第2話

身体の奥底から、経験したことのない熱量が奔流となって駆け巡る。

先程まで全身を苛んでいた激痛は嘘のように消え去り、鉛のように重かった四肢には、逆に軽すぎるほどの力が満ち溢れていた。

砕けていたはずの鎧の下、皮膚の表面を確かめる。裂傷も打撲痕も、まるで最初から存在しなかったかのように滑らかだ。左腕も…そうだ、動く。自由に、何のわだかまりもなく。

これが…俺の身に起こったことなのか?


目の前には、ロナが横たわっている。

その肌は生気を失い、驚くほどに色褪せていた。まるで、俺がその生命力を全て吸い尽くしてしまったかのように。

事実、そうなのだろう。

彼女の温もりを、その血肉を貪った記憶は、おぞましい感触と共にまだ生々しく舌に残っている。

「あ…ああ……ロナ……」

絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。

こみ上げてくる吐き気と、それとは裏腹に身体の芯から湧き上がる得体の知れない高揚感。相反する感情が渦を巻き、俺の精神をぐちゃぐちゃにかき乱す。


俺は、何ということをしてしまったんだ。

彼女は仲間だった。かけがえのない、唯一無二の。

その仲間を…俺は、喰った。

生きるために? 力を得るために?

どんな理由をつけたところで、この行為の罪深さが変わるわけではない。

俺はもはや、人間ではないのかもしれない。ただの人を喰らう化け物だ。


しかし、この漲る力は何だ?

今まで感じたことのない、圧倒的な万能感。視界は異常なほどに澄み渡り、遠くの物陰で蠢くネズミの動きすら克明に捉えることができる。聴覚もそうだ。風の音、燃え残った焚火のはぜる音、そして…遠くで響く、魔族のものらしき咆哮。それら全てが、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に聞こえる。

これが、勇者の力だとでもいうのか。

だとしたら、あまりにも…あまりにも呪われた力ではないか。


ロナの亡骸から目を逸らし、俺はゆっくりと立ち上がった。

身体の軽さに改めて驚く。まるで羽毛にでもなったかのようだ。

周囲を見渡す。ここは地獄だ。折り重なる死体の山、黒煙を上げる集落の残骸、そして鼻を突く血と肉の焼ける臭い。

この惨状を作り出したのは魔王軍。奴らを、俺は憎む。心の底から。

ロナを死に追いやったのも、俺にこんな呪われた力を目覚めさせたのも、全て奴らのせいだ。


この力…もし、これが本当に戦うための力なのだとしたら。

ロナの犠牲を無駄にしないためには、俺はこの力を使ってでも生き延び、そして戦わなければならないのかもしれない。

だが、この力を維持し、さらに高めるには、どうすればいい?

まさか、また…人間を喰らうというのか?

想像しただけで、胃の腑がひっくり返りそうになる。


ふと、視界の端に、異形の死体が映った。

緑色の分厚い皮膚、豚のような醜悪な顔つき。魔族の兵士だ。この戦場で無数に命を落とした、敵の一人。

そいつは、腹を槍で貫かれ、絶命しているようだった。まだ新しい。

人間を喰らって、これほどの変化が俺の身に起きた。

ならば、魔族ではどうなのだ…?

同じように力を得られるのか? あるいは、この言いようのない飢餓感、この渇きを少しでも癒すことができるのか?


確かめなければならない。

このままでは、いずれまた強烈な飢餓感に襲われるだろう。その時、もし手元に「食料」がなければ、俺はどうなってしまう?

理性が吹き飛び、見境なく誰かを襲う化け物に成り果てるのだろうか。

それだけは、避けなければならない。

もし、魔族を喰らうことでこの力を維持できるのなら…人間を犠牲にするよりは、ずっと…いや、それでもおぞましい行為に変わりはないが。


俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。

周囲に他の生存者の気配がないことを、極限まで高まった感覚で確認する。

大丈夫だ、誰も見ていない。いや、たとえ誰かが見ていたとしても、今の俺には関係ないのかもしれない。

俺は、もう普通ではないのだから。


意を決し、その魔族の死体に近づいた。

鼻を突く獣のような臭い。人間とは明らかに異なる、硬質で冷たい感触の皮膚。

こいつらを殺すことには何の躊躇もなかった。だが、これを喰らうとなると話は別だ。

本能的な嫌悪感が全身を貫く。


しかし、ロナを喰らった時のあの感覚…力が漲り、魂が満たされるような、あの抗いがたい高揚感を思い出せ。

あれがなければ、俺は今頃あの泥濘の中で冷たくなっていたはずだ。

生きるためには、喰らわねばならない。

それが人間であろうと、魔族であろうと。


俺は震える手で、魔族の鎧の隙間から剥き出しになった腕に触れた。

硬い。そして冷たい。

目を閉じ、一気に歯を立てた。

ぶちり、と嫌な音を立てて皮膚が裂ける。口の中に広がるのは、鉄錆のような血の味と、形容しがたい獣の臭み。

吐きそうだ。人間とは全く違う。不快極まりない味と食感。

それでも、俺は無理やりそれを引き裂き、咀嚼し、飲み下した。


身体に何か変化はあるか…?

僅かながら、生気のようなものが腹の底に溜まるのを感じる。

先程までの強烈な飢餓感が、ほんの少しだけ…本当に、ほんの僅かだが、和らいだような気もする。

傷は…いや、ロナを喰らった時点で完全に癒えているから、これ以上の変化は望めないか。

体力は…多少なりとも回復したのかもしれない。泥濘の中を長時間彷徨い、消耗しきっていた身体に、微かな活力が戻ってきたような。


だが、それだけだ。

ロナを喰らった時のような、あの劇的な力の奔流は感じられない。

魂が満たされるような感覚も、身体能力が飛躍的に向上するような実感も、全くない。

ただ、不味い肉を腹に収めたという、不快な事実だけが残った。

「…何だ……これは……」

思わず声が漏れる。

ロナの時とは、明らかに違う。得られるものの「質」が、決定的に異なる。

これは、レベルアップなどではない。ただの、栄養補給…いや、それ以下だ。

この程度の効果しかないのであれば、この飢餓感を根本的に満たすことは不可能だろう。

これでは駄目だ。これでは、俺はすぐにまた飢える。


まさか…本当に…?

この力は、「人間」でなければ真価を発揮しないというのか?

そんな馬鹿な。そんな残酷なことがあってたまるか。

それでは、俺はこれから先も、人間を狩り続けなければならないというのか。

魔王を倒すために? 世界を救うために?

そのために、俺は同族を喰らう化け物になれと?


絶望感が、冷たい霧のように心を覆い始める。

もしそれが真実なら、俺の運命はあまりにも過酷だ。

ロナの最期の言葉が蘇る。「逃げて…」と。彼女は、俺に生き延びてほしかったはずだ。

だが、こんな形で生き延びることを、彼女が望んだだろうか。

いや、望むはずがない。


それでも、俺は生きている。

この忌まわしい力と共に。

そして、この力がある限り、俺はまだ戦えるのかもしれない。

魔王軍の兵士が一人、また一人と俺の前に現れるなら、そいつらを喰らって飢えを凌ぎ、力を僅かでも維持することはできるかもしれない。

だが、それではジリ貧だ。真の成長は望めない。

いずれは、より強大な敵が現れるだろう。その時、この中途半端な力で何ができる?


この地獄のような戦場から、一刻も早く離脱しなければならない。それは確かだ。

ここで野垂れ死にするわけにはいかない。

そして、生き延びるためには、そしてもし本当に魔王を倒すという途方もない目的を追うのならば、俺はさらに力を渇望しなければならない。

その源が、もし本当に「人間」に限定されるのだとしたら…俺は、どうすればいい?


考えただけで頭がおかしくなりそうだ。

だが、今は感傷に浸っている暇はない。

まずは安全な場所を確保し、情報を集める。それが先決だ。

そして、最も根源的な問題…この飢餓感をどうするか。次なる「食料」をどう確保するか。

その答えを見つけなければ、俺に未来はない。


ロナの亡骸に、もう一度向き直る。

「…すまない、ロナ。俺は…行かなければならない」

彼女の犠牲を、決して無駄にはしない。

たとえこの身がどれほど汚れても、俺は生き延びて、お前をこんな目に遭わせた奴らを、必ず…!

心の中で強く誓い、俺は踵を返した。


どこへ向かうべきか。

この戦場は広大だ。どちらへ進んでも、すぐに安全な場所が見つかるとは思えない。

だが、じっとしていても状況は悪化するだけだ。

俺は、先程魔族の咆哮が聞こえた方向とは逆の方角へ、慎重に歩き始めた。

高まった五感が、周囲のあらゆる情報を拾い上げる。風の匂い、地面の感触、遠くの微かな物音。

それは、以前の俺では到底感知できなかったものばかりだ。

この力は、確かに俺を「人間」ではない何かへと変えつつある。


歩きながらも、思考は止まらない。

ロナへの罪悪感。自分が怪物になってしまったのではないかという恐怖。

そして、それでも生き延びようとする、しぶとい生存本能。

この力を誰かに知られたら、どうなるだろうか。

人々は俺を英雄と呼ぶだろうか? いや、ありえない。間違いなく化け物として恐れられ、排除されようとするだろう。

俺は、この秘密を誰にも知られずに、たった一人で抱えて生きていかなければならないのか。

その孤独感は、戦場の寒さよりも深く、俺の心を凍えさせる。


一体、この力は何なのだ。

古の預言に記された「勇者」の力とは、本当にこのようなものだったのか。

もしそうなら、歴代の勇者たちもまた、同じ苦しみを味わってきたというのだろうか。

いや、そんなはずはない。彼らは英雄として語り継がれている。人喰いなどというおぞましい記録はどこにもない。

ならば、俺だけが特別なのか? 何かの間違いで、歪んだ形で力が発現してしまったというのか?


分からない。何も分からない。

ただ一つ確かなのは、俺がこの力をコントロールし、理解しなければ、いずれ破滅するということだけだ。

そして、その理解のためには、さらなる「試行」が必要になるのかもしれない。

それが何を意味するのか…考えたくもない。


少し開けた場所に出た。

そこには、戦闘に巻き込まれたのであろう、数台の荷馬車が横転し、荷物が散乱していた。

人間の姿は見当たらない。皆殺されたか、あるいは逃げ延びたか。

荷物の中には、食料らしきものが入った袋もあった。干し肉や硬いパン。

魔族の肉よりは、ずっとマシだろう。

俺はそれに手を伸ばし、貪るように口に詰め込んだ。

味はほとんど感じなかったが、空っぽだった胃が満たされていく感覚だけはあった。

だが、やはり、あの根源的な飢餓感が消えることはない。

これは、ただの空腹とは違う。もっと、魂が何かを求めているような、そんな渇きだ。


荷馬車の一つに、小さな革袋が落ちているのを見つけた。

中には、数枚の銀貨と、銅貨が数十枚。これが今の俺の全財産か。

金があれば、どこかの村で食料や情報を手に入れることができるかもしれない。

だが、今の俺のこの姿で、人前に出られるだろうか。

血と泥に汚れ、鎧は所々砕けている。何よりも、俺自身の内面から滲み出る何かが、普通の人間とは違うことを感じ取られてしまうのではないか。


そんなことを考えていると、ふと、風に乗って微かな匂いが運ばれてきた。

血の匂いだ。それも、新しい。

そして、人間のものに近い…だが、どこか違う。

俺の感覚が、その匂いの発生源を捉えようと鋭敏になる。

ここからそう遠くない。茂みの向こう側か。


警戒しながら、音を立てずにそちらへ近づいていく。

茂みを抜けると、そこには数人の男たちが倒れていた。

服装からして、おそらく傭兵か、あるいはどこかの私兵だろう。皆、一様に喉を掻き切られている。

そして、その傍らには…!

目を疑った。

それは、人間ではなかった。

小柄だが、筋骨隆々とした身体。緑がかった灰色の肌。醜く歪んだ顔には、鋭い牙が覗いている。

ゴブリン…いや、それよりも少し大きい。ホブゴブリンか?

そいつが、倒れている人間の兵士の亡骸に跨り、その肉を貪り食らっていた。

仲間割れか、あるいは死体漁りか。どちらにせよ、胸糞の悪い光景だ。


ホブゴブリンは、まだ俺の存在には気づいていない。

食事に夢中のようだ。

俺の中で、何かがカチリと音を立てた。

怒り? 嫌悪? それもある。

だが、それ以上に強い感情…それは、興味だった。

こいつは、人間を喰らっている。

俺と同じように。

もし、こいつを倒し、こいつを喰らったとしたら…?

人間を直接喰らうよりは、罪悪感が薄いかもしれない。

そして、何かしらの「情報」が得られるかもしれない。この呪われた力に関する。


馬鹿な考えだと思う。

だが、俺はもう、まともな思考回路を持ち合わせていないのかもしれない。

この力は、俺の倫理観を少しずつ破壊し始めている。

俺はゆっくりと剣を抜き放った。

音もなく、ホブゴブリンの背後へ回り込む。

奴はまだ気づかない。


今だ。

一気に踏み込み、剣を奴の首筋へ叩き込む。

「ギャッ!?」

短い悲鳴を上げ、ホブゴブリンはこちらを振り返ろうとする。

だが、遅い。俺の剣は、その太い首を半分以上も断ち切っていた。

緑色の血が噴き出し、奴は前のめりに倒れ伏す。

あっけない最期だった。


倒したホブゴブリンの亡骸を見下ろす。

こいつは、人間を喰らっていた。

ならば、こいつの肉には、人間の生命力が何らかの形で残っているのではないか?

そんな期待が、胸の奥で微かに芽生える。

もしそうなら…もし、これでもロナの時と同じような効果が得られるのなら…!


唾を飲み込み、俺はホブゴブリンの死体に手を伸ばした。

その肉は、魔族の時と同じように硬く、そして不快な臭いがした。

だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

俺は、その肉片にかじりついた。

不味い。ひたすらに不味い。

だが、喰い進めるうちに、微かな変化を感じ始めた。

魔族の肉を喰った時よりも、ほんの少しだけ…本当に僅かだが、身体の奥が温まるような感覚。

そして、飢餓感が、先程よりもはっきりと和らいでいく。


しかし、やはりロナの時とは比べ物にならない。

力が爆発的に増大するような感覚も、魂が満たされるような高揚感もない。

ただ、ほんの少しだけ、飢えがマシになった。それだけだ。

「…やはり…これも、違うのか……」

落胆と、そしてわずかな安堵が入り混じる。

人間を喰らわずに済むかもしれないという淡い期待は打ち砕かれたが、同時に、このホブゴブリンを喰らったことで劇的な変化がなかったことに、どこかホッとしている自分もいた。

もしこれで人間と同じ効果があったなら、俺は本気で化け物への道を進んでしまうところだったかもしれない。


だが、この試行は無駄ではなかった。

魔族よりも、この「人間を喰らった魔物」の方が、ほんの少しだけだが、俺の渇きを癒す効果がある。

それは、つまり…やはり「人間」の生命力こそが、この力の鍵だということを裏付けているのではないか。

間接的に摂取しただけでも、これだけの違いがあるのだから。


俺は、その場に落ちていた兵士たちの亡骸に目をやった。

彼らは、もう助からない。

そして、俺は飢えている。

このホブゴブリンを喰らっただけでは、到底足りない。

もし、彼らの肉を喰らえば…?

ロナの時のように、力が得られるのだろうか。

そして、俺は…その誘惑に抗うことができるのだろうか。

頭の中で、理性の声と本能の叫びが激しくぶつかり合う。

俺は、一体どうすればいい…?

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