第28話
腹の底の飢餓感は、依然として消えてはいない。
どれほどの時間が過ぎたのか、俺の意識は再び深い闇の中からゆっくりと浮上し始めた。
最後に感じたのは、あの首輪――聖遺物だというそれから流れ込んできた、膨大な情報と力、そして魂を揺さぶるような奇妙な感覚だった。
今、俺の身体はどうなっている? あの力は、俺に何をもたらしたというのだ。
重い瞼をこじ開けると、そこは先程までいた闘技場の中央だった。
倒した魔物の亡骸は既に片付けられたのか、どこにも見当たらない。
そして、俺の首には、あの禍々しくも力強い輝きを放っていた首輪が、今はただの黒い鉄の輪のように、しかし確かな存在感を伴って嵌っていた。
「お目覚めになられましたか、カイ様」
静かな声と共に、アルマが俺の顔を覗き込んできた。その後ろには、ゼノンとエリアスの姿も見える。
彼らの表情には、安堵と、そしてそれ以上に強い期待の色が浮かんでいた。
「…俺は、どれくらい眠っていた…?」
声は酷く掠れていた。身体を起こそうとするが、まだ怠さが残っている。
「丸一日、といったところでしょうか。聖遺物との同調には、相当な精神力を消耗されたご様子でしたので」
アルマが淡々と答える。
聖遺物との同調…確かに、あの首輪に触れた瞬間、俺の意識は膨大な情報と力に飲み込まれた。あれが同調というやつか。
「この首輪…これが、聖遺物だというのか?」
俺は、自分の首に嵌った鉄の輪に触れた。何の変哲もないように見えるが、その奥には計り知れない力が秘められているのを感じる。
「はい。それこそが、古の勇者が魔王と戦うために用いたとされる『魂喰らいの首飾り』。所有者の魂を喰らい、それを力へと変える禁断の聖遺物です」
魂を喰らう…? 俺の魂を、か?
「正確には、カイ様の魂そのものを喰らうわけではございません。カイ様が『捕食』された人間の魂…その残滓を効率よく力の源へと変換し、そしてカイ様ご自身の魂と融合させるのです。これにより、カイ様の闇の力はより安定し、そして際限なく増していくことでしょう」
エリアスが、興奮したように説明する。
つまり、この首輪は、俺の「人喰い」の力をさらに効率化し、増幅させるための道具だというのか。
なんという、おぞましい聖遺物だ。
「…飢餓感は、どうだ…?」
俺が最も気になっていたことを尋ねると、アルマは僅かに微笑んだ。
「カイ様ご自身が、一番よくお分かりなのでは? あの闇の精霊の邪気による一時的な抑制とは異なり、聖遺物の力は、カイ様の渇望そのものを力の源流へと繋ぎ変えました。飢餓感が完全に消えることはありません。むしろ、より強大な力を得るためには、より多くの、そしてより質の高い魂が必要となるでしょう。ですが、その渇望は、もはやカイ様を苦しめるものではなく、新たなる力を得るための道標となるはずです」
渇望が、道標…か。
確かに、今の俺は、以前のような狂おしいほどの飢餓感に苛まれてはいない。
腹の底には、常に何かを求めるような疼きはある。だが、それは苦痛ではなく、むしろ…次なる力を求める、ある種の期待感に近いものへと変わっていた。
この首輪が、俺の呪いを祝福へと変えたとでもいうのか?
馬鹿な。そんなはずがない。
これは、俺をさらに深みへと引きずり込むための、甘い罠に過ぎないのかもしれない。
「カイ様、その聖遺物の力を、お試しになられてはいかがですか?」
ゼノンが、促すように言った。
「試す…? どうやって?」
「念じてみてください。カイ様が最も得意とする、あの『黒いオーラ』の力を。聖遺物が、その力を新たな次元へと高めてくれるはずです」
俺は、ゼノンの言葉に従い、意識を集中させた。
身体の奥底に眠る、闇の力を呼び覚ます。
すると、以前とは比較にならないほど容易く、そして強大な黒いオーラが、俺の全身から噴き出した。
それは、もはやオーラというよりも、実体を持った闇の炎のようだ。
そして、その力を、俺は完全にコントロールできている。
腕に集中させれば、鋭利な爪となり、脚に集中させれば、疾風のような速度を生み出す。
剣に纏わせれば、それはあらゆるものを断ち切る暗黒の刃と化すだろう。
「…すごい…これが、俺の本当の力…!」
俺は、自分の両手を見つめ、思わず声を漏らした。
人間を喰らい、闇の精霊の邪気を取り込み、そしてこの聖遺物を手に入れたことで、俺の力は飛躍的に増大していた。
これならば、どんな敵が相手でも…。
「素晴らしいです、カイ様。これぞ、真の勇者の力。闇を統べる者の力です」
アルマが、うっとりとした表情で俺を見つめている。
「この力があれば、魔王討伐も夢ではありますまい。カイ様、我々と共に、この世界に真の黎明をもたらしましょうぞ!」
ゼノンが、高らかに宣言する。
だが、俺の心は、彼らの言葉とは裏腹に、どこか冷え切っていた。
確かに、俺は強大な力を手に入れた。だが、その代償として、俺は人間としての何かを、また一つ失ったような気がする。
この力は、あまりにも強大で、そしてあまりにも甘美だ。
一度この味を知ってしまえば、もう後戻りはできないだろう。
俺は、この闇の力と共に、どこまでも堕ちていくしかないのかもしれない。
「…アルマ。お前たちが言っていた『試練』は、これで終わりなのか?」
俺が尋ねると、アルマは静かに首を横に振った。
「いいえ、カイ様。これは、まだ始まりに過ぎません。聖遺物を手に入れたあなた様には、次なる段階へと進んでいただく必要がございます」
「次の段階…?」
「はい。それは、この力を完全に我が物とし、そして、我々『黎明の使徒』の真の目的を理解していただくためのものです。そのために、カイ様には、ある場所へ向かっていただきます」
ある場所へ…?
「それは、どこだ?」
「魔王軍の支配下にある、とある辺境の砦です。そこには、魔王軍の重要な秘密が隠されていると言われております。そして、そこには…カイ様の飢えを満たすに足る、『贄』もまた、存在するはずです」
アルマの目が、妖しく光った。
魔王軍の砦…そして、贄。
こいつらは、俺に実戦を経験させ、そして同時に「食事」もさせようという魂胆か。
用意周到なことだ。
「…分かった。行こう」
俺は、迷うことなく答えた。
今の俺には、力への渇望と、そしてこの力を試したいという衝動しかない。
魔王軍の秘密などどうでもいい。ただ、そこに俺の飢えを満たすものがあるのなら、行く価値はある。
「カイ様、ご決断、嬉しく思います。では、早速ですが、準備を整えましょう。その砦は、ここから数日の距離にございます」
ゼノンが、手際よく指示を出し始めた。
俺は、そんな彼らを横目で見ながら、自分の首に嵌った「魂喰らいの首飾り」にそっと触れた。
これが、俺の新たな力。そして、俺の新たな呪い。
この首輪がある限り、俺は人間を喰らい続けなければならない。そして、そのたびに、俺の闇の力は増していく。
それは、まるで終わりのない螺旋階段を、ひたすら下り続けていくようなものなのかもしれない。
だが、今はそれでいい。
この力があれば、俺は誰にも負けない。
そう信じて、俺は次なる戦場へと、その足を踏み出す覚悟を決めた。
数日後、俺はアルマと共に、その辺境の砦へと向かっていた。
ゼノンとエリアスは、アジトで後方支援に回るらしい。
道中、アルマは俺に、砦の構造や、そこに駐留している魔王軍の戦力について、詳細な情報を教えてくれた。
どうやら、この砦は魔王軍にとって、それほど重要な拠点ではないらしい。だが、それでも、百を超える兵士と、数体の強力な魔物が配備されているという。
「カイ様、今回の任務の目的は、あくまで砦の深部に隠された『情報』の確保です。無用な戦闘は避け、潜入を主眼としてください」
アルマは、そう忠告したが、俺は鼻で笑った。
「潜入? 馬鹿な。俺のこの力があれば、正面から乗り込んで、奴らを皆殺しにする方が手っ取り早いだろう」
「カイ様、お気持ちは分かりますが、それはあまりにも危険です。いくらあなた様でも、百を超える敵を相手にするのは…」
「案ずるな。俺は、以前の俺ではない。この『魂喰らいの首飾り』と、この黒いオーラがあれば、どんな敵だろうと敵ではない」
俺の言葉には、絶対的な自信が漲っていた。
人間を喰らい、闇の精霊の力を取り込み、そして聖遺物を手に入れた俺は、もはや無敵に近い存在のはずだ。
アルマは、俺のその自信過剰な態度に、僅かに眉をひそめたようだったが、それ以上は何も言わなかった。
彼女もまた、俺のこの新たなる力に、どこか期待しているのかもしれない。
やがて、俺たちの眼下に、その砦が見えてきた。
切り立った崖の上に築かれた、堅牢な石造りの砦だ。
周囲には、見張りの兵士たちが何人も巡回しており、その目は鋭く周囲を警戒している。
確かに、正面から乗り込むのは、骨が折れそうだ。
だが、俺の心は、既に戦いへの期待で高鳴っていた。
この砦の兵士たちを皆殺しにし、その血肉を喰らえば、俺はさらに強くなれる。
そして、その奥にあるという「情報」とやらも、ついでに手に入れてやろう。
「アルマ、お前はここで待っていろ。俺一人で十分だ」
俺はそう言うと、アルマの返事も待たずに、砦へと向かって駆け出した。
黒いオーラが、俺の全身から静かに立ち昇り始める。
さあ、饗宴の始まりだ。
この砦を、俺の血と力で染め上げてやる。
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