触媒反応と、新世界のグラビティ

「アストラル・ノヴァ、次のフェーズへ」。


アカリがそう宣言したのは、ケイ、アヤミ、そして少し離れた席で(半ば強制的に)参加させられたメイコが集った、とある音楽スタジオのロビーでのことだった。


アカリの言葉には、シリコンバレーのスタートアップCEOのような、有無を言わせぬ自信と熱量がこもっていた。



「具体的には、まず、質の高いデモ音源を制作します。特に、メイコさんが最近作っている新曲群。あれは、これまでのアストラル・ノヴァのイメージを刷新し、より広範なリスナー層にアピールする力を持っています」


アカリが提示したタブレットには、詳細なプロジェクト計画が、まるで精密な回路図のように表示されていた。


レコーディングスタジオの選定、エンジニアの候補、予算案、そして、それらを実現するためのタイムスケジュール。


メイコは、その計画書を、まるで自分とは無関係な異世界の設計図でも見るかのように、無表情で見つめていた。


新しい曲は、確かに、彼女の内面から自然と湧き出てきたものだ。ケイとの対話、アカリとの接触、そして、名も知らぬ誰かからの「観測」が、彼女の凍てついた創造性の泉を、少しずつ融解させていた。


しかし、それが「プロジェクト」として体系化され、他者の手によって「商品化」されようとすることに、彼女は本能的な抵抗感を覚えていた。


「…私の歌は、あんたたちのビジネスの道具じゃない」


メイコが、低い声で呟いた。その言葉には、いつもの棘と、わずかな怯えが混じっていた。


ケイが、慌てて間に入った。


「メイコさん、アカリさんは、そういうつもりじゃ…ただ、あなたの音楽を、もっとたくさんの人に、最高の形で届けたいって思ってるだけで…」


「最高の形、ね…。スタジオで、ノイズ一つなく綺麗に録音された音が、本当に『最高の形』なのかしら。私の歌は、ライブハウスの歪んだ空気の中で、ギリギリのバランスで鳴ってるからこそ、意味があるんじゃないの?」


メイコの反論は、彼女の音楽の本質に迫るものだった。

アカリは、冷静に答えた。


「あなたの言うことも理解できます、メイコさん。ライブの持つエネルギーは、確かにスタジオ録音では再現できないかもしれない。でも、考えてみて。あなたのその『歪んだ空気の中でギリギリのバランスで鳴ってる音』を、まだ知らない人が、世界にはたくさんいるのよ。


その人たちに、まずあなたの存在を知ってもらうためには、ある程度の『翻訳』と『最適化』が必要なの。


それは、あなたの音楽を歪めることではなく、むしろ、その核心を、よりクリアに伝えるための手段だと、私は考えています」


その言葉は、以前ケイがメイコに語った「翻訳者」という役割とも通じるものがあった。


メイコは、反論の言葉を探したが、簡単には見つからなかった。


アカリの論理は、常に正鵠を射ていて、感情論では太刀打ちできない強さを持っていた。


アヤミが、そっとメイコの肩に手を置いた。


「メイコ、一度、やってみない? もし、気に入らなかったら、その時はまた考えればいいじゃない。アカリさんだって、メイコの気持ちを無視して進めるつもりはないと思うよ」


アヤミの温かい言葉が、メイコの頑なな心を、少しだけ和らげた。


「…好きにすればいいでしょ。どうせ、私には、もう止める権利なんてないみたいだから」


メイコは、そう言って席を立った。


それは、消極的な同意のようでもあり、諦めの表明のようでもあった。


しかし、アカリは、その言葉の中に、わずかな「揺らぎ」を感じ取った。


メイコは、まだ完全に心を開いたわけではない。


しかし、彼女は、この新しい波に、抗うのではなく、乗ってみることを、ほんの少しだけ、選択しようとしているのかもしれない。


それは、小さな種が、硬い土壌の中で、か細い芽を伸ばそうとするような、か弱い、しかし確かな変化だった。


2.

レコーディングは、アカリが選定した、最新機材とヴィンテージ機材が絶妙にミックスされた、隠れ家のようなスタジオで行われた。


エンジニアは、アカリの大学時代の先輩で、インディーズシーンにも造詣の深い、腕利きの人物だった。


メイコにとって、スタジオという閉鎖された空間は、ライブハウスとは全く異なる種類のプレッシャーをもたらした。


ヘッドフォンから聴こえる、自分の声やギターの音が、あまりにもクリアで、生々しすぎて、彼女は自分のアラや欠点ばかりが気になってしまった。


「…ダメ。全然、ダメ。こんなの、私の歌じゃない」


何度かテイクを重ねた後、メイコはヘッドフォンを投げ捨て、ブースの中でうずくまってしまった。


その姿は、まるで傷ついた獣のようだった。アヤミが心配そうに駆け寄り、エンジニアも困惑した表情を浮かべている。


ケイは、コントロールルームの隅で、その光景を、息を詰めて見守っていた。自分に何ができるだろうか。


どうすれば、メイコの心を解きほぐせるだろうか。彼は、自分の無力さを感じていた。


その時、アカリが、静かにマイクを取った。


「メイコさん、聞こえる? 少し休憩しましょうか。無理に続けなくてもいいわ」


アカリの声は、冷静だったが、その奥には、メイコへの深い理解と共感が滲んでいた。


「…私には、無理よ。こんな、無菌室みたいな場所で、感情を込めて歌うなんて…」


メイコの声は、くぐもっていた。


アカリは、少し考えてから、こう言った。


「なら、こう考えてみない? 今、あなたが歌っているのは、完成品じゃなくていいの。これは、あなたの感情の『スケッチ』よ。荒削りで、未完成で、矛盾だらけでもいい。そのスケッチを、私たちが、あなたと一緒に、最高の『作品』に仕上げていく。あなたは、一人じゃないのよ」



その言葉は、まるで魔法のように、メイコの心に染み込んでいった。


スケッチ。


一人じゃない。


その言葉が、彼女の頑なな完璧主義と、孤立感を、少しだけ解き放ったのかもしれない。


しばらくして、メイコはゆっくりと顔を上げ、再びヘッドフォンを手に取った。


「…もう一度、やらせて」


その声は、まだ震えていたが、そこには、確かな意志の光が灯っていた。


その後のレコーディングは、決して順調ではなかった。何度も中断し、メイコの感情が爆発することもあった。


しかし、その度に、アカリの冷静な分析、ケイの不器用だが誠実な励まし、アヤミの無条件の肯定が、彼女を支えた。


そして、エンジニアの的確なディレクションと、バンドメンバーたちの確かな演奏が、メイコの荒ぶる魂を、少しずつ音楽という形に定着させていった。


数日後、ラフミックスが完成した。


スタジオのスピーカーから流れてきたその音を聴いた時、メイコは、言葉を失った。


そこには、ライブの生々しいエネルギーと、スタジオ録音ならではのクリアネスと深みが、奇跡的なバランスで共存していた。


そして何よりも、彼女自身の、心の奥底からの叫びが、今まで以上に鮮明に、聴く者の胸に突き刺さるように記録されていた。


ノイズキャンセリングされた心じゃ 何も聞こえないままだった

ヘッドフォンの中の宇宙(コスモ) 孤独なシグナル点滅してる

でもキミがくれた周波数(ヘルツ) 胸の奥でまだ震えてるから

この声を枯らしてもいい 歪(ひず)んだままの愛を叫ぶよ


「…これが、私の、歌…」


メイコが呟くと、アカリが、静かに微笑んだ。


「ええ、そうよ。これが、あなたの新しい歌。そして、これから始まる、新しい物語の、最初のページよ」


その言葉は、まるで予言のように、スタジオの空間に響き渡った。


3.

完成したデモ音源は、ケイの配信を通じて、まずは最も熱心なファン層に届けられた。ケイは、その音源を流す前に、今回のレコーディングの経緯や、メイコの葛藤、そして、そこに込められた想いを、いつになく熱っぽく語った。


「…この音源は、メイコさんと、アストラル・ノヴァの、新しい挑戦の始まりです。そして、僕たち『チーム』の、最初の共同作業の成果でもあります。どうか、皆さんの耳で、心で、この新しい音を感じてください」


彼の言葉と、それに続いて流れた新しいアストラル・ノヴァのサウンドは、リスナーに大きな衝撃を与えた。チャット欄は、驚きと称賛のコメントで埋め尽くされた。


「音がクリアになったのに、魂はむしろ剥き出しになってる!」

「メイコの声、こんなに表情豊かだったんだ…」

「これは、もはやインディーズのレベルじゃない!」


その反響は、ケイの予想を遥かに超えるものだった。


音源は、彼のチャンネルだけでなく、他の音楽好きのコミュニティにも自然と拡散していき、アストラル・ノヴァの名前は、ごく一部のアンダーグラウンドシーンだけでなく、より広範な音楽ファンの耳にも届き始めた。


いくつかのインディーズ系音楽メディアからも、取材のオファーが舞い込むようになった。


アカリは、その状況を冷静に分析しながら、次の手を打っていた。彼女は、バンドの公式ウェブサイトを立ち上げ、SNSでの情報発信を強化し、そして、いくつかの有力なライブハウスやイベントの主催者とコンタクトを取り始めていた。


「重要なのは、この最初の熱を、持続的なムーブメントに変えることよ。一過性のバズで終わらせてはいけない。そのためには、質の高いライブパフォーマンスと、戦略的な情報発信が不可欠になるわ」


アカリの目は、既に数ヶ月先、数年先の未来を見据えているようだった。


アヤミは、バンドのリーダーとして、メンバー間の調整や、アカリとの連絡役として、以前にも増して忙しい日々を送っていた。


しかし、その表情は、充実感に満ち溢れていた。メイコが、少しずつだが、確実に前進している。


そして、自分たちの音楽が、より多くの人々に認められ始めている。その事実が、彼女にとって何よりの喜びだった。


メイコ自身は、その状況の変化に、まだ戸惑いを感じていた。自分の歌が、自分の知らないところで、多くの人々に聴かれ、評価されている。


それは、嬉しいことであると同時に、どこか現実感のない、フワフワとした感覚でもあった。


しかし、ケイやアカリ、アヤミ、そしてバンドのメンバーたちが、常に彼女をサポートし、彼女の意思を尊重してくれていることが、彼女にとって大きな支えとなっていた。


彼女は、少しずつだが、自分を「表現者」として肯定できるようになり始めていたのかもしれない。


それは、長い間、彼女を縛り付けてきた虐待の記憶という名の重力から、ほんの少しだけ、解き放たれるような感覚だった。


4.

リクは、ケイの配信でアストラル・ノヴァの新音源を聴いた時、静かな衝撃を受けていた。


以前のライブ音源の荒々しい魅力とは異なる、洗練されたプロダクション。しかし、その奥にあるメイコの魂の叫びは、むしろ純度を増しているように感じられた。


(…これは、単なる音楽的変化ではない。彼女の内面で、何らかの質的な変容が起きている。そして、その変容には、ケイ君や、アカリさんといった外部因子が、深く関与しているようだ)


彼は、ケイのコミュニティページに投稿される、メイコやバンドに関する熱狂的なコメントや、アカリが立ち上げたと思われる公式ウェブサイトのデザイン、そして、いくつかの音楽メディアに掲載され始めたアストラル・ノヴァに関する小さな記事などを、注意深く追っていた。


この「現象」は、彼が当初想像していたよりも、はるかに速いスピードで、そして大きなスケールで進行している。彼は、そのダイナミズムに、純粋な知的好奇心を刺激されると同時に、ある種の危うさも感じ取っていた。


メイコの精神は、依然として脆い。急激な環境の変化や、過度な注目は、彼女にとって大きなストレスになる可能性がある。


アカリのような有能なマネージャーがいれば、ある程度のコントロールは可能だろう。


しかし、人間の心というものは、そう簡単に制御できるものではない。


彼は、ふと、自分が匿名で送った「失われた楽園の、最後の残響だ」というメッセージのことを思い出した。


あの言葉は、メイコの心に、どのような影響を与えたのだろうか。


そして、今の彼女にとって、その言葉は、どのような意味を持っているのだろうか。


彼は、まだ、この「チーム」に直接関わるつもりはなかった。


しかし、彼の心の中には、いつか、自分が持つ医学的知識や、ASD的な特性から来る独自の視点が、メイコやこのチームにとって、何らかの形で役立つ時が来るのではないかという、漠然とした予感が芽生え始めていた。


それは、観測者としての立場から、一歩だけ、参加者としての領域に足を踏み入れようとする、彼自身の小さな変化の兆しだったのかもしれない。


彼は、ただ静かに、その「時」が来るのを待っていた。

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