第15話
村の門を後にしてから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
朝日が昇り、昼になり、そしてまた陽が傾き始めている。俺はただ、当てもなく荒野を歩き続けていた。
リリを残してきた村のことは、もう考えないようにしていた。考えれば、胸が張り裂けそうになるからだ。
あの温かいゴードンさんの手、村長の冷徹だがどこか道理の通った言葉、そして何よりも、リリの無邪気な笑顔。
それら全てを振り切るように、俺は足を前に進める。
孤独だった。戦場で仲間を失った時とはまた違う、もっと根源的で、そして救いのない孤独感が、俺の全身を包み込んでいた。
墓場で喰らった死肉の効果は、とっくに切れていた。
再び、あの忌まわしい飢餓感が、腹の底から鎌首をもたげ始めている。
それは、まるで俺の内側から肉体を喰い破ろうとするような、暴力的な渇きだ。
道中、何度か魔狼の群れや、はぐれたゴブリンに遭遇したが、今の俺にとってそれらはもはや敵ではなかった。
むしろ、ほんの僅かな気休めにしかならないと分かっていながらも、その肉を貪り喰らった。
やはり、魔物の肉では駄目だ。
一時的に腹は満たされるが、魂の渇きは少しも癒えない。
むしろ、その不味さと効果の薄さが、より一層「人間」への渇望を強める結果にしかならなかった。
レベルアップなど、当然起こるはずもない。
この身体は、呪われた聖杯のように、人間の生命力だけを求め続けているのだ。
日が暮れかかり、空が茜色に染まる頃、俺は小さな丘の上から、遠くに焚き火の光を認めた。
こんな荒野の真ん中で火を焚くなど、不用心な奴らだ。
だが、今の俺にとっては、それが何であろうと関係ない。
そこに人間がいるのなら…それが、俺の「食料」になるのなら。
俺の足は、自然とそちらへ向かっていた。
リリのことを考えろ。ロナのことを思い出せ。
そう頭の中で誰かが叫んでいるが、飢餓に狂った獣の本能が、その声を容易くかき消していく。
もう、善悪の判断など、どうでもよくなっていたのかもしれない。
ただ、この苦しみから解放されたい。その一心だった。
焚き火に近づくと、そこにいたのは三人の男たちだった。
身なりは粗末で、顔つきも荒んでいる。どうやら、どこぞの盗賊崩れか、あるいは落ち武者の類か。
彼らは、俺の姿を認めると、一斉に武器を手に取り、警戒の声を上げた。
「おい、てめえ、何者だ!?」
一番大柄な、頭に傷のある男がドスの利いた声で尋ねてくる。
「…ただの通りすがりだ。火にあたらせてもらえないか」
俺は、できるだけ弱々しい声で答えた。油断させるためだ。
「ふん、こんな夜更けに一人でうろついてるたあ、怪しい野郎だな」
傷の男の隣にいた、痩せた男が吐き捨てるように言った。
「まあ待て。見たところ、こいつぁ大した獲物も持ってなさそうだ。追い払うのも面倒だぜ」
もう一人の、比較的小柄な男が、面倒臭そうに言った。
どうやら、俺を脅威とは感じていないらしい。好都合だ。
「…食い物を、少し分けてもらえないだろうか。もう何日も、まともなものを口にしていないんだ」
俺は、さらに哀れな声色を作って懇願した。
もちろん、嘘だ。数時間前にはゴブリンの肉を喰らっている。
だが、彼らにとって、俺が飢えた弱者であると思わせることは重要だった。
「食い物だあ? てめえにやるもんなんかねえよ!」
ザギ…いや、こいつはザギではない。だが、似たような雰囲気の傷の男が、再び威嚇してくる。
「まあまあ、そう邪険にするな。こいつに食わせるほどの余裕はねえが、火くらいは貸してやるぜ」
意外にも、リーダー格と思しき傷の男がそう言った。
その目には、どこか値踏みするような光が宿っている。こいつ、何か企んでいるのか?
あるいは、俺が本当に無害だと判断したのか。
「…ありがたい」
俺は礼を述べ、彼らの焚き火へと近づいた。
男たちは、俺を完全に無視するわけでもなく、かといって積極的に関わろうとするわけでもない。
ただ、時折、盗み見るような視線を俺に向けてくるだけだ。
俺は、焚き火の暖かさに身を寄せながら、彼らの様子を注意深く観察する。
こいつらを、どうやって喰らうか。
三人を同時に相手にするのは、いくら今の俺でも骨が折れるかもしれない。
一人ずつ、確実に仕留めていくのが上策だろう。
そのためには、まず彼らの警戒心を完全に解き、油断させる必要がある。
「あんた、どこから来たんだ? 見かけねえ顔だが」
しばらくして、傷の男が話しかけてきた。
「…西の方の村からだ。魔物に襲われて、命からがら逃げてきた」
これも、半分は本当だ。
「ほう、魔物にか。そりゃあ、災難だったな。この辺りも、最近は物騒でいけねえ」
「ああ…本当に、酷い目に遭った」
俺は、わざとらしく溜息をついてみせる。
「仲間も、家族も、みんな殺されてしまってな…俺一人だけが、生き残ったんだ」
その言葉に嘘はない。ロナも、そして俺がかつて所属していた傭兵団の仲間たちも、もうこの世にはいないのだから。
俺の悲痛な表情と言葉に、男たちの警戒心も少しは薄れたようだった。
特に、小柄な男は、どこか同情するような目で俺を見ている。
こいつが、最初の「食料」か。
「なあ、あんた。そんなに腹が減ってるんなら、これを食うか?」
不意に、小柄な男が懐から干し肉を取り出し、俺に差し出してきた。
「いいのか…?」
「ああ、俺はもう腹一杯なんでな。残しといても、腐らせるだけだ」
その言葉は、純粋な親切心から出たもののように聞こえた。
俺は、一瞬ためらった。
この男は、俺に食料を恵んでくれようとしている。そんな相手を、俺は喰らおうとしているのだ。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
まだ、俺の中にも、人間としての良心が残っているというのか。
馬鹿な。そんなものは、ロナを喰らった時に、とっくに捨てたはずだ。
「…ありがたく、いただく」
俺は、干し肉を受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
味は、普通の干し肉だ。だが、今の俺にとっては、どんなご馳走よりも価値があるように感じられた。
この男の、僅かな優しさが、俺の飢えきった心に染み渡る。
駄目だ。こんな感情に流されては。
こいつらも、所詮は盗賊崩れか何かなのだろう。そうでなければ、こんな荒野で平然と野営などしているはずがない。
そうだ、こいつらは悪人だ。悪人ならば、喰ってもいい。
そうだろう? リリを守るためにも、俺は強くならなければならないのだから。
そのためには、こいつらの命が必要なのだ。
俺は、干し肉を味わうようにゆっくりと食べながら、心の中で葛藤していた。
この男を喰らうべきか、否か。
もし見逃せば、俺の飢餓感はさらに増し、いずれ理性を失うだろう。
そうなれば、次に遭遇する人間を、善悪の区別なく襲ってしまうかもしれない。
それならば、ここで、この「悪人かもしれない」男を喰らう方が、まだマシなのではないか。
これは、必要悪なのだ。
俺は、自分にそう言い聞かせた。
「どうだ、少しは腹の足しになったか?」
小柄な男が、親しげに話しかけてくる。
「ああ…おかげで、少し楽になった。本当に、ありがとう」
俺は、礼を言いながら、心の中で冷たく計算していた。
こいつをどうやって仕留めるか。他の二人に気づかれずに。
一番いいのは、こいつが一人で用を足しにでも立った時だ。
その機会を、辛抱強く待つしかない。
しばらく、焚き火を囲んで他愛のない話が続いた。
男たちは、自分たちの武勇伝や、手に入れた獲物のことなどを自慢げに語っている。
その話を聞いているうちに、俺の確信は深まった。
やはり、こいつらはただの盗賊だ。それも、あまり質の良くない。
これならば、喰らっても罪悪感は少なくて済むだろう。
いや、そもそも、俺に罪悪感など感じる資格があるのか?
俺は、既に何人も人間を喰らっているのだ。
今更、一人や二人増えたところで、何も変わらない。
やがて、小柄な男が立ち上がった。
「ちょっと、小便に行ってくらあ」
来た。チャンスだ。
俺は、平静を装いながら、その男が茂みの奥へと消えていくのを見送った。
「おい、カイといったか。お前さんも、あまり無理するなよ。ゆっくり休んでいけ」
傷の男が、そう声をかけてきた。どうやら、俺の演技に完全に騙されているらしい。
「ああ…そうさせてもらう」
俺はそう言うと、わざと大きな欠伸をして見せ、横になるふりをした。
そして、他の二人が完全に油断したのを見計らい、音もなく立ち上がり、小柄な男が消えた茂みの方へと向かった。
茂みの奥へ入ると、すぐに男の姿が見つかった。
彼は、こちらに背を向けて用を足している。無防備そのものだ。
俺は、息を殺し、抜き足差し足で近づいていく。
そして、男がズボンを上げようとした瞬間、背後からその口を塞ぎ、首筋へと牙を立てた。
「んぐ…っ!」
男は、短い抵抗を見せたが、すぐにぐったりと力を失った。
温かい血が、俺の口の中に流れ込んでくる。
美味い。
やはり、人間の血肉は、どんな魔物の肉よりも美味く、そして力になる。
俺は、夢中でその男の生命力を貪った。
力が、身体の奥底から湧き上がってくる。
飢餓感が、急速に癒えていく。
これだ。これこそが、俺が求めていたものだ。
男を喰らい終え、俺は口の周りについた血を拭った。
満足感と同時に、僅かな罪悪感が胸をよぎる。
だが、それもすぐに、得られた力への高揚感によってかき消された。
俺は、また一つ強くなった。これで、リリをより確実に守れる。魔王へも一歩近づいた。
それでいいじゃないか。
俺は、自分にそう言い聞かせた。
さて、残りは二人だ。
彼らは、仲間が戻ってこないことを不審に思うだろうか。
それとも、俺が何かしたと気づくだろうか。
どちらにしても、悠長に構えている時間はない。
俺は、茂みから出て、再び焚き火の場所へと戻った。
傷の男と痩せた男は、まだ何事もなかったかのように話し込んでいる。
俺の姿を認めると、傷の男が尋ねてきた。
「おい、タゴはどこへ行った? 一緒じゃなかったのか?」
タゴ、というのが、あの小柄な男の名前らしい。
「いや…俺が見た時には、もういなかった。どこかへ行ったんじゃないか?」
俺は、しらばっくれて答えた。
「ちっ、あいつ、いつも勝手なことばかりしやがって…」
傷の男は、忌々しげに舌打ちをする。
どうやら、俺の言葉を疑ってはいないようだ。
「まあ、放っておけ。そのうち戻ってくるだろう」
痩せた男が、気のないように言った。
俺は、内心でほくそ笑みながら、再び焚き火の傍に座る。
あとは、こいつらが眠りにつくのを待つだけだ。
そして、一人ずつ、確実に処理する。
そうすれば、俺はさらに強大な力を手に入れられる。
その力があれば、どんな敵が相手でも、恐れることはないだろう。
俺の心は、既に次なる「食事」への期待で満たされていた。
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