第9話

丘を下り、村へと続く一本道を進む。リリは俺の隣で、時折不安そうな顔をしながらも、村への期待感を滲ませていた。

その小さな手を握る俺の掌は、冷たい汗でじっとりと濡れている。

村が近づくにつれて、人間の匂いが濃くなっていく。それは、俺の飢餓感を容赦なく刺激し、理性の箍を軋ませた。

唾液が絶えず口の中に湧き、喉がゴクリと鳴るのを抑えられない。

視界の端が、時折赤く染まるような感覚。これはまずい兆候だ。

あの三人の男たちを襲った時と、同じ。

俺は、必死でリリに意識を集中しようとした。この子を守るんだ。そのために、俺はまだ人間でいなければならない。


村の入り口には、粗末だが頑丈そうな木の門があった。門の上には見張り台のようなものがあり、二人の男が槍を手にこちらを見下ろしている。

「止まれ! 何者だ!」

見張り台から、鋭い声が飛んできた。

俺はリリの手を強く握り、立ち止まる。

「旅の者だ! この子を連れている! 少し、村で休ませてもらえないだろうか!」

俺はできるだけ大きな声で、しかし威圧的にならないように注意しながら答えた。

見張りたちは、俺とリリの姿を値踏みするように見ている。

やがて、一人が隣の男に何かを耳打ちし、縄梯子のようなものがゆっくりと下ろされてきた。

「村長がお話を聞いてくださるそうだ。一人ずつ登ってこい。妙な真似はするなよ」

その言葉には、警戒の色が濃く滲んでいた。


まず俺が先に登り、次にリリを抱きかかえるようにして手伝った。

見張り台の上では、さらに二人の屈強な男が待ち構えていた。彼らの目は、俺のボロボロの鎧や、腰に差した剣を鋭く観察している。

「お前さん、名は?」

年嵩の方の男が、低い声で尋ねてきた。

「カイだ。こっちはリリ。森でゴブリンに襲われた村の生き残りらしい」

俺の言葉に、男たちの顔に僅かな同情の色が浮かんだ。

「そうか…あの辺りの村は、最近ひどい目に遭っていると聞く。リリと言ったな、よく無事だった」

男はリリに優しく声をかけたが、すぐに俺へと視線を戻した。

「カイとやら。お前さんは、一体何者だ? 見たところ、ただの旅人には見えんが」

その目は、俺の力の片鱗でも見抜こうとしているかのようだ。

「…元は傭兵だった。今は、しがない流れ者だ」

「傭兵、ねえ…」

男は意味ありげに呟き、俺たちを村の中へと案内した。


村は、想像していたよりも活気があった。

広場では子供たちが走り回り、女たちは井戸端で洗濯をしている。男たちは畑仕事に精を出し、家畜の鳴き声も聞こえる。

平和な光景だ。

だが、俺にとっては、この平和な光景そのものが、地獄の入り口にも見えた。

無数の「食料」が、無防備に動き回っているのだから。

飢餓感が、喉元までせり上がってくるのを感じる。

俺は、必死でそれを飲み下し、リリの手をさらに強く握った。

この子がいる。この子の前で、俺は決して本性を現すわけにはいかない。


村長の家は、村の中央にある一番大きな家だった。

中に入ると、白髪の老人が穏やかな目で俺たちを迎えてくれた。

「ようこそ、旅の方。話は聞きましたぞ。リリさんとやら、大変な目に遭われましたな」

村長は、リリに温かい飲み物を勧め、俺にも席を促した。

「カイ殿とやら。この子をここまで連れてきてくださり、感謝いたします」

「…当然のことをしたまでです」

「して、カイ殿は、これからどうなさるおつもりで?」

村長の目は、穏やかだが、その奥には鋭い光が宿っているように見えた。

俺は、一瞬言葉に詰まった。

リリをこの村に預けるべきか。それが、彼女にとっては一番安全な道なのかもしれない。

だが、そうすれば、俺は一人になる。

飢餓感に歯止めをきかせるものが、何もなくなってしまう。

それでも…リリの安全が第一だ。


「…この子が、もしこの村で受け入れてもらえるのなら、俺は…」

俺がそこまで言いかけた時、リリが俺の服の裾を強く掴んだ。

「いや…! お兄ちゃんと一緒がいい…!」

その瞳は、涙で潤んでいる。

俺の心が、激しく揺さぶられた。

この子を、見捨てることができるのか?

いや、見捨てるわけではない。安全な場所に預けるだけだ。

そう自分に言い聞かせようとしても、リリの小さな手の温もりが、それを許さない。

「リリ…」

「お兄ちゃんがいなかったら、私…もう、どうなってもいい…!」

その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。

この子は、俺を頼っている。俺を、必要としている。

その信頼を、裏切ることなどできるはずがない。


「…村長。申し訳ありませんが、この子は俺が責任を持って守ります。ただ、しばらくの間、この村で休ませていただくことはできないでしょうか。食料も底をついておりまして…」

俺の言葉に、村長はしばらく黙って俺とリリの顔を交互に見ていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「…分かりました。カイ殿がそこまでおっしゃるのなら、無理強いはいたしますまい。リリさんの心の傷も、まだ癒えてはおらぬでしょう。しばらくは、この村でゆっくりと休まれるとよろしい」

「…ありがとうございます」

「ただし、一つだけ条件があります」

村長の目が、再び鋭さを増した。

「この村には、この村の掟があります。それを乱すようなことは、決して許しませんぞ。もし、そのようなことがあれば…」

その言葉の続きは、言われなくても分かった。

俺は、この村ではおとなしくしていなければならない。

そして、この飢餓感を、決して悟られてはならない。


俺たちは、村の外れにある空き家を借り受けることになった。

質素だが、雨風を凌ぐには十分な家だった。

リリは、久しぶりのまともな寝床に、すぐに安心したように眠りについた。

俺は、その寝顔を見つめながら、一人、終わりのない葛藤と戦っていた。

この村には、人間がいる。大勢いる。

その誰もが、俺にとっては「食料」に見えてしまう。

リリの寝息を聞きながら、俺は何度も、自分の腕に爪を立てた。

痛みで、このおぞましい食欲を誤魔化そうとしたのだ。

だが、そんなものは気休めにしかならない。

飢餓感は、じわじわと俺の理性を蝕んでいく。


翌日、俺は村の男たちと一緒に、見回りと称して村の周辺を探索することになった。

表向きは、村の安全のため。だが、俺の本当の目的は、この村の周辺に「食料」となる人間がいないか、そして、もしもの時にリリを連れて逃げられる経路を確認するためだった。

そんな自分の醜い考えに吐き気がするが、そうでもしなければ、俺はいつリリ自身に手をかけてしまうか分からない。

「カイ殿、昨夜はよく眠れたかな?」

一緒に見回りをするのは、昨日見張り台にいた年嵩の男、ゴードンと名乗った男だった。

「ああ、おかげさまで」

「そうか。この村も、最近は物騒でな。カイ殿のような腕の立つ方がいてくれると、心強い」

ゴードンの言葉は、社交辞令半分、本気半分といったところだろう。

俺の正体は、まだ彼らには知られていない。

だが、いつまで隠し通せるか。


見回りの途中、俺たちは森の中でいくつかの獣の罠が壊されているのを発見した。

「ちっ、またゴブリンどもの仕業か…!」

ゴードンが、苦々しげに吐き捨てる。

「奴ら、最近また活動が活発になってきているようだ。村の食料を狙っているに違いねえ」

「ゴブリンですか…」

「ああ。数自体はそれほどでもないんだが、狡猾でな。夜中にこっそり忍び込んでは、家畜や畑を荒らしていくんだ」

その話を聞いて、俺の頭に一つの考えが浮かんだ。

ゴブリンを狩る。

それを喰らっても、俺のレベルアップには繋がらない。だが、一時的にでも飢えを凌ぐことはできるかもしれない。

そして何より、村人たちの役に立てば、俺への警戒心も少しは解けるだろう。

リリのためにも、この村に少しでも長く滞在できる環境を作る必要がある。


「ゴードンさん、もしよかったら、俺もそのゴブリン退治を手伝いましょうか?」

俺の申し出に、ゴードンは意外そうな顔をしたが、すぐに表情を明るくした。

「本当か、カイ殿! そいつは助かる! 村の若い衆だけでは、手が足りなくて困っていたところなんだ!」

「いえ、これも何かの縁ですから」

俺は、できるだけ人好きのする笑顔を作って答えた。

心の中では、ゴブリンの肉の味を思い出し、顔を顰めていたというのに。

だが、今はそんなことを言っている場合ではない。

この飢餓感を少しでも紛らわせるためには、どんな不味いものでも喰らうしかないのだ。

そして、あわよくば…ゴブリンの巣の近くに、別の「獲物」がいるかもしれない。

そんな期待も、心の片隅にはあった。


俺とゴードンは、他の村人たちと共に、ゴブリンの痕跡を追って森の奥へと入っていった。

足跡や糞の状態から見て、巣はそう遠くない場所にありそうだ。

「カイ殿、本当に大丈夫か? ゴブリンとはいえ、数が集まると厄介だぞ」

ゴードンが、心配そうに声をかけてくる。

「問題ありません。俺に任せてください」

俺は、自信ありげに答えた。

人間を三人喰らった今の俺にとって、ゴブリンの群れなど恐れるに足りない。

むしろ、早く奴らに遭遇し、この鬱憤を晴らしたいとさえ思っていた。

もちろん、その鬱憤の本当の原因は、この忌まわしい飢餓感なのだが。


やがて、俺たちは小さな洞窟の入り口を発見した。

中からは、ゴブリン特有の甲高い声と、獣臭い匂いが漂ってくる。

間違いなく、ここが奴らの巣だ。

「よし、俺とカイ殿で中に突入する。他の者は、入り口で見張っていてくれ。逃げ出す奴がいたら、仕留めろ!」

ゴードンが、他の村人たちに指示を出す。

そして、俺に向き直り、真剣な表情で言った。

「カイ殿、無理はするなよ。危険だと感じたら、すぐに退却だ」

「分かっています」

俺は頷き、剣を抜き放った。

さあ、狩りの時間だ。

このゴブリンどもを血祭りにあげ、そして、あわよくば…

俺の思考は、またしてもおぞましい方向へと滑り落ちていく。

リリの顔が脳裏をよぎり、俺はそれを必死で振り払った。

今は、目の前の敵に集中するんだ。


俺とゴードンは、洞窟の中へと慎重に足を踏み入れた。

中は薄暗く、湿った空気が漂っている。

松明の明かりを頼りに奥へ進むと、少し開けた場所に出た。

そこには、十数匹のゴブリンがいた。

彼らは、俺たちの姿を認めると、一斉に武器を構え、威嚇の声を上げてくる。

「ギギギギィィィ!!」

「ニンゲン! コロセ! コロセ!」

その数に、ゴードンが僅かに怯んだのが分かった。

だが、俺は冷静だった。

この程度の数、問題ない。


「ゴードンさん、あなたは後ろから援護を。俺が前に出ます」

俺はそう言うと、ゴブリンの群れへと真っ直ぐに突進していった。

「お、おい、カイ殿! 無茶だ!」

ゴードンの制止の声が背後から聞こえたが、俺はもう止まらなかった。

人間を喰らったことで得た圧倒的な力が、俺の身体を突き動かす。

ゴブリンたちの攻撃は、まるで子供の遊びのように見えた。

俺はそれらを軽々とかわし、あるいは弾き返し、次々と奴らを斬り伏せていく。

剣が一閃するたびに、ゴブリンの首が飛び、手足が舞う。

緑色の血飛沫が、洞窟の壁を汚していく。

その光景は、まさしく地獄絵図だった。

だが、俺の心は不思議なほどに冷静で、そして高揚していた。

これが、俺の力。これが、俺の戦い方。


「す…すごい…」

背後から、ゴードンの呆然とした声が聞こえる。

彼には、今の俺がどのように見えているのだろうか。

英雄か、それとも、ただの殺戮機械か。

どちらでも構わない。俺は、ただ、この力を振るうだけだ。


あっという間に、洞窟内のゴブリンは半数以下に減っていた。

残ったゴブリンたちは、俺の圧倒的な強さに恐怖し、逃げ腰になっている。

だが、俺はそれを許さなかった。

一匹残らず、この場で始末する。

それが、この村への手土産代わりだ。

そして、俺自身の飢えを、ほんの少しでも紛らわせるために。


最後のゴブリンを斬り捨てた時、洞窟の中には静寂が戻っていた。

俺は、肩で息をしながら、周囲に転がるゴブリンの死骸を見下ろす。

「…終わったか…」

「カイ殿…あんた、一体…」

ゴードンが、信じられないといった表情で俺に近づいてきた。

その目には、賞賛と同時に、明らかな畏怖の色が浮かんでいる。

無理もないだろう。今の俺の戦いぶりは、常軌を逸していたはずだから。


「…少し、荒っぽすぎましたか?」

俺は、わざととぼけたように言った。

「荒っぽいどころじゃない…! あんた、本当にただの傭兵なのか…?」

「ええ、まあ」

俺は曖昧に笑い、ゴブリンの死骸の一つに近づいた。

そして、躊躇なく、その肉にかじりつく。

「お、おい、カイ殿!? 何を…!?」

ゴードンが、驚愕の声を上げた。

俺は、口の周りを緑色の血で汚しながら、彼に向き直る。

「…少し、腹が減っていて。ゴブリンの肉は、あまり美味くはないですが、ないよりはマシですから」

その言葉と、俺の異様な姿に、ゴードンは完全に言葉を失っていた。

これでいい。

俺の異常性を、少しずつでも彼らに認識させていかなければ。

そうすれば、いつか俺が本当に人間を喰らう姿を見られても、彼らの驚きは少しはマシになるかもしれない。

いや、そんなことはないか。

どちらにせよ、俺はもう、普通の人間として彼らと接することはできないのだから。


俺は、洞窟内のゴブリンの死骸を、手当たり次第に喰らい始めた。

味は酷いものだったが、それでも、僅かながら飢餓感が和らいでいくのを感じる。

だが、やはり、人間を喰らった時のような充足感はない。

これは、ただの「繋ぎ」でしかない。

本当の「食事」は、まだ先にある。

そんなことを考えていると、ふと、洞窟の奥から、微かな物音が聞こえてきた。

まだ、生き残りがいるのか?

それとも、何か別の…?

俺は、喰らう手を止め、剣を握り直し、音のする方へと慎重に近づいていった。

ゴードンは、まだ呆然とその場に立ち尽くしている。

彼のことなど、今の俺にはどうでもよかった。

ただ、この洞窟の奥にある「何か」が、俺の興味を強く引いていた。

それが、新たな力に繋がるものなのか、それとも、新たな絶望に繋がるものなのか。

確かめずにはいられない。

俺の足は、自然と洞窟の暗がりへと向かっていた。

この先に何が待っているのか、期待と不安が入り混じる中、俺は一歩、また一歩と進んでいく。

この渇きを癒すものが、そこにあるかもしれないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る