第29話

俺は、アルマの制止を振り切り、眼下の崖の上に築かれた魔王軍の砦へと向かって、黒いオーラを微かに纏いながら疾走していた。

砦の城壁の上では、数人の見張り兵がこちらに気づき、慌ただしく動き始めているのが見える。弓を構える者、警鐘を鳴らそうとする者。

だが、遅い。

俺の脚力は、もはや人間のそれを遥かに凌駕している。

あっという間に城壁の真下まで到達すると、俺は躊躇なくその石壁を蹴り上げ、一気に数メートルを跳躍した。

「なっ…!?」

「馬鹿な、壁を登ってきやがった!」

見張り兵たちの驚愕の声が聞こえる。

俺は、城壁の縁に手をかけ、軽々とその上に着地した。

目の前には、呆然と立ち尽くす二人の見張り兵。その腰には剣が差してあるが、抜く間も与えない。

「邪魔だ」

俺は、黒いオーラを纏った拳を振るい、一人を城壁の外へと吹き飛ばし、もう一人を城壁の内側へと叩き落とした。

悲鳴を上げる暇もなかっただろう。


「敵襲! 敵襲ーっ!」

城壁の内側から、他の兵士たちの怒号と、金属のぶつかり合う音が聞こえてくる。

どうやら、俺の侵入に気づき、迎撃態勢に入ったらしい。

面白い。まとめて相手をしてやる。

俺は、城壁から中庭へと飛び降り、そこに集まってきた十数人の兵士たちと対峙した。

そのほとんどが人間兵だが、中には緑色の肌をしたオークや、小柄なゴブリンの姿も混じっている。

魔王軍とは、こういう雑多な連中の集まりなのか。

「貴様、何者だ! 一人で乗り込んでくるとは、命知らずな!」

隊長格らしき、立派な鎧を纏った人間兵が、剣を抜き放ちながら叫んだ。

「俺か? 俺は…お前たちを喰らいに来た者だ」

俺は、口元に歪んだ笑みを浮かべて答えた。

その言葉と、俺から放たれる禍々しい黒いオーラに、兵士たちの顔に恐怖の色が浮かぶ。

「ふざけるな! たった一人で、我々全員を相手にするつもりか!」

「ああ、そうだ。お前たち全員、俺の糧となるがいい」

俺はそう言うと、一番近くにいたオーク目掛けて突進した。


オークは、巨大な斧を振りかぶってくるが、その動きはあまりにも鈍重だ。

俺はそれを軽々とかわし、黒いオーラを凝縮させた右腕で、オークの胸板を貫いた。

「グボアアアッ!?」

オークは短い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。

その心臓を、俺は引きずり出し、そのまま口へと運んだ。

不味い。相変わらず、魔物の肉は不味い。

だが、ほんの僅かだが、力が回復するのを感じる。

人間を喰らった時のような、魂が満たされる感覚はない。だが、この程度の雑魚を相手にするなら、これで十分だろう。

「ひっ…! あいつ、オークを喰ったぞ!」

「化け物だ…! こいつは、ただの人間じゃない!」

兵士たちが、恐怖に顔を引き攣らせながら後退る。

その怯えた表情を見るのは、実に愉快だった。

俺は、彼らにとっての恐怖の象徴。死そのものなのだ。


「さあ、次の饗宴を始めようか」

俺は、血に濡れた唇を舐めずりながら、人間兵の一人に狙いを定めた。

そいつは、恐怖のあまり腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。

哀れな奴だ。だが、俺に慈悲などない。

俺は、その男にゆっくりと近づき、その首筋へと手を伸ばした。

「や、やめろ…! 助け…!」

男の命乞いは、俺の牙によって無残に断ち切られた。

温かい血が、俺の喉を潤していく。

美味い。やはり、人間の血肉は最高だ。

力が、身体の奥底から湧き上がってくる。

黒いオーラが、さらに勢いを増し、俺の全身を覆い尽くす。

これだ。これこそが、俺が求めていたものだ。


「こ、こいつを止めろ! 囲んで殺せ!」

隊長格の男が、必死の形相で叫び、残りの兵士たちに指示を出す。

だが、もはや彼らに、俺を止める術などなかった。

俺は、黒いオーラの力を最大限に解放し、人間兵も魔物兵も関係なく、次々と屠っていく。

剣を振るうたびに、肉を断つ感触と、骨を砕く音が響き渡る。

血飛沫が舞い、悲鳴が上がる。

それは、まさしく地獄絵図だった。

だが、俺の心は、不思議なほどに冷静で、そして高揚していた。

これが、俺の力。俺の存在理由。

俺は、このために生まれてきたのだ。


どれほどの時間が経っただろうか。

気づけば、中庭には俺一人だけが立っていた。

周囲には、おびただしい数の死体が転がり、血の海が広がっている。

俺の身体も、返り血で真っ赤に染まっていた。

だが、疲労感は全くない。むしろ、人間を数人喰らったことで、力はさらに増している。

「ふん、この程度か。歯応えのない奴らだ」

俺は、足元に転がる隊長格の男の亡骸を見下ろし、吐き捨てた。

こいつは、最後まで抵抗したが、結局は俺の敵ではなかった。

俺は、その亡骸にも容赦なく喰らいつき、その生命力を吸い尽くした。


これで、中庭の敵は一掃した。

次は、砦の内部だ。

アルマの言っていた「情報」とやらも気になるが、それ以上に、この砦の中にまだ生き残っている人間がいるのなら、そいつらも喰らい尽くしてやりたい。

俺の飢餓感は、まだ完全には満たされていないのだから。

俺は、砦の奥へと続く扉へと向かった。

扉は、頑丈な鉄でできており、鍵がかかっているようだ。

だが、そんなものは、今の俺にとっては障害にもならない。

俺は、黒いオーラを纏った拳を扉へと叩きつけた。

数発殴りつけただけで、鉄の扉は無残に歪み、蝶番が外れて吹き飛んだ。


砦の内部は、薄暗く、カビ臭い匂いがした。

いくつかの部屋を調べてみたが、めぼしいものは見当たらない。

武器庫らしき場所には、錆びついた剣や槍がいくつかあったが、今の俺には必要ない。

食料庫には、干し肉や硬いパンが山積みになっていたが、これも俺の腹を満たすものではない。

「ちっ、どこに隠れているんだ、人間どもは…」

俺は、苛立ちを隠さずに呟いた。

このままでは、せっかく手に入れたこの力が、宝の持ち腐れになってしまう。


さらに奥へと進むと、地下へと続く階段を見つけた。

そこからは、微かにだが、人間の気配が感じられる。

間違いない。この下に、まだ生き残りがいる。

俺は、口元に歪んだ笑みを浮かべ、その階段をゆっくりと下りていった。

階段の先は、牢獄のようだった。

いくつもの鉄格子が並び、その奥には、薄汚れた姿の人間たちが、怯えた目でこちらを見ている。

その数は、十数人といったところか。男も女も、そして子供の姿も見える。

どうやら、この砦で捕虜として囚われていた者たちらしい。

そして、彼らは皆、俺にとって極上の「食料」に見えた。


「ひっ…! あ、あれは…!?」

「まさか、砦の兵士たちが全滅したというのか…!?」

「助けに…来てくれたのか…?」

牢獄の中の人間たちが、俺の姿を認めてざわめき始める。

その中には、恐怖の色もあれば、僅かな期待の色もある。

愚かな奴らだ。俺が、お前たちを助けに来た救世主だとでも思っているのか。

俺は、お前たちを喰らうために来た、ただの化け物だというのに。

「ああ、助けに来たぞ。お前たちを、この苦しみから解放してやる」

俺は、できるだけ優しい声色を作って言った。

そして、一番近くにあった牢獄の鉄格子を、力任せに引きちぎった。

その圧倒的な力に、牢獄の中の人間たちは、さらに恐怖の表情を浮かべる。


「さあ、出てこい。俺が、お前たちを『楽』にしてやる」

俺は、黒いオーラを全身から立ち昇らせながら、彼らに手を差し伸べた。

その手は、血と肉片で汚れ、およそ救いの手とは呼べない代物だったが。

牢獄の中の人間たちは、もはや抵抗する気力もないのか、あるいは俺の力に完全に屈服したのか、おずおずと牢から出てきた。

そして、俺の前に跪き、命乞いを始める者さえいる。

滑稽な光景だ。

俺は、そんな彼らを冷ややかに見下ろし、そして、一人ずつ、丁寧に喰らい始めた。

悲鳴も、抵抗も、もはや意味をなさない。

彼らは、ただ俺の糧となり、俺の力となるためだけに存在するのだから。


どれほどの数の人間を喰らっただろうか。

気づけば、牢獄の中は、血の海と、そして喰い散らかされた肉片だけが残っていた。

俺の身体は、もはや人間とは呼べないほどの、異様な力で満ち溢れていた。

黒いオーラは、俺の意思とは関係なく、常に全身から噴き出し、周囲の空間を歪ませている。

これが、俺の力。俺の渇望が生み出した、究極の力だ。

満足感と、そしてそれ以上の虚無感が、俺の心を支配していた。

もう、何も感じることはない。ただ、次なる「食料」を求める、本能だけが残っている。

「…アルマの言っていた『情報』とやらは、どこにあるんだ…?」

通路の突き当たりに、一つの小さな木箱が置かれているのが目に入った。

あれが、アルマの言っていた「情報」なのだろうか。

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