第18話

焚き火の炎が、まるで生きているかのように揺らめき、周囲に集う難民たちの顔を不気味に照らし出す。

彼らの話し声や笑い声が、俺の耳にはどこか遠い世界の出来事のように聞こえていた。

俺の意識は、ただ一点に集中していたからだ。

腹が減った。

人間が、喰いたい。

その抗いがたい衝動が、俺の思考を、理性を、そして人間としての心を、内側から喰い破ろうとしていた。


ボルグ殿の気遣いは、もはや俺にとって苦痛でしかなかった。

彼が差し出す干し肉や硬いパンは、俺の口には砂のように味気なく、飲み込むことすら困難だった。

そんな俺の様子を、ボルグ殿や他の者たちも訝しげに見ているのは分かっていた。

「カイ殿、本当に大丈夫か? 顔色が酷く悪いぞ」

何度もそう尋ねられたが、俺はただ「疲れているだけだ」と繰り返すしかなかった。

嘘だ。俺は疲れているのではない。飢えているのだ。

お前たち人間を、喰らいたくて仕方がないのだ、と。

そんな本音を、どうして言えるだろうか。


夜、見張りの任に就いている時が、一番の地獄だった。

静まり返った闇の中、眠っている難民たちの無防備な姿が、俺の目に焼き付いて離れない。

特に、小さな子供たちの寝息を聞いていると、胸が張り裂けそうになる。

この子たちを、俺は「食料」として見ているのか。

その事実に気づくたびに、俺は自分の腕を力任せに掻きむしり、血が滲むほどの痛みで、そのおぞましい衝動を無理やり抑え込もうとした。

だが、そんなものは焼け石に水だ。

飢餓感は、まるで底なし沼のように、俺の全てを引きずり込もうとしていた。

幻覚すら見え始めていた。眠っている難民たちの身体が、美味しそうな肉の塊に見えたり、彼らの血管を流れる血の音が、まるで甘美な音楽のように聞こえてきたりするのだ。

まずい。このままでは、本当に理性の箍が外れてしまう。


「カイ殿、少し話があるんだが、いいだろうか」

ある朝、ボルグ殿が神妙な顔つきで俺に話しかけてきた。

その目には、これまでの親愛の情とは違う、どこか硬い光が宿っている。

「…なんだ、ボルグ殿」

「単刀直入に聞こう。カイ殿、あんたは一体何者なんだ? そして、何を隠している?」

やはり、感づかれていたか。

俺の異様な様子を、彼が見逃すはずがなかったのだ。

「…何のことだか、分からないな」

俺は、しらばっくれて答えた。だが、声が微かに震えているのを自分でも感じた。

「とぼけるな。あんたがこの数日、ほとんど何も口にしていないこと、夜中に奇妙な呻き声を上げていること、そして…時折、俺たちに向けるあの飢えたような目つき。あれが、ただの疲労から来るものだとでも言うのか?」

ボルグ殿の言葉は、的確に俺の核心を突いていた。

もはや、誤魔化しは効かないだろう。


「…そうだ。俺は、普通の人間ではないのかもしれない」

俺は、観念したように呟いた。

「やはり、そうか…。あの『赤霧』と、何か関係があるのか?」

赤霧…またその言葉か。

「…分からない。だが、俺は時折、自分でも抑えきれないほどの、強い渇望に襲われるんだ。何かを…喰らいたいという、抗いがたい衝動に」

俺は、人間を喰らうことだけは伏せて、そう説明した。

ボルグ殿は、難しい顔で腕を組み、しばらく黙り込んでいた。

周囲にいた他の難民たちも、不安そうな目で俺たちを見守っている。

「…カイ殿。あんたがどんな事情を抱えているのかは知らん。だが、このままあんたを我々の仲間として受け入れ続けるのは、危険かもしれん」

その言葉は、俺にとって死刑宣告にも等しかった。

この集団から追い出されれば、俺は再び孤独な狩りを始めなければならない。

そして、次に遭遇する人間を、見境なく襲ってしまうかもしれないのだ。


「ボルグ殿、頼む! 俺を追い出さないでくれ! 俺は、決してあんたたちに危害を加えたりはしない! ただ…ただ、もう少しだけ、ここにいさせてほしいんだ!」

俺は、必死の形相で懇願した。

その姿は、哀れな獣のようだったかもしれない。

ボルグ殿は、俺の目を見つめ、深くため息をついた。

「…分かった。だが、条件がある。あんたのその『渇望』が、俺たち自身に向けられるようなことがあれば、その時は…容赦しない」

その言葉には、リーダーとしての強い決意が込められていた。

「…感謝する、ボルグ殿。約束しよう。決して、あんたたちを裏切るようなことはしない」

俺は、心にもない誓いを立てた。

今の俺に、そんな約束を守れる自信など、どこにもなかったというのに。


だが、ボルグ殿の温情も、長くは続かなかった。

その日の夕暮れ時、俺たちは小さな森の中で野営の準備をしていた。

俺は、薪を集めるために一人で森の奥へと入っていったのだが、そこで、運悪く一匹のはぐれゴブリンと遭遇してしまったのだ。

飢餓感がピークに達していた俺は、もはや理性を保つことができなかった。

ゴブリンに飛びかかり、その場で喰らい尽くしてしまったのだ。

魔物の肉では、俺の渇きは癒えないと分かっていた。だが、それでも、何かを口にしなければ、気が狂いそうだった。

そして、その一部始終を、薪拾いに来ていた難民の子供に見られてしまったのだ。


子供は、恐怖のあまり声も出せずにその場にへたり込み、やがて甲高い悲鳴を上げて逃げ帰った。

まずい。

俺は慌てて後を追ったが、既に手遅れだった。

子供から事情を聞いたボルグ殿や他の護衛たちが、血相を変えて俺の元へ駆けつけてきた。

彼らの手には、剣や槍が握られている。

その目は、もはや俺を仲間としてではなく、討伐すべき「化け物」として見ていた。

「カイ殿…いや、化け物め! やはり、あんたは普通の人間ではなかったのだな!」

ボルグ殿が、怒りと失望に満ちた声で叫んだ。

「子供が、全て見たぞ! あんたが、ゴブリンを生きたまま喰らうところを!」

「…違うんだ、ボルグ殿! あれは…!」

俺は、何とか弁解しようとしたが、言葉が出てこない。

ゴブリンを喰らったのは事実だ。それを、どう言い繕えというのか。


「問答無用! こいつを殺せ! こいつは、俺たちの敵だ!」

護衛の一人が叫び、俺に斬りかかってきた。

俺は、咄嗟にそれを避ける。

「待ってくれ! 話を聞いてくれ!」

「化け物の言うことなど、聞く耳持たん!」

次々と、護衛たちが俺に襲いかかってくる。

彼らの動きは、素人同然だ。今の俺の力なら、簡単に捻り潰すことができる。

だが、俺は彼らに反撃することができなかった。

彼らは、ついさっきまで俺を仲間と呼んでくれた人たちなのだ。

その人たちに、どうして剣を向けられるというのか。


「ぐあっ!」

一瞬の躊躇が、命取りになった。

護衛の一人が振るった槍が、俺の脇腹を浅く裂いた。

痛みと同時に、俺の中で何かがプツリと切れる音がした。

飢餓感。怒り。そして、絶望。

それらが混ざり合い、俺の意識を黒く染め上げていく。

「ああ…もう、どうでもいい…」

俺の口から、そんな言葉が漏れた。

もう、人間でいることにも疲れた。

この渇きから解放されるのなら、いっそ化け物になってしまった方が楽なのかもしれない。


俺の身体から、再びあの黒いオーラが立ち昇り始めた。

周囲の空気が、ビリビリと震える。

「な…なんだ、この力は…!?」

「ひっ…! やはり、こいつは化け物だ!」

護衛たちは、俺の異様な変化に怯み、後退る。

その姿は、まるで風の前の灯火のように、頼りなく見えた。

「ボルグ殿…あんたたちには、世話になったな…」

俺は、低い声で呟いた。

「だが、俺はもう、あんたたちの仲間ではいられないようだ」

そう言うと、俺は黒いオーラを纏ったまま、彼らに背を向けた。

そして、森の奥深くへと、姿を消した。

背後から、ボルグ殿の叫び声が聞こえたような気がしたが、俺はもう振り返らなかった。


再び、一人になった。

いや、最初から、俺はずっと一人だったのかもしれない。

人間を喰らうことでしか生きられない俺は、決して誰かと共に生きることなどできないのだ。

その事実を、改めて突きつけられたような気がした。

黒いオーラは、いつの間にか消えていた。

身体は酷く消耗し、脇腹の傷口からは、まだ血が流れ続けている。

そして、飢餓感は、ゴブリンを喰らったにもかかわらず、少しも和らいではいなかった。

むしろ、戦闘で力を使い果たしたせいで、さらに強まっているような気さえする。

俺は、ふらつきながら森の中を彷徨い続けた。

どこへ行くという当てもない。

ただ、この渇きを癒せる「食料」を求めて。

そして、俺自身の存在理由を求めて。


どれほどの時間、歩いただろうか。

やがて、俺は小さな廃墟の前にたどり着いた。

かつては教会だったのだろうか。石造りの壁は所々崩れ落ち、ステンドグラスは割れ、蔦が絡みついている。

だが、不思議と、ここには魔物の気配がしなかった。

何か、特殊な結界でも張られているのだろうか。

俺は、吸い寄せられるように、その廃墟の中へと足を踏み入れた。

中は、薄暗く、埃っぽい匂いがした。

祭壇は崩れ落ち、長椅子は腐りかけている。

だが、その中央に、一体だけ、傷一つない美しい女神像が立っていた。

その女神像は、まるで生きているかのように、慈愛に満ちた表情で俺を見下ろしている。

その瞳に見つめられていると、俺のささくれだった心が、ほんの少しだけ安らぐような気がした。


俺は、その女神像の足元に、力なく崩れ落ちた。

もう、一歩も動けない。

飢餓感と疲労感で、意識が遠のいていく。

このまま、ここで死ぬのだろうか。

それも、悪くないかもしれない。

こんな化け物として生き続けるよりは、ずっとマシだ。

ロナ…リリ…すまない…

俺は、心の中でそう呟き、ゆっくりと目を閉じた。

だが、完全に意識が途絶える寸前、俺の耳に、微かな声が聞こえたような気がした。

それは、男の声でも女の声でもない、もっと中性的な、そしてどこか懐かしいような響きを持つ声だった。

『…ようやく、見つけましたよ…我らが主…』

主…? 何のことだ…?

その声を最後に、俺の意識は、完全に闇の中へと沈んでいった。

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