第19話
どれほどの時間が経ったのか、泥のように重い意識がゆっくりと覚醒していく。
最初に感じたのは、奇妙な安堵感だった。あれほど俺を苛んでいた飢餓感が、今は嘘のように薄らいでいる。
完全に消えたわけではない。腹の奥底で、まだ微かな疼きは感じる。だが、あの狂おしいほどの渇望は、今は鳴りを潜めていた。
一体、何が起こったんだ…?
俺は、ゆっくりと瞼を開けた。
薄暗い廃墟の教会の中。俺は、あの美しい女神像の足元に横たわっていた。
身体はまだ重いが、ボルグ殿たちと別れた時のような、死を意識するほどの消耗感はない。脇腹の傷も、不思議と痛みが引いている。
「…目が覚めましたか、我が主よ」
静かで、どこか中性的な響きを持つ声が、すぐ近くから聞こえた。
意識を失う直前に聞いた、あの声だ。
俺は、驚いて飛び起きようとしたが、まだ身体に力が入らず、壁に寄りかかるのが精一杯だった。
声のした方へ視線を向けると、そこには一人の人物が立っていた。
年の頃は、俺と同じくらいか、あるいはもう少し若いかもしれない。
長く艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、簡素だが上質な黒衣を纏っている。その顔立ちは中性的で、男とも女とも判別がつかないほどに整っていた。
そして何よりも印象的だったのは、その瞳だ。
深い森の湖面を思わせるような、静かで、そして全てを見透かすような瞳。
その瞳が、今は穏やかな光を湛えて、俺を見つめていた。
「…お前は、誰だ…? なぜ、俺のことを『主』などと呼ぶ?」
俺は、警戒しながら尋ねた。声が酷く掠れている。
「お初にお目にかかります、カイ様。私はアルマと申します。あなた様に仕えるために、長らくこの時を待っておりました」
アルマと名乗った人物は、恭しく片膝をつき、俺に頭を垂れた。
その所作は、洗練されており、ただ者ではないことを窺わせる。
「仕える…? 俺に…? 何かの間違いではないのか。俺は、ただの…」
人喰いだ、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
目の前のこのアルマという人物が、俺の正体を知っているのかどうか、まだ分からない。
「カイ様は、ご自身が何者であるか、まだ完全にはお気づきではないのですね。それも無理からぬこと。そのお力は、あまりにも強大で、そして…あまりにも過酷な宿命を伴うものですから」
アルマは、顔を上げ、静かな瞳で俺を見つめながら言った。
その言葉は、まるで俺の心の奥底まで見透かしているかのようだ。
こいつ、俺の力のことを知っているのか? 俺が人間を喰らうことも?
「…お前は、一体何を知っているんだ? 俺のこの力について…」
「全て、とは申しません。ですが、カイ様がそのお力を覚醒させ、この世界に現れる日を、我々はずっと待ち望んでおりました」
我々…? こいつには、仲間がいるというのか。
「お前たちは、何者なんだ? 何が目的なんだ?」
「我々は、古よりこの世界を見守り続けてきた者たち。そして、カイ様こそが、この破滅に瀕した世界を救う唯一の希望、『真の勇者』であると信じる者たちです」
真の勇者…? 俺が?
冗談ではない。俺は、仲間を喰らい、人間を喰らい、その力で生き永らえているだけの、ただの化け物だ。
そんな俺が、世界を救う勇者だと?
「…馬鹿なことを言うな。俺は、勇者などではない。俺は…」
「カイ様が、ご自身のことをどう思われようと構いません。ですが、そのお力だけは本物です。そして、その力は、正しく導かれ、制御されなければ、世界を救うどころか、さらなる混沌をもたらす危険性をも孕んでいます」
アルマの言葉は、淡々としていたが、その奥には確固たる信念のようなものが感じられた。
「だから、お前たちが俺を導くとでも言うのか?」
「導く、などと大それたことは申しません。ただ、カイ様のお力の一助となり、その宿命を全うするためのお手伝いができればと願っております」
俺は、アルマの言葉を黙って聞いていた。
こいつの言っていることは、にわかには信じがたい。
だが、俺が意識を失っている間に、このアルマが俺に何かをしたことは確かだ。
でなければ、あれほどの飢餓感がここまで薄らぐはずがない。
「…俺が眠っている間に、何かしたのか? この飢餓感は…」
俺が尋ねると、アルマは僅かに微笑んだように見えた。
「カイ様のお身体は、強大な力を宿す代償として、常に生命力を渇望しておいでです。特に、人間由来の生命力を。ですが、それは必ずしも『捕食』という形を取る必要はないのです」
「…どういう意味だ?」
「我々には、カイ様のその渇きを、一時的にではありますが、癒す術がございます。それは、古より伝わる秘術…生命力を分かち合う儀式とでも申しましょうか」
生命力を分かち合う…?
「お前が、俺に生命力を与えたというのか?」
「はい。微力ながら、私の生命力の一部を、カイ様にお分けいたしました。それゆえ、カイ様の飢餓感は、今、一時的に抑えられているはずです」
信じられない話だった。
だが、現に俺の身体は、先程までの狂おしいほどの渇きから解放されている。
こいつの言うことは、本当なのかもしれない。
「だが、それはあくまで一時的なものに過ぎません。カイ様が真の力を発揮し、そしてそのお力を完全に制御するためには、やはり質の高い生命力…つまり、『人間』の生命力を定期的に摂取していただく必要がございます」
アルマは、そこで一旦言葉を切り、俺の反応を窺うように見つめた。
その瞳は、俺が人間を喰らうことを、当然のこととして受け入れているかのようだ。
「…お前は、俺が人間を喰らうことを、何とも思わないのか?」
俺は、思わずそう尋ねていた。
「カイ様がそのお力を維持し、世界を救うという大義を成し遂げるためならば、それは必要な犠牲であると考えます。もちろん、無益な殺戮を推奨するわけではございません。ですが、この世界には、その命をカイ様の力に変えることが、むしろ救済となるような人間も…少なからず存在するのです」
悪人を喰らえ、とでも言いたいのか。
それは、俺自身も考えたことだ。だが、誰がそれを判断する? 俺にか?
俺に、そんな権利があるというのか?
「カイ様、ご安心ください。我々は、カイ様がそのお力を振るう上で、決して道を誤ることのないよう、全力でお支えいたします。どこで、誰の生命力を摂取するべきか。それについても、的確な助言を差し上げることができるでしょう」
アルマの言葉は、まるで悪魔の囁きのようにも聞こえた。
俺が人間を喰らうことを肯定し、それを手助けするとまで言うのだ。
こいつは、一体何を企んでいる?
本当に、俺を勇者として世界を救わせるつもりなのか?
それとも、何か別の、もっと邪悪な目的があるのか?
「…お前の言うことは、まだ信じられない。だが、この飢餓感を一時的にでも癒してくれたことには、感謝する」
俺は、正直な気持ちを伝えた。
「お言葉、恐悦至極に存じます。カイ様、もしよろしければ、しばらく我々と行動を共にしてはいただけないでしょうか? カイ様のお力について、そしてこの世界の真実について、我々がお伝えできることは、まだたくさんございます」
アルマは、再び恭しく頭を垂れた。
その申し出は、俺にとって魅力的ではあった。
この力の謎、そしてこの世界の真実。それを知ることができるのなら…
だが、こいつらを完全に信用していいものか。
もし、こいつらが俺を利用しようとしているだけだとしたら?
俺が返事をためらっていると、アルマは顔を上げ、静かに続けた。
「カイ様。先程、ボルグ殿という方たちの難民団と別れたと伺いました。彼らのことは、お気になさらずとも結構です。彼らは、いずれ安全な場所へとたどり着くでしょう」
なぜ、ボルグ殿のことを知っている? 俺が難民団と一緒だったことも?
こいつ、俺のことをずっと監視していたというのか?
「…どういうことだ?」
「我々は、カイ様が覚醒された時から、ずっとその動向を見守っておりました。カイ様が、いつ我々の存在に気づき、助けを求めてくださるかと」
その言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
俺の行動は、全てこいつらに筒抜けだったというのか。
だとしたら、俺が人間を喰らったことも…
「安心してください、カイ様。我々は、カイ様の全てを受け入れる覚悟ができております。その罪も、その業も、全て含めて、あなた様こそが我らが主、真の勇者であると信じておりますから」
アルマの瞳は、狂信的とも言えるほどの強い光を宿していた。
こいつは、本気で言っている。
俺の全てを、肯定しようとしている。
それは、俺にとって救いになるのか、それとも、さらなる破滅への入り口なのか。
「…分かった。しばらくの間だけだが、お前たちと行動を共にしよう。だが、俺はお前たちの言いなりになるつもりはない。俺自身の目で見て、俺自身の頭で考えて、判断する」
俺は、そう言い放った。
アルマは、満足そうに微笑んだ。
「もちろんです、カイ様。それが、真の勇者たる方の在り方でしょう」
その言葉が、本心からのものなのか、それともただの口先だけのものなのか、俺にはまだ判断がつかなかった。
だが、今はこいつらを利用するしかない。
この力の謎を解き明かし、そして、この飢餓感をコントロールする方法を見つけ出すために。
「では、カイ様。まずは、この廃墟から移動いたしましょう。ここは、あまり長居できる場所ではございません。我々の仲間が、近くで待機しております」
アルマはそう言うと、立ち上がり、俺に手を差し伸べた。
俺は、その手を取らずに、自力で立ち上がる。
身体はまだ重いが、飢餓感が薄らいだおかげで、以前よりはずっと楽に動けた。
「仲間、か…お前たちのような奴が、他にもいるというのか」
「はい。我々は、決して大きな組織ではございません。ですが、皆、カイ様と同じく、この世界を憂い、そして変革を望む者たちです」
変革…それは、一体何を意味するのだろうか。
俺は、一抹の不安を感じながらも、アルマと共に、その廃墟の教会を後にした。
外は、既に夕闇が迫っていた。
アルマは、迷うことなく森の中を進んでいく。俺は、黙ってその後ろをついて行った。
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