シュレーディンガーの猫と、開かれた箱

1.


ケイは、近所のカフェでアカリと向かい合っていた。彼の目の前には、ほとんど手付かずのカプチーノ。アカリの前には、既に半分ほど減ったブラックコーヒー。窓の外は、午後の陽光がアスファルトに反射し、現実世界の輪郭をくっきりと描き出している。それは、彼が普段没入している電脳空間や、ライブハウスの薄暗がりとは対照的な、白日の下の光景だった。


「…先日は、どうも。ケイ君も、あの場所にいたのね」

アカリが、どこか探るような目で口火を切った。

「あ、はい…アカリさんも、やっぱり。あの…リクさんらしき人も、いましたよね?」

ケイの声は、少し上ずっていた。彼にとって、アカリのような論理的で知的な女性と一対一で話すのは、かなりの精神的エネルギーを消費する行為だった。


「ええ、おそらく彼でしょうね。リク君とは、以前少しだけオンラインでやり取りしたことがあるの。彼も、メイコさんの音楽に、かなり深いレベルで共振しているみたい」

アカリは、事もなげに言った。彼女の言葉には、常に分析的な冷静さが伴っているが、メイコやケイに言及する際には、微かな熱がこもるのを、ケイは感じ取っていた。


「あのライブ…すごかったですね。僕、今まで画面越しにしかメイコさんのこと知らなかったから…正直、衝撃的で。言葉が出ませんでした」

「同感よ。彼女のパフォーマンスは、生で体験することで、その真価が何倍にも増幅されるタイプね。ある種の…そう、触媒的なカリスマとでも言うべきかしら。周囲の人間を否応なく巻き込み、感情を揺さぶる力がある」

アカリの表現は的確で、ケイは思わず頷いた。


「アカリさんは…どうして、あの場所に? 僕みたいに、ただのファン、って感じでもなさそうですけど…」

ケイが恐る恐る尋ねると、アカリは少し考える素振りを見せてから答えた。

「私は、メイコさんの才能に、非常に大きなポテンシャルを感じているの。それは、単に音楽的なものだけじゃなくて、もっと広範な文化的現象を引き起こす可能性。でも、今の彼女は、あまりにも無防備で、脆すぎる。まるで、価値を自覚していない原石が、無造作に放置されているような状態よ」


その言葉に、ケイは胸を突かれた。まさに、彼が感じていたことと同じだったからだ。

「僕も…そう思います。彼女の歌は、もっと多くの人に届くべきだとも思うし、でも、それが彼女を壊してしまうんじゃないかっていう怖さもあって…」

「そのジレンマ、よくわかるわ。だからこそ、適切なサポートと、戦略的なプロデュースが必要なのよ。彼女の才能を守りながら、最大限に開花させるための。…そして、その役割の一端を、あなたが担っているのよ、ケイ君」

アカリの視線が、真っ直ぐにケイを射抜いた。


「僕が…ですか?」

「そう。あなたの配信が、メイコさんの音楽を、特定の層に届けるための、極めて有効なチャネルになっている。あなたは、無自覚かもしれないけれど、既に彼女の物語の、重要なナレーターであり、ナビゲーターなのよ」

その指摘は、ケイにとって、重い責任を突きつけられたようでもあり、同時に、自分の存在意義を認められたようでもあった。


「僕…どうすればいいんでしょうか…」

「まずは、あなた自身の言葉で、あのライブで感じたことを、正直に語ることね。あなたのフィルターを通して語られることで、メイコさんの音楽は、より多くの人にとって『翻訳』され、受け入れやすくなる。そして…もし可能なら、メイコさん本人と、直接対話する機会を設けるべきかもしれない」

アカリの最後の言葉に、ケイの心臓が跳ねた。


「メイコさんと…直接?」

「ええ。もちろん、慎重に進める必要はあるけれど。アヤミさん経由で、先日メイコさんにメッセージを送ってみたの。まだ返事はないけれど、何らかの反応はあると期待しているわ」

アカリは、こともなげに言ったが、その行動力と戦略性に、ケイは圧倒された。


その時、アカリのスマートフォンが振動した。彼女が画面を確認すると、その表情が微かに変化した。

「…アヤミさんから、返信よ。『メイコが、一度だけなら、会ってもいいと言っています』だって」

アカリは、驚きと興奮が入り混じったような目で、ケイを見た。

「どうやら、シュレーディンガーの猫が、箱の蓋を少しだけ開けたみたいね、ケイ君」


その言葉は、ケイにとって、新たな物語の始まりを告げるファンファーレのように聞こえた。


2.


メイコは、アヤミから「アカリという人が、どうしても一度話がしたいと言っている。一度だけ、会ってみない?」と伝えられた時、最初は即座に拒絶しようと思った。見ず知らずの人間に、自分の内面を詮索されるなど、冗談ではない。


しかし、彼女の脳裏に、あのライブの光景が蘇った。フロアの闇の向こうに感じた、いくつかの真摯な眼差し。そして、アカリのメッセージにあった「あなたの表現の持つポテンシャルに、強い関心を抱いております」という言葉。それは、彼女が今まで誰からも向けられたことのない種類の、評価の言葉だった。


(ポテンシャル…ね。私に、そんなものがあるっていうの?)


自己否定と自己嫌悪に凝り固まった彼女にとって、その言葉は異物でしかなかった。しかし、同時に、ほんのわずかな好奇心が、彼女の心の片隅で頭をもたげた。この女は、私の何を見て、そんなことを言うのだろう。


「…一度だけなら」

彼女の口から、思わずそんな言葉が漏れた。アヤミが、信じられないというような目で彼女を見た。

「ほんとに? メイコ、ほんとに会うの?」

「…うるさい。気が変わらないうちに、さっさと段取りつけなさいよ」

メイコは、ぶっきらぼうにそう言って、顔を背けた。しかし、彼女の心臓は、不安と、ほんの少しの期待で、早鐘のように鳴っていた。


アカリと会う場所に指定されたのは、都心の一角にある、古い喫茶店だった。人通りの少ない路地にひっそりと佇む、まるで時間が止まったような空間。メイコは、アヤミに付き添われて、その店の重い扉を開けた。


店内は薄暗く、クラシック音楽が静かに流れていた。奥のテーブル席に、アカリが一人で座っていた。彼女は、メイコの姿を認めると、軽く会釈した。その表情は、ビジネスライクな冷静さと、どこか研究対象を前にした科学者のような好奇心が混じり合っているように見えた。


「初めまして、メイコさん。アカリです。今日は、お時間を作っていただいて、ありがとうございます」

アカリの声は、落ち着いていて、知的だった。メイコは、何も答えず、アカリの向かいの席に、アヤミと共に腰を下ろした。喉がカラカラに渇いていた。


「…何の用ですか」

沈黙を破ったのは、メイコだった。その声は、警戒心で尖っていた。

「あなたの音楽について、そして、あなた自身について、お話を伺いたいと思っていました。先日のライブ、本当に素晴らしかったです。特に、あの新曲…」

アカリがそう言うと、メイコの肩が微かに強張った。


「…あれは、ただの気まぐれよ。深い意味なんてない」

「そうでしょうか。私には、あなたが、外部からの『観測』を意識し、それに応答しようとしているように感じられましたが」

アカリの言葉は、ナイフのように鋭く、メイコの心のバリアを切り裂こうとする。

「…勝手な解釈はやめてください」

「解釈は自由でしょう? あなたの歌は、聴く者に多様な解釈を許す、豊かな多義性を持っています。それこそが、あなたの才能の核心だと、私は思いますが」


メイコは、反論の言葉が出てこなかった。アカリの言葉は、正論であり、同時に、彼女が今まで目を背けてきた真実を、容赦なく突きつけてくる。

アヤミが、心配そうに二人の間に入った。

「あの、アカリさん。メイコは、ちょっと人見知りで…」

「分かっています、アヤミさん。だからこそ、私は彼女と直接話してみたかったのです。メイコさん、私はあなたの敵ではありません。むしろ、あなたの音楽が持つ力を、誰よりも信じている人間の一人だと思ってください」

アカリは、真っ直ぐな目でメイコを見つめた。その瞳の奥には、計算高さだけではない、純粋な敬意のようなものが感じられた。


メイコは、何も言えずに、ただアカリの視線を受け止めていた。それは、まるで鏡で自分自身を見ているような、奇妙な感覚だった。この女は、自分よりも、自分のことを理解しているのかもしれない。その考えは、彼女を混乱させ、そして、ほんの少しだけ、心を揺さぶった。


3.


カフェでのアカリとメイコの会談は、ケイにとって、シュレーディンガーの猫の箱が開かれるのを待つような、もどかしい時間だった。アカリは、その会談が終わった後、ケイに簡単な報告をすると約束してくれていた。


(…どんな話をしているんだろう。メイコさん、大丈夫だろうか…)


ケイは、自分の部屋で、落ち着かない様子でアストラル・ノヴァの曲を繰り返し聴いていた。彼の頭の中では、アカリの冷静な分析と、メイコの感情的な叫びが、まるで不協和音のようにぶつかり合っていた。しかし、その不協和音の中に、何か新しい調和が生まれるのではないかという、かすかな期待もあった。


もし、アカリがメイコの信頼を得ることができれば、それは大きな前進だ。アカリの戦略性と行動力は、メイコの才能をより多くの人々に届けるための、強力なエンジンになるかもしれない。そして、その時、自分はどんな役割を果たせるのだろうか。


彼は、自分の配信のあり方について、深く考えていた。今までは、メイコの音楽を自分なりに解釈し、その魅力を伝えることに終始してきた。しかし、これからは、それだけでは足りないのかもしれない。メイコ自身の言葉、彼女の本当の思いを、どうすればリスナーに届けることができるのか。あるいは、リスナーの声を、どうすればメイコにフィードバックできるのか。双方向のコミュニケーション。それが、これからの課題になるのかもしれない。


そんなことを考えていると、スマートフォンが着信を告げた。アカリからだった。

「もしもし、ケイ君? 今、大丈夫?」

その声は、いつもの冷静さを保っていたが、どこか興奮しているような響きがあった。

「はい、大丈夫です! どうでしたか…メイコさんとの話は…」


「…そうね、一言で言うなら、『手応えあり』ってところかしら。もちろん、すぐに全てが解決するわけじゃない。彼女の心の壁は、想像以上に厚くて、複雑だったわ。でも…確かに、小さな亀裂は入ったと思う」

アカリは、そう言って、カフェでのメイコとのやり取りの概要を、かいつまんで話してくれた。メイコの警戒心、アヤミの気遣い、そして、アカリ自身の言葉が、メイコの心にどのように作用した(ように見えた)か。


「…彼女、私の言葉に、明らかに動揺していたわ。それは、拒絶反応というよりも、むしろ、今まで誰も触れなかった部分に触れられたことへの戸惑い、という感じだった。そして、別れ際に、ほんの少しだけれど、私の目を見て、『また…話くらいなら、聞いてもいい』って言ったのよ」

その言葉に、ケイは思わず息を飲んだ。


「それって…すごいじゃないですか!」

「ええ、大きな一歩よ。もちろん、これからが本当の勝負だけど。でも、少なくとも、対話のテーブルにはつけた。ケイ君、あなたにも協力してほしいことがあるの」

アカリの声が、真剣なトーンに変わった。

「はい、僕にできることなら、何でも…」

「メイコさんが、次にあなたと話したがっているようなの」


「え…僕と、ですか!?」

ケイは、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死で抑えた。

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