2.過去

 いつまで経っても新郎が現れる様子はなかった。


 内心、予測していたことではあった。はじめて出会った時から、あの人の目には軽薄なものしか宿っていなかった。それを読み取れたとしても、クラウディアに与えられた選択肢はひとつとしてなかった。

 父、テジェリア公カステジャノスは顔を赤くしてイバニス侯オンディビエラに詰め寄っている。言われる側も顔を青くして、口を開けたり閉じたりに終始している。

 すべてが些末で、馬鹿馬鹿しかった。


 それでも、自分の頬が濡れていることに気付くのには、そう時間はいらなかった。胸の痛み。心の苦しさ。


 ああ。わたくしはちゃんと、あの方をお慕い申し上げていたのですね。


 ひとりになってから、声を上げて泣いた。そうして叫んだ。あの人の名を。マルセリノ、マルセリノ。ああ、我が愛しき人よ。


 泣き疲れることなどなかった。枯れることも。泣いても泣いても、悲しみばかりが湧き出てくる。


 どれぐらい泣いたのか。ひとり、訪いがあった。小さな女の子だった。


「兄さまは、義姉ねえさまを泣かせるようなことをしました」

 そのこもまた、目に涙を浮かべていた。


「兄さまは、おうちの名を汚しました。父さまも母さまも、生きてはいけないと泣いております」

「それでも、決して早まってはなりませんよ?」

「わかっているつもりです」

 そのこは、歯を食いしばりながら見上げてきた。


「私が、おうちの名誉を取り戻し、義姉ねえさまの無念を晴らします」

「エル?」

義姉ねえさまはそれだけ、私に、そして私たちに優しくして下さいましたから」

 ハンカチーフ一枚、取り出した。そのこはそれを、自身の左手に巻き付けた。


「エルシリア・オンディビエラ・デ・イバニス。ひとりの騎士として。鳥兜アコニトを掲げるものとして。義姉ねえさまにお誓いいたします」

 そのこの顔は、凛々しかった。頼もしいほどに。


「じゃあ、お願いしようかな?」

 そっと、その左手を取った。

「あのひとに、ただひと言だけ、ごめんなさいと言ってほしい。わたくしはそれだけで十分だから」

 潤んだ瞳が、頷いた。


 嫡子マルセリノ、出奔。そして、数々の悪事に加担していることが明るみになり、イバニス侯オンディビエラ家はその名誉と地位を失った。

 家督ホアキンは心労のうちにたおれ、その妻オクタビアもまた、後を追うように旅立った。

 親族は離散。名を隠し、あるいは顔を隠して遠くへ消えた。

 残されたのはただひとり、末娘のエルシリアだけだった。


 あのこはただ、私との誓いだけを胸に抱き、生き抜いてきた。

 我が叔父エドムントの厳しい教育にも耐え抜き、ひとりの騎士として、そしてひとりの淑女として育った。

 そして今日、旅立つ。


「おじさま、そして義姉ねえさま」

 エルシリア。十七歳になった。可愛らしく、そして逞しく育った。羨ましいほどに。

「どうか、お気をつけて」

「ありがとうございます。それでは」

「行ってらっしゃいませ、エル」

「ありがとう。行ってきます。クラウディア義姉ねえさま」

 そうやって、お互いの頬にベーゼを。



鳥兜アコニト。栄光と、復讐か」

 あのこが旅立ってから、エドムントがこぼした。


「あれはただ、家名とお前のために人生を使うのだな」

「健気なこです。そして優しいこです。だからこそ、私はあのこにお願いをしました」

 言いながら、クラウディアは瞼を閉じた。


 カスティジャノス家の娘として育てることもできただろう。あるいはそれを望むことも。だが、あのこはそれを望まなかった。地に落ちたオンディビエラという家名とともに生きることを選んだ。人にあらざる、修羅の道を。

 あのこが望んだこととしても、私があのこの人生を狂わせた。


「あのこが帰ってきたときに言うべきことばは、決めているの」

 ぽつりと、こぼした。エドムントは神妙な面持ちだった。

「ただ、ごめんなさいと」

「そうだな。そう言うべきだ」

「おじさまも、そう思う?」

「信念に殉じさせた。俺もまた、詫びねばならん」

 そう言ってエドムントも、静かに瞼を閉じた。


 どうか、ご無事で。

 そうしてどうか、ごめんなさいと言わせてね、エル。


(つづく)

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