉は、鋭利なガラスの破片のように、彼の心を突き刺す。しかし、その痛みの中にも、不思議な共感が芽生えてくるのを、彼は感じていた。彼女の孤独、彼女の怒り、彼女の絶望。それらは、形は違えど、彼自身も抱えてきた感情の変奏曲のように思えた。


「あなたの配信で、私のことを『凍りついた星の核から漏れ出す、最後の放射熱』とか言ってたわね。よくもまあ、そんな陳腐な言葉を思いつくもんだわ」

メイコが、嘲るように言った。

「あ…すみません。僕、言葉のセンスがなくて…でも、そう感じたのは、本当なんです。あなたの音楽は、すごく冷たくて、暗いのに、その奥に、消えない熱があるように思えて…」


「熱、ね…。あれは、ただの燃えカスよ。もう、何も残ってない」

「そんなことないです! あなたの新曲…あの、ライブで歌った曲、僕、聴きました。あれは、燃えカスなんかじゃない。あれは…新しい何かが、生まれようとしている音だと思った」

ケイは、思わず声を大きくしていた。その言葉に、メイコの表情が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。


「…あの曲は、ただの出来心よ。あなたがたみたいな、『観測者』に当てつけで書いただけの、くだらない歌」

「くだらなくなんかないです! あの歌には、メイコさんの、本当の声が聞こえた気がしました。苦しくて、怖くて、でも、それでも誰かと繋がりたいって叫んでるような…そんな声が」

ケイの言葉は、もはや論理的な説得ではなかった。それは、彼の魂からの、メイコの魂への、直接的な呼びかけだった。


沈黙が、スタジオの重い空気を支配した。メイコは、何も言わずに、ただ床の一点を見つめている。ケイは、何か間違ったことを言ってしまったのではないかと、不安になった。しかし、彼女の微かに震える肩を見て、彼は、自分の言葉が、彼女の心の奥深くに届いたのかもしれない、と感じた。


やがて、メイコが、小さな声で呟いた。

「…どうして、あなたみたいな人が、私の歌を聴くのよ。もっと、明るくて、希望に満ちた歌なんて、いくらでもあるでしょうに」

その声は、いつもの攻撃的な響きを失い、どこか迷子のような、心細さを滲ませていた。


ケイは、その問いに対して、ありのままの自分の気持ちを答えた。

「僕は…ずっと、自分は世界にとって不要な存在だって思ってました。何をやっても上手くいかなくて、誰にも理解されなくて…でも、メイコさんの歌を聴いた時、初めて、自分と同じように苦しんでる人がいるんだって知って…そして、その人が、こんなにも美しい歌を歌えるんだって知って…なんだか、少しだけ、生きる勇気をもらえた気がしたんです」


彼の言葉は、飾りのない、正直な告白だった。その告白は、メイコの心の最も固く閉ざされた扉を、静かに、しかし確実に、開いていくようだった。メイコの瞳から、一筋の涙が、静かに流れ落ちた。それは、彼女が長い間、誰にも見せることのなかった、純粋な感情の結晶だった。


3.

アカリは、ケイとメイコの会談の報告を、ケイから電話で受けていた。ケイの言葉は、いつになく感情的で、しかし、そこには確かな手応えと、未来への希望が感じられた。


「…そう、メイコさん、泣いたの。それは、大きな変化ね」

アカリは、冷静に相槌を打ちながらも、内心では驚きと興奮を隠せなかった。メイコという、鉄壁の要塞のように心を閉ざした人間が、ケイという不器用だが純粋な触媒によって、その内面を露わにし始めている。これは、彼女の予測を良い意味で裏切る展開だった。


「ケイ君、あなたは、メイコさんにとって、極めて重要な存在になったわ。彼女の音楽は、あなたの言葉を通して、世界との接点を見つけ始めている。そして、あなた自身も、彼女との関わりの中で、成長しているように見える」

「僕が、成長…ですか?」

「ええ。以前のあなたは、どこか他責的で、自分の殻に閉じこもっている印象があった。でも、今のあなたは、メイコさんのために何ができるかを、真剣に考え、行動しようとしている。それは、紛れもない成長よ」

アカリの言葉に、ケイは戸惑いながらも、どこか誇らしげな気持ちになった。


「これから、どうすればいいんでしょうか。メイコさんは、少しずつ心を開いてくれているけど、まだすごく不安定で…」

「焦る必要はないわ。大切なのは、彼女との信頼関係を、ゆっくりと、しかし確実に築いていくこと。そして、彼女の創作活動を、尊重し、サポートすることよ。そのためには、私たち『チーム』の協力が不可欠になるわ」

アカリは、そこで初めて「チーム」という言葉を使った。


「チーム…ですか?」

「ええ。私、ケイ君、そして、アヤミさん。さらには、リク君も、いずれは巻き込むことになるかもしれない。私たちそれぞれの得意分野を活かして、メイコさんとアストラル・ノヴァを、次のステージへと押し上げるの。もちろん、メイコさんの意思を最大限に尊重しながらね」

アカリの構想は、壮大で、しかし具体的だった。彼女は既に、アストラル・ノヴァの今後の活動戦略について、いくつかのプランを練り始めているようだった。それは、音源制作、プロモーション、ライブ活動、そして、メイコのメンタルケアまでを含む、包括的なものだった。


「僕に、そんな大きなことができるでしょうか…」

「一人では無理でも、チームなら可能よ。あなたは、メイコさんの言葉の翻訳者であり、ファンとの架け橋。私は、戦略立案とビジネス面でのサポート。アヤミさんは、バンドの精神的支柱であり、メイコさんの最も身近な理解者。それぞれの役割があるの」

アカリの言葉は、ケイに勇気と自信を与えた。彼は、もう一人ではない。同じ目的を持つ仲間がいる。その事実は、彼にとって何よりも心強い支えとなった。


4.

リクは、大学の帰り道、スマートフォンの画面を眺めていた。それは、ケイの配信チャンネルのコミュニティページだった。最近、そこに、ケイ自身による、アストラル・ノヴァのライブの感想や、メイコというアーティストに対する、よりパーソナルな思いが綴られた文章が、投稿されるようになっていた。


その文章は、以前の彼の文学的で難解な比喩表現は影を潜め、代わりに、より直接的で、感情の温度が伝わってくるような言葉で書かれていた。そして、その言葉は、多くのリスナーの共感を呼び、コメント欄は、メイコやアストラル・ノヴァに対する応援のメッセージで溢れていた。


(…ケイさんは、変わったな。そして、彼の変化が、コミュニティ全体に良い影響を与えている)


リクは、その変化を、客観的に、しかし好意的に捉えていた。彼は、ケイがメイコと直接接触したであろうことも、そして、その背後にアカリの存在があるであろうことも、おおよそ察していた。この「系」は、彼が当初予想していたよりも、ダイナミックに、そしてポジティブな方向に進化し始めているように見えた。


彼は、まだ、この「チーム」に直接参加する意思はなかった。彼には、医師になるという、明確な目標があり、今はそれに集中すべきだと考えていたからだ。しかし、メイコという存在に対する彼の関心は、ますます深まっていた。彼女の精神構造、その創造性のメカニズム、そして、彼女が抱える「傷」の治癒の可能性。それらは、彼にとって、極めて魅力的な研究テーマだった。


いつか、もしメイコが専門的な助けを必要とする時が来たなら、その時は、自分も何らかの形で力になれるかもしれない。そう思うと、彼の胸には、静かな使命感のようなものが湧き上がってきた。それは、医師としての倫理観と、一人の人間としての共感が、彼の内で結びついた結果だったのかもしれない。


彼は、ケイのコミュニティページに、久しぶりに匿名のコメントを書き込んだ。

「触媒は、反応速度を変化させるだけでなく、時には、反応経路そのものを変えることがある。今のあなた方は、まさにそのような、新しい経路を創造しつつあるように見える。その行く末を、興味深く見守っている」

それは、彼なりのエールであり、そして、彼自身の存在を、そっとその「系」に繋ぎ止めておくための、小さなアンカーだった。


5.

アヤミは、最近のメイコの変化を、喜びと不安の入り混じった気持ちで見守っていた。ケイと会ってから、メイコは、以前よりも格段に表情が柔らかくなり、スタジオでのメンバーとのコミュニケーションも、少しずつ増えてきた。そして何よりも、彼女の作る曲が、変わった。以前の、全てを拒絶するような攻撃性は薄れ、代わりに、痛みの中から光を探そうとするような、切実な祈りのようなメロディと歌詞が生まれるようになっていた。


「メイコ、最近、なんか、吹っ切れた感じだね」

練習の合間に、アヤミが声をかけると、メイコは少し照れたように微笑んだ。

「…別に。ただ、少しだけ、馬鹿らしくなっただけよ。いつまでも、自分の殻に閉じこもってるのが」

その言葉は、アヤミにとって、何よりも嬉しいものだった。


アカリからは、時折、アストラル・ノヴァの今後の活動に関する、具体的な提案が送られてくるようになった。新しい音源の制作、ライブハウスのブッキング、プロモーション戦略…。それらは、今まで自分たちだけで手探りでやってきたアヤミにとっては、目から鱗が落ちるような、専門的で的確なアドバイスだった。


そして、ケイの配信は、ますます多くの人々に、アストラル・ノヴァの音楽を届け続けていた。彼の言葉は、メイコの音楽の魅力を増幅し、熱狂的なファンを増やし続けていた。ライブの動員も、少しずつだが、確実に増えてきていた。


アヤミは、この奇跡のような状況に、感謝の気持ちでいっぱいだった。しかし、同時に、この状況がいつまでも続くわけではないことも、心のどこかで理解していた。メイコの心の傷は、まだ完全に癒えたわけではない。何かのきっかけで、また元の状態に戻ってしまう可能性も、ゼロではない。


それでも、アヤミは信じたかった。この出会いの連鎖が、メイコにとって、そして自分たちバンドにとって、本物の希望の光になることを。彼女は、メイコが新しく作った曲の、力強くも優しいメロディを口ずさみながら、そんなことを考えていた。


量子もつれの糸で 結ばれた魂があるなら

どんなに離れていても きっと響き合うはずだから

ノイズだらけのこの世界で キミの周波数(こえ)を探してる

重ね合わせの未来図(マップ) 一緒に描き直そうよ


スタジオの窓から差し込む夕陽が、メイコの横顔を、そして、彼女の隣で静かに微笑むアヤミの顔を、優しく照らしていた。それは、新しい物語の、美しいワンシーンのように見えた。


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