第14話

木の枝を再び握りしめ、俺は目の前の土饅頭へと向き直った。

村長の冷ややかな視線は感じなかったが、まるで彼の存在そのものが、俺の罪を見張る監視者のように、この場に重くのしかかっているかのようだ。

ザク、ザク…乾いた土を掘り返す音だけが、しんとした墓地に響く。

もう、何の感情も湧いてこなかった。悲しみも、怒りも、罪悪感すらも、強烈すぎる飢餓感の前では色褪せてしまう。

ただ、早くこの渇きから解放されたい。その一心だけが、俺を突き動かしていた。


やがて、木の枝が硬いものに当たった。棺桶の蓋だ。

俺は、もはや何の躊躇もなく、その蓋を力任せにこじ開けた。

ギシリ、という不快な音と共に、中から腐敗臭が鼻を突く。

そして、その中には…かつて人間だったものが横たわっていた。

肌は土気色に変色し、目鼻立ちは崩れ、およそ生前の面影はない。

これが、ゴブリンの犠牲となった村人の、哀れな末路。

そして、これが、俺の今夜の「食事」。


俺は、その亡骸に手を伸ばし、まだ肉の残っていそうな部分を引き裂いた。

その感触は、生きている人間とは全く違う。冷たく、硬く、そして何よりも…不快だ。

それでも、俺はそれを口へと運んだ。

噛み締める。腐敗した肉の、形容しがたい味が口の中に広がる。

吐きそうだ。本能が、これを食べることを拒絶している。

だが、俺は無理やりそれを飲み下した。

腹の底で、何かが蠢くような感覚。

それは、生命力が満たされるというよりも、何か異物を無理やり詰め込んだような、重苦しい不快感だった。


それでも、俺は喰らい続けた。

一口、また一口と、その死肉を腹に収めていく。

味など、もはやどうでもよかった。ただ、この飢餓感を少しでも紛らわせることができれば、それでいい。

どれほどの量を喰らっただろうか。

ようやく、あの狂おしいほどの飢餓感が、ほんの少しだけ…本当に、ほんの少しだけ和らいだような気がした。

だが、ロナを喰らった時や、あの三人の男たちを喰らった時のような、魂が満たされるような感覚も、力が漲ってくるような感覚も、全くない。

ただ、胃の中に重い塊ができたような、不快な満腹感があるだけだ。

やはり、死肉では駄目なのか。

いや、それ以前に、これは「人間」ではあったが、もはや「生命力」と呼べるようなものはほとんど残っていなかったのかもしれない。

これでは、レベルアップなど望むべくもない。

ただ、飢えを僅かに凌いだだけ。その程度の効果しかない。

そして、その代償として、俺はまた一つ、人間としての境界線を越えてしまった。


俺は、汚れた口元を手の甲で拭い、ふらつきながら立ち上がった。

気分が悪い。吐き気がする。

だが、それ以上に、自分の犯した行為に対する自己嫌悪が、全身を苛んでいた。

俺は、本当に救いようのない化け物になってしまった。

もう、後戻りはできない。


村長の家へと向かう足取りは、鉛のように重かった。

家の前まで来ると、中から村長の静かな声が聞こえてきた。

「…入るがよい」

どうやら、俺が来たことに気づいていたらしい。

俺は、深呼吸を一つして、意を決して戸を開けた。


家の中は、薄暗いランプの明かりだけが揺らめいていた。

村長は、囲炉裏の傍に座り、静かに俺を見据えている。その目には、何の感情も浮かんでいない。

「…済ませてきたか」

「……ああ」

俺は、短く答えるしかなかった。

「そうか。では、約束通り、話してもらおうか。カイ殿、あんたは一体何者だ? あの力は、どこで手に入れた?」

村長の問いは、単刀直入だった。

俺は、どこまで話すべきか、一瞬迷った。

全てを正直に話せば、この男は俺をどうするだろうか。

恐怖し、排除しようとするか。それとも、何か別の反応を見せるか。

だが、隠したところで、いずれはバレることだ。それに、この男には何か、ただの村長ではないような、底知れない雰囲気がある。

もしかしたら、俺のこの力について、何か知っているのかもしれない。


「…俺は、元はしがない傭兵だった。それが、先の戦で瀕死の重傷を負い…死の淵を彷徨った時、この力に目覚めた」

俺は、ロナを喰らったことだけは伏せて、そう説明した。

「力に目覚めた、とな。それは、勇者の力とでもいうのかね?」

「…そう呼ばれているらしい。だが、俺にはまだ、それが何なのかよく分かっていない」

「ふむ…勇者の力、か。古の伝承には聞くが、実際に見たのは初めてじゃ」

村長は、顎に手をやり、何かを考え込んでいるようだった。

「あの、ゴブリンどもをいとも簡単に屠った力…そして、火球を防いだあの光。あれも、勇者の力の一部なのかね?」

「…おそらくは。だが、俺自身、まだ完全にコントロールできているわけではない。それに、使うたびに、激しい消耗と…そして、耐え難い飢餓感に襲われる」

俺は、正直にそう告げた。

この飢餓感のことだけは、誤魔化しようがない。

「飢餓感…? それは、一体…」

「…何かを、喰らいたくなるんです。それも、普通の食い物ではない、もっと…生々しい何かを」

俺の言葉に、村長の目が僅かに見開かれた。

「…なるほどな。それで、墓荒らしなどをしていたというわけか」

その声には、軽蔑の色が滲んでいる。

「…そうだ。だが、決して褒められたことではないと分かっている。それでも、そうでもしなければ、俺は…理性を失ってしまうかもしれなかった」

俺は、必死に訴えた。

この男に、俺の苦しみを少しでも理解してほしかった。


村長は、しばらく黙って俺の顔を見つめていたが、やがてため息をついた。

「…カイ殿。あんたのその力は、確かに強大じゃ。だが、それは同時に、非常に危険な力でもある。あんた自身にとっても、そして、あんたの周りの人間にとってもな」

「…分かっている」

「ならば、この村を今すぐ出て行くことだ。あんたのような存在を、これ以上この村に置いておくわけにはいかん」

村長の言葉は、冷たく、そして断固としていた。

やはり、追放か。

覚悟はしていたが、実際にそう告げられると、胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな虚しさを感じた。


「リリのことは…」

「リリさんのことは、心配いらん。わしらが責任を持って面倒を見る。あの子には、あんたのような『呪われた』存在ではなく、普通の人間として、穏やかに暮らしてほしいからのう」

呪われた存在。その言葉が、俺の心を抉る。

だが、反論はできない。俺は、実際に呪われているのだから。

「…分かりました。夜が明けたら、すぐにここを立ちます」

「うむ。それが賢明じゃろう。…それと、カイ殿」

村長は、そこで一度言葉を切り、真剣な眼差しで俺を見据えた。

「あんたがもし、本当に魔王を倒すという使命を帯びているのだとしたら…その力の使い方を、決して誤ってはならんぞ。一歩間違えれば、あんたは勇者ではなく、魔王そのものになりかねん」

その言葉は、まるで予言のように、俺の心に重く響いた。

魔王そのものに…俺が?

そんなことは、考えたくもない。

だが、人間を喰らい、その力に酔いしれている今の俺は、確かにそちら側へと足を踏み入れつつあるのかもしれない。


「…肝に銘じておきます」

俺は、そう答えるのが精一杯だった。

村長は、それ以上何も言わず、ただ静かに囲炉裏の火を見つめている。

俺は、一礼して村長の家を後にした。

外は、もうすっかり夜が明けていた。

朝の冷たい空気が、火照った身体に心地よい。

だが、俺の心は、鉛のように重かった。


俺が借りていた空き家に戻ると、リリはまだ眠っていた。

その寝顔は、天使のように無垢で、そして愛らしい。

この子に、俺の正体を知られるわけにはいかない。

そして、この子を、俺のような化け物の道連れにするわけにもいかない。

村長の言う通り、リリはここで、普通の人間として暮らすのが一番いいのかもしれない。

俺は、リリの頬をそっと撫でた。

「…元気でな、リリ。いつか、また会える日が来るまで…」

そう呟き、俺は小さな包みを彼女の枕元に置いた。

中には、俺が持っていたなけなしの金と、ギドからもらった干し肉の残りが入っている。

気休めにしかならないだろうが、それでも、何もないよりはマシだろう。


俺は、リリに気づかれないように、そっと家を抜け出した。

村の入り口では、ゴードンさんが一人で立っていた。

俺の姿を認めると、彼は複雑な表情で近づいてくる。

「カイ殿…村長から、話は聞いた」

「…そうですか」

「本当に、行ってしまうのか?」

「ああ。それが、この村のためでもあるし…俺自身のためでもある」

「…そうか。リリさんのことは、俺たちに任せてくれ。必ず、幸せにすると約束する」

ゴードンさんの目には、嘘はなかった。

この男なら、きっとリリを守ってくれるだろう。

「…頼みます」

俺は、深々と頭を下げた。


「カイ殿、最後に一つだけ聞かせてくれ」

ゴードンさんが、真剣な眼差しで俺を見つめる。

「あんたは…一体、どこへ行こうというんだ?」

どこへ、か。

俺にも、まだ分からない。

ただ、行かなければならない場所がある。そんな気がするだけだ。

「…さあな。風の吹くまま、気の向くまま、といったところだ」

俺は、わざと明るい口調で言った。

「ただ…やらなければならないことがある。それだけは、確かだ」

「そうか…達者でな、カイ殿」

ゴードンさんは、そう言って右手を差し出してきた。

俺は、一瞬ためらったが、やがてその手を強く握り返す。

彼の掌は、温かかった。

それが、俺がこの村で感じた、最後の人間的な温もりだったのかもしれない。


俺は、ゴードンさんに背を向け、村の門をくぐった。

振り返ることはしなかった。

振り返ってしまえば、リリへの想いが、この決意を鈍らせてしまうような気がしたからだ。

朝日が昇り、俺の影が長く伸びる。

これから、俺はどこへ向かうのか。

そして、この飢餓感を、どうやって満たしていくのか。

答えは、まだ見えない。

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