第8話
ただ、今は、リリを守る。それだけを考えていた。
夜の森を、俺は全速力で駆け抜けていた。先程ガルバスが言っていた「この数の魔物」という言葉が、頭の中で不吉に反響する。奴の口ぶりからして、ただのゴブリンや魔狼の群れではなさそうだ。もっと厄介で、そして数が多いに違いない。
リリは無事だろうか。あの小さな洞穴で、一人で怯えているのではないか。
俺が人間を喰らって力を増したように、魔物もまた人間を喰らって力を増す。リリのような無力な子供は、奴らにとっては格好の餌食だ。
考えただけで、腹の底から怒りがこみ上げてくる。
ガルバスとの戦いで消耗した体力は、あの不思議な温かい光のおかげでかなり回復していたが、精神的な疲労は残っている。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「リリ…! 無事でいてくれ…!」
息を切らしながら、俺は木々の間を縫うように進む。
鋭敏になった聴覚が、複数の魔物の唸り声や、地面を踏みしめる重い足音を捉え始めた。
近い。もう、洞穴のすぐ近くまで来ている!
俺は最後の力を振り絞り、速度を上げた。
洞穴の入り口が見えてきた。と同時に、数体の異形の影が洞穴を取り囲むように蠢いているのが目に入る。
あれは…オークか!? いや、オークよりもさらに体格が大きく、全身が黒い体毛で覆われている。手には巨大な棍棒や錆びた斧を握り、涎を垂らしながら洞穴の入り口を窺っている。
その数、五体。一体一体が、以前俺が森で遭遇したオークよりも明らかに強そうだ。
ブラックオーク、あるいはオーガに近い種かもしれん。
まずい。リリが中にいるとしたら、絶体絶命だ。
「そこをどけ、下郎ども!」
俺は叫びながら、一番近くにいたブラックオークの背後から斬りかかった。
人間を喰らったことで増強された脚力が、俺の身体を瞬時に加速させる。
「グォ!?」
不意を突かれたブラックオークは、反応する間もなく、俺の剣によって背中を深々と切り裂かれた。
だが、致命傷には至らない。奴の分厚い筋肉と硬い皮膚が、俺の剣の威力をいくらか殺いでいる。
しかし、それで十分だった。他の四体の注意が、一斉に俺へと向けられる。
「グガアアアアアッ!」
仲間を傷つけられたことに怒り狂ったのか、四体のブラックオークが咆哮を上げ、俺に襲いかかってきた。
「リリ! 聞こえるか! 大丈夫か!」
俺は、ブラックオークの攻撃を捌きながら、洞穴に向かって叫んだ。
返事はない。まさか、もう手遅れだったというのか…?
その考えが頭をよぎった瞬間、俺の全身から再びあの黒いオーラが立ち昇り始めた。
怒り。憎しみ。そして、後悔。
そんな負の感情が、この黒い力を増幅させているような気がした。
「お前らだけは…絶対に許さん…!」
俺は、獣のような唸り声を上げ、ブラックオークの群れへと突進した。
黒いオーラを纏った剣は、先程ガルバスと戦った時よりもさらに切れ味を増しているように感じられた。
ブラックオークの硬い皮膚も、分厚い筋肉も、今の俺の剣の前では紙切れ同然だった。
一撃で腕を斬り飛ばし、二撃目で首を刎ねる。
奴らの棍棒や斧による攻撃は、俺の強化された動体視力の前では鈍重に過ぎ、ことごとく空を切るか、あるいは鎧の上から浅い傷を与える程度しかできない。
それでも、数が多すぎる。
一体を倒しても、すぐに次の二体が左右から挟み撃ちにしてくる。
リリのことを考えると、長期戦は避けたい。早くこいつらを片付け、彼女の安否を確かめなければ。
「お兄ちゃん…!」
その時、洞穴の入り口から、リリのか細い声が聞こえた。
生きていた!
その事実に安堵すると同時に、俺の心に新たな焦りが生まれる。
彼女に、こんな戦いを見せるわけにはいかない。
「リリ! 危ないから、奥に隠れてろ!」
俺は叫びながら、ブラックオークの一体を蹴り飛ばし、洞穴の入り口から引き離す。
「でも…お兄ちゃんが…!」
「大丈夫だ! すぐに終わらせる!」
俺は、リリを安心させるように力強く言った。
そして、残りのブラックオークたちに向き直る。あと三体。
こいつらをできるだけ早く、そして確実に仕留める。
黒いオーラが、さらに勢いを増す。
俺の意識が、どこか遠のいていくような感覚。まるで、この力が俺の身体を乗っ取ろうとしているかのようだ。
だが、今はそれでいい。この力を完全に解放し、目の前の敵を殲滅する。
「うおおおおおおおっ!」
俺は再び雄叫びを上げ、ブラックオークの一体に飛びかかった。
剣が、肉を断ち、骨を砕く感触。
返り血が、俺の視界を赤く染める。
もはや、自分が何をしているのか、半分も理解していなかったのかもしれない。
ただ、目の前の敵を破壊したいという、純粋な衝動だけが俺を突き動かしていた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
気づけば、俺の周りにはブラックオークたちの無残な死体が転がっていた。
俺は、肩で大きく息をしながら、その場に立ち尽くす。
黒いオーラは、いつの間にか消えていた。
身体は酷く消耗し、あちこちが痛む。だが、致命的な傷はないようだ。
「…終わった…のか…?」
呟いた言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。
「お兄ちゃん…!」
リリが、洞穴から飛び出してきて、俺に抱きついてきた。
その小さな身体は、恐怖で震えている。
「大丈夫か、リリ! 怪我はないか!?」
「う、うん…お兄ちゃんこそ…血が…」
リリは、俺の鎧や顔についた返り血を見て、顔を青くしている。
「ああ、これは奴らの血だ。俺は平気だよ」
俺は、リリを安心させようと、できるだけ優しい声で言った。
だが、その手は微かに震えていた。
先程の戦闘で、俺は自分を見失いかけていた。あの黒いオーラに支配され、ただの破壊機械になりかけていたのだ。
もし、リリの声が聞こえなかったら、俺はどうなっていたか分からない。
「お兄ちゃん…ありがとう…助けてくれて…」
リリは、俺の胸に顔を埋め、小さな声で言った。
その言葉が、俺の心に温かく染み渡る。
この子のために戦ったのだ。この子を守れたのだ。
それだけで、今の俺には十分だった。
「…いいんだ。もう大丈夫だから」
俺は、リリの小さな頭をそっと撫でた。
その時、俺の腹の底から、再びあの忌まわしい飢餓感が湧き上がってきた。
ブラックオークを数体倒した程度では、この渇きは全く癒えていなかったのだ。
まずい。リリの前で、この飢えを悟られるわけにはいかない。
俺は、リリからそっと身体を離した。
「リリ、この場所ももう安全じゃない。すぐにここを離れよう」
「え…でも、どこへ…?」
「分からない。だが、もっと安全な場所があるはずだ。俺が必ず見つけてやる」
俺の言葉に、リリは不安そうな表情を浮かべたが、それでもこくりと頷いた。
彼女は、もう俺を信頼してくれているのだろう。
その信頼を、俺は決して裏切るわけにはいかない。
倒したブラックオークの死骸に目をやる。
こいつらを喰らえば、多少は飢えを凌げるだろうか。
いや、駄目だ。リリの前で、そんなおぞましい姿を見せるわけにはいかない。
それに、魔物を喰らったところで、この根本的な渇きは癒えないのだ。
人間を…人間を喰らわなければ。
その考えが、再び俺の頭を支配し始める。
「お兄ちゃん…? どうかしたの…?」
リリが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
俺は慌てて首を振り、無理に笑顔を作る。
「いや、何でもない。さあ、行こう」
俺たちは、ブラックオークの死体が転がる洞穴の前を後にし、再び夜の森へと足を踏み入れた。
リリの手をしっかりと握り、俺は先導する。
どこへ向かうべきか、具体的な当てもない。
ただ、この飢餓感から逃れるように、そしてリリを安全な場所へ導くために、俺は必死に足を動かし続けた。
時折、リリが疲れた様子を見せると、俺は彼女を背負って歩いた。
人間を喰らったことで得た力は、こんな時にも役に立つ。皮肉なものだ。
夜が白み始め、東の空が明るくなってきた頃、俺たちは森を抜け、小さな丘の上に出た。
そこから見下ろすと、眼下に小さな村が見えた。
煙突からは白い煙が立ち上り、畑には人の姿も見える。
生きている村だ。
そして、そこには…人間がいる。
俺の飢餓感が、一気に警鐘を鳴らし始めた。
「お兄ちゃん、あれ…村だよ!」
リリが、嬉しそうに声を上げた。
「ああ…そうだな」
俺の声は、自分でも分かるほどに硬くなっていた。
あの村へ行けば、食料や情報を手に入れることができるかもしれない。リリを安全な場所に預けることもできるかもしれない。
だが、同時に、俺にとっては最大の誘惑が待ち受けている場所でもある。
俺は、あの村人たちを前にして、理性を保つことができるだろうか。
この飢えた獣の本性を、抑え込むことができるだろうか。
自信がなかった。
「お兄ちゃん、行ってみようよ!」
リリは、期待に満ちた目で俺を見上げる。
その無邪気な瞳が、俺の罪悪感を抉る。
俺は、この子を裏切ることになるかもしれないのだ。
「…そうだな。行ってみるか」
結局、俺はリリの言葉に逆らうことができなかった。
そして、心のどこかで、それを望んでいる自分もいたのかもしれない。
あの村で、この渇きを癒せるかもしれないと。
俺たちは、丘を下り、その村へと向かって歩き始めた。
一歩進むごとに、飢餓感はますます強くなっていく。
俺の額には、冷たい汗が滲んでいた。
リリに気づかれないように、俺は必死で平静を装う。
だが、もう限界が近いことは、自分でも分かっていた。
この村で、俺は一体どうなってしまうのだろうか。
そして、リリを…この子だけは、絶対に守り抜くことができるのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、俺は運命の村へと、その足を一歩一歩進めていた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。それは、期待の音か、それとも破滅への序曲か。
もう、どちらでも構わないのかもしれない。
ただ、この渇きから解放されたい。その一心だった。
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