第20話
アルマに導かれるまま、俺は暗い森の奥深くへと足を踏み入れていた。
先程アルマから分け与えられたという生命力のおかげか、あれほど激しかった飢餓感は、今は腹の底で微かに燻る程度にまで落ち着いている。だが、これが一時的なものに過ぎないことは、俺自身が一番よく分かっていた。
このアルマという人物、そしてその「我々」とやらが、俺のこの呪われた渇きを本当に満たしてくれるというのだろうか。
それとも、これは新たな罠なのか。
「カイ様、もう間もなく到着いたします。我らが仲間たちが、あなた様をお待ち申し上げております」
先導するアルマが、静かに振り返って言った。その表情からは、何の感情も読み取れない。
「お前たちの仲間…か。一体、どんな奴らなんだ?」
俺の問いに、アルマは僅かに口元を緩めたように見えた。
「カイ様と同じく、この世界の現状を憂い、真の変革を望む者たち。そして何よりも、カイ様こそがその変革を成し遂げる唯一の存在であると信じる者たちです」
相変わらず、大仰な物言いだ。
俺が真の勇者? 世界の変革? そんなものが、人間を喰らわなければ生きていけない俺にできるとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。だが、今はこいつらの言うことを聞いてみるしかない。
この力の謎を解き明かす手がかりが、そこにあるかもしれないのだから。
やがて、森の木々が途切れ、少し開けた場所に出た。
そこには、数軒の粗末な小屋が寄り添うように建っており、中央には大きな焚き火が燃えている。
いくつかの人影が、焚き火の周りで動いているのが見えた。
ここが、奴らのアジトか。
俺たちが近づくと、小屋の影から二人の男が姿を現した。
一人は、熊のように大柄な、歴戦の戦士といった風貌の男。もう一人は、細身で眼鏡をかけた、学者風の男だ。
二人とも、俺の姿を認めると、驚いたような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情を浮かべた。
「アルマ、戻ったか。して、そちらの方が…?」
大柄な男が、低い声でアルマに尋ねる。その視線は、鋭く俺を射抜いていた。
「はい、ゼノン様。こちらが、我らが待ち望んだカイ様です」
アルマが恭しく答えると、ゼノンと呼ばれた大柄な男は、俺の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「カイ様、ようこそお越しくださいました。私はゼノン。この者たちのまとめ役を仰せつかっております」
その隣で、学者風の男も慌てたように頭を下げる。
「私はエリアスと申します。カイ様にお会いできて、光栄の至りです」
その対応は、アルマと同じようにどこか芝居がかって見えたが、彼らの目には嘘偽りのない敬意のようなものが宿っているようにも感じられた。
「…顔を上げてくれ。俺は、そんな風に傅かれるような人間じゃない」
俺の言葉に、ゼノンとエリアスは顔を見合わせたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「カイ様は、ご謙遜なさる。ですが、我々にとって、あなた様はまさに救世主なのです」
ゼノンが、熱のこもった声で言う。
「救世主、ねえ…俺が、人間を喰らう化け物だと知っても、同じことが言えるのか?」
俺は、試すようにそう言ってみた。
その言葉に、ゼノンとエリアスの顔に緊張が走る。
アルマだけは、表情を変えずに静かに佇んでいた。
「…アルマから、カイ様のお力の源泉については、ある程度伺っております」
ゼノンは、慎重に言葉を選びながら答えた。
「それが、カイ様がお選びになった道ではないことも、そして、そのお力に伴う苦悩も、我々は理解しているつもりです。ですが、それでもなお、我々はカイ様を信じております。そのお力こそが、この腐りきった世界を浄化し、新たな時代を築くための鍵となると」
腐りきった世界を浄化…? 大袈裟な言い草だ。
こいつらは、一体何を考えているんだ。
「まあ、立ち話もなんです。どうぞ、こちらへ。ささやかながら、歓迎の準備を整えさせていただきました」
エリアスが、人の良さそうな笑みを浮かべて、俺たちを一番大きな小屋へと案内した。
小屋の中は、質素だが清潔に保たれており、中央には粗末なテーブルと椅子が置かれている。
テーブルの上には、パンと干し肉、そして果物のようなものが並べられていた。
人間の食べ物だ。今の俺には、ほとんど意味のないものだが。
「カイ様、長旅でお疲れでしょう。まずは、お食事でも」
ゼノンが勧めてくるが、俺は首を横に振った。
「いや、結構だ。それよりも、お前たちの話を聞かせてもらいたい。お前たちは一体何者で、俺に何をさせようとしているんだ?」
俺の単刀直入な問いに、ゼノンとエリアスは再び顔を見合わせ、そしてアルマの方へと視線を送った。
アルマは、静かに頷いた。
「…分かりました。では、我々のことからお話しいたしましょう」
ゼノンは、ゆっくりと口を開いた。
「我々は、『黎明の使徒』と名乗る者たちです。かつて、この世界がまだ光に満ちていた時代…人々は神々の恩寵を受け、平和に暮らしておりました。しかし、ある時、突如として現れた魔王とその軍勢によって、世界は闇に覆われ、人々は絶望の淵へと突き落とされたのです」
よくある英雄譚の始まりのような話だ。だが、こいつらの口から語られると、妙な現実味を帯びて聞こえる。
「多くの勇者たちが魔王に立ち向かいましたが、その尽くが敗れ去りました。世界は、もはや救いようのない状況に陥ったかのように見えました。しかし、古より伝わる一つの預言が、我々に希望を与えてくれたのです」
預言…? それは、俺のことか?
「その預言とは、『闇が世界を覆い尽くさんとする時、古の血を引く真の勇者が現れ、禁断の力をその身に宿し、世界に再び黎明をもたらすであろう』というものです」
禁断の力…それは、間違いなく俺のこの「人喰い」の力を指しているのだろう。
「我々は、その預言を信じ、何世代にもわたって真の勇者の出現を待ち続けてきました。そして、ついにあなた様が、カイ様が、そのお力を覚醒されたのです」
ゼノンの目は、狂信的な輝きを放っていた。
こいつら、本気で俺を預言の勇者だと信じ込んでいるのか。
「…だとしても、俺に何ができる? 俺は、ただ人間を喰らうことでしか力を得られない、呪われた存在だぞ」
「いいえ、カイ様。それは呪いではございません。それは、選ばれた者だけが扱える、聖なる力なのです。確かに、その力の源泉は特異なものかもしれません。ですが、その力をもってすれば、魔王を討ち滅ぼし、この世界を救うことなど、造作もないはずです」
エリアスが、興奮したように早口でまくし立てる。
こいつらの話は、どこか現実離れしていて、ついていけない。
だが、彼らが俺に何かを期待していることだけは、確かだった。
「カイ様。我々は、あなた様がそのお力を最大限に発揮できるよう、全力で支援させていただきます。食料の調達はもちろんのこと、力の制御方法や、この世界の成り立ちに関する知識など、我々が持つ全てを提供いたしましょう」
ゼノンが、力強く言った。
食料の調達…それはつまり、俺のために人間を用意するとでも言うのか?
「お前たち…本気で言っているのか? 俺に、人間を喰らえと?」
「必要とあらば。カイ様、先程アルマも申しましたが、この世界には、その命をカイ様の力に変えることが、むしろ救済となるような人間も存在するのです。我々は、そのような『贄』を、あなた様のために見つけ出してご覧にいれましょう」
その言葉は、あまりにもあっさりと、そして冷酷に言い放たれた。
こいつらは、人間の命を何だと思っているんだ。
たとえ悪人だとしても、それを俺が喰らうことを、まるで当然のことのように。
俺の中で、何かが静かに怒りの炎を燃やし始めていた。
こいつらは、俺を自分たちの都合のいい道具として利用しようとしているだけではないのか。
世界を救うという大義名分を掲げて、俺に汚れ仕事をさせようとしているだけなのではないか。
「…断る」
俺は、低い声で言った。
「え…?」
ゼノンとエリアスが、意外そうな顔で俺を見る。
「俺は、お前たちの言いなりになるつもりはない。誰を喰らうか、喰らわないかは、俺自身が決める。お前たちに指図される筋合いはない」
「カイ様、それは…」
「それに、俺はまだお前たちを信用したわけじゃない。お前たちの言う『預言』とやらも、俺にはどうでもいいことだ。俺は、俺のやり方で、この力を理解し、そして使う」
俺の言葉に、小屋の中の空気が凍りついたように張り詰める。
アルマだけは、相変わらず無表情で俺を見つめていた。
「…カイ様の、お考えは分かりました」
しばらくの沈黙の後、ゼノンが重々しく口を開いた。
「ですが、カイ様。このままでは、あなた様ご自身が、その強大すぎる力に飲み込まれてしまうやもしれませんぞ。そして、飢餓に苦しみ、いずれは理性を失い、見境なく人間を襲うようになるやもしれぬ。そうなれば、あなた様は勇者ではなく、それこそ新たな災厄となり果てましょう」
その言葉は、図星だった。
俺自身、その恐怖と常に戦っているのだから。
「それでも、俺は誰にも利用されたくはない。俺の力は、俺だけのものだ」
「…よろしいでしょう。ならば、カイ様。一つ、試してみませんか?」
不意に、アルマが口を開いた。その声は、相変わらず静かだったが、どこか有無を言わせぬ響きがあった。
「試す…?何をだ?」
「カイ様の、その『黒いオーラ』と『温かい光』。それらの力の制御を。我々ならば、そのお手伝いができるかもしれません」
黒いオーラと、温かい光…こいつら、やはりあの力のことまで知っているのか。
「そして、もしカイ様がそれらの力をある程度制御できるようになった暁には…我々が用意した『試練』に挑んでいただきたいのです」
試練?
「その試練を乗り越えることができたなら、カイ様はご自身の力について、そして我々『黎明の使徒』について、より深くご理解いただけることでしょう。そして、その上で、我々と共に行く道をお選びになるかどうか、改めてご判断いただければと」
アルマの提案は、どこか挑発的でもあった。
俺の力を試す、とでも言うのか。
俺は、しばらくアルマの顔をじっと見つめていた。
こいつの真意は読めない。だが、このままこいつらと袂を分かっても、俺の状況が好転するとは思えなかった。
この力の謎、そして飢餓感の苦しみ。それらを解決する手がかりが、こいつらの元にあるのかもしれない。
利用されるのは癪だが、今はこいつらの提案に乗ってみるしかないのかもしれない。
「…いいだろう。その試練とやら、受けてやる。だが、もしお前たちが俺を騙そうとしたり、俺の意にそぐわないことを強要したりするようなら…その時は、容赦しないぞ」
俺は、アルマの目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
アルマは、初めて満足そうな笑みを浮かべた。
「望むところです、カイ様。では、早速ですが、力の制御の第一歩を始めましょうか。まずは、あの『黒いオーラ』…あれは、カイ様の怒りや憎しみといった負の感情に呼応して発現する力のようですが、それだけではないはずです。その力の根源には、もっと純粋な何かが…」
アルマが、何やら意味深なことを言いかけた、その時だった。
小屋の外から、けたたましい警戒の鐘の音と、男たちの怒号が響き渡ってきたのだ。
「何事だ!?」
ゼノンが、鋭い声で叫ぶ。
すぐに、小屋の扉が勢いよく開かれ、血相を変えた見張りの男が駆け込んできた。
「大変です、ゼノン様! 魔物が…! 大量の魔物が、こちらへ向かってきています!」
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