第32話

どれほどの時間が経過したのか、意識がゆっくりと現実へと引き戻される。

最後に感じたのは、あの修道女の聖なる魂と俺の黒いオーラが混じり合い、新たな力へと変貌していく凄まじい奔流だった。

今、俺の身体はどうなっている? あの儀式は、成功したというのか?

重い瞼をこじ開けると、そこは先程までいた石の台座のある部屋だった。

だが、部屋の雰囲気は一変していた。壁に描かれた魔法陣は禍々しい光を放ち、空気は濃厚な血の匂いと、そして得体の知れないエネルギーで満たされている。

台座の上には、もはやあの修道女の姿はなく、代わりに黒い灰のようなものが僅かに残っているだけだった。

完全に、喰らい尽くしたのだ。その魂も、肉体も、聖なる力も、全て。


「お目覚めになられましたか、カイ様」

アルマの声が、静かに部屋に響いた。見ると、彼女とゼノン、エリアスが、俺の周囲を囲むようにして立っている。

その表情は、以前にも増して畏敬の念に染まっていた。

「…俺は…どうなった…?」

声を発すると、自分でも驚くほどにその響きが変わっていることに気づいた。

低く、深く、そしてどこか人間離れした、威圧的な響き。

「カイ様、儀式は成功いたしました。あなた様は、聖なる魂を取り込み、その闇の力をさらなる高みへと昇華されたのです」

アルマが、うっとりとした表情で言う。

「見よ、カイ様。これこそが、あなた様の新たなるお姿…!」

エリアスが、震える手で鏡を差し出してきた。

俺は、おそるおそるその鏡を覗き込む。

そこに映っていたのは、確かに俺の顔だった。だが、その印象は以前とは全く異なっていた。

肌は蒼白さを増し、瞳の奥には深淵のような闇が揺らめいている。そして何よりも、俺の全身から立ち昇る黒いオーラは、もはや煙のような曖昧なものではなく、実体を持った漆黒の炎のように、禍々しく燃え盛っていた。

それは、まるで魔王そのもののような姿だった。


「…これが、俺…?」

「はい。聖なる魂と闇の力が融合し、あなた様は『混沌の勇者』として覚醒されたのです。そのお力は、もはや以前の比ではございません」

ゼノンが、力強く断言する。

混沌の勇者…か。馬鹿馬鹿しい。俺は、ただ人間を喰らう化け物だ。

だが、この力は…確かに、以前とは比較にならないほど強大になっているのを感じる。

身体の奥底から、際限なく力が湧き上がってくる。

そして、あの忌まわしい飢餓感も、今は消え失せていた。

聖なる魂とやらが、俺の渇きを一時的に満たしたというのか。

「カイ様、そのお力を、お試しになられてはいかがですか?」

アルマが、促すように言った。

俺は、ゆっくりと右手を持ち上げ、意識を集中させる。

すると、俺の意思に応じて、右腕が漆黒の炎のようなオーラに包まれ、鋭利な爪と化した。

その爪を軽く振るうと、近くにあった石の柱が、まるで豆腐のように容易く断ち切られる。

「…すごい…」

思わず、声が漏れた。

この力ならば、どんな敵が相手でも、一瞬で葬り去ることができるだろう。

「これぞ、魔王に唯一対抗しうる力。カイ様、あなた様こそが、この世界を救う真の希望なのです」

ゼノンの言葉は、もはや狂信的な響きを帯びていた。


「だが、この力…制御できるのか?」

俺は、一抹の不安を感じながら尋ねた。

これほど強大な力が、本当に俺の意のままになるというのか。

「ご安心ください、カイ様。そのための『魂喰らいの首飾り』です。あれが、カイ様の魂と闇の力の調和を保ち、暴走を防いでくれるでしょう。もちろん、さらなる制御のためには、訓練も必要となりますが」

アルマが、静かに答える。

訓練、か。また、あの退屈な瞑想や、力の出し入れを繰り返すというのか。

「それよりも、アルマ。お前たちの言う、魔王軍の拠点での『儀式』とやらは、どうなった? 俺は、いつそこへ行けるんだ?」

俺は、新たな力を試したくてうずうずしていた。

この力があれば、魔王軍の拠点の一つや二つ、簡単に蹂躙できるだろう。

そして、そこにいるであろう人間どもを喰らい、さらに強くなるのだ。

「カイ様、お気持ちは分かりますが、焦りは禁物です。まずは、この新たなる力に、ご自身の魂を完全に馴染ませる必要がございます。そして、その上で、かの拠点での儀式に臨んでいただくのが最善かと」

「どのくらいかかるんだ、それは」

「…さあ、それはカイ様次第でしょう。ですが、少なくとも数日は、このアジトで力を安定させることに専念していただきたく存じます」

アルマの言葉に、俺は僅かに苛立ちを覚えた。

これほどの力を手に入れたというのに、まだ待てというのか。

だが、彼女の言うことにも一理あるのかもしれない。この力は、まだ俺の中で完全に馴染んではいない。下手に暴走させれば、取り返しのつかないことになる可能性もある。


「…分かった。数日間だけだぞ。それ以上は待てん」

俺は、不承不承ながらも頷いた。

「カイ様のご理解、感謝いたします。では、それまでの間、我々がカイ様の力の制御訓練のお相手をいたしましょう。特に、ゼノン殿は、古武術の心得もございます。きっと、カイ様のお役に立てることでしょう」

エリアスが、そう言ってゼノンの方を見た。

ゼノンは、自信ありげに胸を叩く。

「カイ様、このゼノン、いつでもお相手仕りますぞ。あなた様のその強大な闇の力を、より洗練されたものにするお手伝いをさせていただきます」

ふん、面白そうだ。

こいつが、どれほどのものか、試してみるのも悪くない。


その日から、俺はゼノンとの実戦形式の訓練に明け暮れた。

ゼノンの使う巨大な戦斧は、一撃一撃が凄まじい破壊力を持っていたが、俺の黒いオーラを纏った身体は、それを容易く受け止め、あるいは弾き返す。

そして、俺の放つ闇の力は、ゼノンの屈強な肉体をも確実に削り取っていく。

最初は、力の制御が上手くいかず、無駄な動きも多かった。だが、ゼノンとの打ち合いを繰り返すうちに、俺は徐々にこの新たな力を自分のものとしていくことができた。

黒いオーラを、より精密に、より効率よく操れるようになっていく。

それは、まるで新しい手足を得たかのような感覚だった。

そして、戦うたびに、俺の力はさらに増していくように感じられた。

人間を喰らわなくても、この黒いオーラそのものが、俺を強化しているかのようだ。

いや、違う。これは、あの修道女の聖なる魂を取り込んだことによる、持続的な効果なのかもしれない。

だとすれば、あの儀式は、俺にとってまさに至高の「食事」だったということになる。


訓練の合間には、アルマが俺に様々な知識を授けてくれた。

この世界の成り立ち、魔王軍の組織、そして、古の勇者たちの戦いの記録。

そのどれもが、俺にとっては興味深いものだったが、同時に、どこか他人事のようにも感じられた。

俺は、勇者ではない。ただ、力を求め、そして人間を喰らう存在だ。

世界を救うなどという大義名分は、俺には似合わない。

だが、アルマは、そんな俺の心を見透かしたように、静かに語り続けた。

「カイ様。あなた様がどのような道を歩まれようとも、我々『黎明の使徒』は、常にあなた様と共におります。そして、あなた様のそのお力が、いつかこの世界に真の夜明けをもたらすことを、信じて疑っておりません」

その言葉は、俺の心に何の響きももたらさなかった。

俺は、ただ、この力を振るい、そして喰らう。それだけだ。

それが、俺の存在理由なのだから。


数日が過ぎ、俺の力は安定し、そして以前とは比較にならないほど強大になっていた。

黒いオーラは、もはや俺の意思一つで、どんな形状にも変化し、どんな攻撃をも可能にする。

そして、飢餓感も、今は鳴りを潜めていた。

あの修道女の魂は、それほどまでに濃厚で、そして「美味」だったということなのだろう。

だが、この充足感も、いつまでも続くわけではない。

いずれ、またあの渇きが俺を襲うだろう。

その時のために、俺は常に次なる「贄」を求めていなければならない。


「カイ様、そろそろよろしいでしょう」

ある朝、アルマが俺の部屋を訪れ、そう告げた。

「魔王軍の拠点での儀式の準備が、全て整いました。今宵、月が最も欠ける刻…それが、決行の時です」

ついに、来たか。

俺の新たな力を、存分に振るう時が。

そして、あわよくば、魔王軍の力を奪い取り、さらに強大な存在へと至る時が。

「ああ、分かった。いつでも行けるぞ」

俺は、口元に獰猛な笑みを浮かべて答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る